「ただいまー」

学校から帰宅後、朝の約束通りに洗濯を取り込み自室へ戻ると、机の上にあるキラキラと輝くそれが一番に目に入った。やっぱりだ! 中身が増えている!

ガラスの器には朝の物の他に二つ、ガラス玉が増えていた。二つといえば思い当たる節がある。授業中に隣の席の子が落とした消しゴムを拾った時と、忘れ物をした友達に教科書を貸した時。その時に丁度、あの朝のカランという音が鳴ったのだ。僕にしか聞こえていないようだったけど、これはもう間違いない。あの音は器に幸せが増える音!

もしこの器が一杯になった時、一体どんな事が起こるのだろう。本当に僕の願いが叶うのだろうか。普段通りに生活して三つも増えたのだから、もっと積極的に動いたらもっとたくさん貯まるはず。明日からはどんどんありがとうを集めにいこう。この調子ならきっとすぐに一杯になるはずだ!

——と、意気揚々に次の日から動き出したはいいものの、一週間が経った今、僕は現状に満足出来ていなかった。結果はいまいち。思っていたよりガラス玉は増えなかったのである。

ありがとうと言われる機会は多くあった。返ってきた宿題のノートを配ったり、授業の後の黒板を消したり、実験の後片付けを代わったり……始めた直後は手伝う事で貰えた言葉の一つ一つにカランと音が鳴っていて、集まり具合も順調だった。でもそれが何日か経つと、急に音の鳴る回数が減ってしまったのだ。それは一体何故なのか……原因は分かってる。多分、慣れ。

最近貰うありがとうには重みが無かった。僕が手伝う事に周りが慣れていったというか、それが当たり前になっていったというか……いつの間にかありがとうが、よろしくね、くらいの意味になっていったというか。

僕はそれでも良かったけれど、ガラス玉が貯まらないという事は、相手は幸せになっていないという事。確かに、幸せだと感じているのなら自然とありがとうにも気持ちがこもるはずで、挨拶の様な気軽さでは幸せとはちょっと違う気がする。

「難しいな……」

普段から聞いているはずの言葉なのに、心からのありがとうを貰えるチャンスは少ないのだと、この機会を通じて初めて気が付いた。気持ちを貰える有り難みが身にしみる。人を幸せにするのって難しい。

貯める気満々で動いていたというのに、結果、器はまだ半分も貯まっていなかった。しかも貯まったガラス玉の半分ぐらいはお母さんからのありがとうだったから、なんだか納得がいかない。決してお母さんのありがとうが悪い訳ではないけれど、それだと僕が外では人の為になれていない様で悔しかった。

絶対にみんなを幸せにして心からのありがとうを貰ってみせる。負けてたまるかと、いつの間にか僕と知らない誰かの幸せ勝負が始まった。後三週間、やれるだけの事はやってやる。よし、今日からは放課後のグラウンドでゴミ拾いもだ!


「おまえまたやってんの? よくやんなー」

放課後になり、グラウンドの端をぐるっと一周、邪魔にならないようにゴミを拾っていると、陸上部の友達がランニング中に僕に声を掛けて通り過ぎていく。またやってんの?と言われる通り、グラウンドのゴミ拾いは今日で三日目となっていた。

「頑張れよー」
「うん、ありがとう」

……ん? ありがとう? 自分で答えてハッとした。励まされてる場合ではない。僕がありがとうと言うのでは意味が無い。ゴミ拾い部門三日目、過去二日に続いて今日も僕の負けである。

感謝されるのって難しい。人の為になるのって難しい。校舎内では色々やり尽くして来たから外に出てみたものの、この感じだとゴミ拾いは幸せ集めには向いていないのかもしれない。だとしたらこれ以上続ける意味が無いんだけど、でもありがとうって言われないから止めるっていうのもなんだか格好悪い……いや、そもそもそんな動機でやっているからありがとうと言われないのかもしれない。

「ありがとう、坂下君」

——カラン

「!」

幸せの音だ! びっくりして顔を上げると、同じく陸上部であろう女子と目が合った。知ってる。この子は隣のクラスの仲田さんだ。

「はぁ〜やっと言えた! グラウンドのお掃除ありがとうってずっと言いたかったんだ!」

明るく元気な仲田さんの笑顔はキラキラと輝いていて、じゃあねと、ランニング中の彼女は通り過ぎていく。幸せのありがとうが貰えた……と、久しぶりに貰えた心からの言葉を噛み締めながら、彼女の後ろ姿をぼうっと眺めて見送った。そして無事に一周ゴミ拾いを終えて帰宅後、ふと気が付く。

「返事をしてない!」

折角貰ったありがとうに返事もせずに、僕は帰って来てしまったのだ。なんて失礼な事をしてしまったのだろう! とても嬉しかったのに。

溜息と共にガラスの器に目をやると、器の中には今日集めた幸せの分だけガラス玉が増えていた。この中のどれが仲田さんのものだろう……今までで一番嬉しいありがとうを貰えた気がする。明日も会えるだろうか。


「あ、坂下君! 昨日はありがとう!」
「!」

——カラン

昨日の無念を引き摺りながら登校して、丁度昇降口で上履きに履き替えた所だった。びっくりして振り返ると、元気な笑顔の仲田さんが目に飛び込んできて、またびっくりした。

「今日もやるの? 放課後」
「あー、うん。そのつもり」
「そっか。じゃあまた後で、だね」

ニッコリ明るい笑顔で、じゃあねと去ろうとする彼女を咄嗟に引き留める。不思議そうに首を傾げて僕を見る視線に、なんだかすごく緊張した。でも、昨日からずっと彼女に言いたかった事がある。

「あのっさ、昨日はありがとう」
「ん? 何が?」
「あ、ありがとうって言ってくれてありがとう、というか、折角言ってくれたのに返事をして無かったなと、思いまして……」
「…………」
「うっ、嬉しかったから。本当にどうもありがとう」

昨日のお礼のお礼を今更言うなんて気恥ずかしい。そろそろと視線は外れて、話し方もぐだぐだになってしまった……情けない。でも、伝えられて良かった。本当に嬉しかったから。

——カラン

……あれ? 今、音が……

「……うん、じゃあ今日も言うね。言うから、絶対来てね。約束」
「え? うん、分かった。約束」

ニコッと笑った仲田さんは今度こそ教室へと去っていった訳だけど……僕はというと、なんだかドキドキしてしまってそれどころではなかった。

……仲田さんが気になる。

去っていく仲田さんの背中をぼんやりと眺める。その延長で、日頃からぼんやりと仲田さんの事を考える時間が増えていった。目に入る仲田さんはいつも笑顔が輝いていた。