次の日、早速変わるチャンスが舞い降りてきた。
纏わり付くような湿気の焦げそうな熱を帯びる日光。そんな、夏の世界に晒されながら登校した私は、教室の扉を開けた瞬間、違和感に気づく。
いつもなら騒音が漏れているクラスが、妙に静かだった。話し声どころか、シャーペン以外の物音すらあまりしない。誰もが席に着いて、必死に何かを書いていた。
私、異世界に来ちゃった?
そんな、非現実的な考えが頭をよぎった。が、すぐにその理由を知ることになる。
「おはよー葉真華ちゃん!」
聞き慣れた声が耳に届く。静かな空気の中、彼女は気にすることなく席を立ち上がる。そして、腕を伸ばした状態で駆けてきた。
「うわっ!」
「ねぇ聞いてよー!」
突進してきた緋良李を、精一杯の力で受け止める。朝から体を張るのは意外と辛い。その上で女子特有の高い声。目の前が一瞬、くらっと歪む。
「なんかさっ、今日提出の課題があったみたいでーっ!朝先生に言われたのっ!」
「ああ、そんなのあったね。確か、理科だっけ?」
「えっ!何で葉真華知ってるの!?」
「いや、随分前に言われてたから……」
「えーっ!うっそだー!私聞いてないよ!」
いやいや言われたし。あんたが聞いてないか、忘れただけでしょ。
ていうか、と私は教室を見渡す。
「もしかして、その提出課題でみんなこんな風になってるの?」
「そうだよー。もうみんなパニクって急いで取り組んでるみたい」
「そうなんだ。緋良李は?」
「もちろん終わってなーい!」
満面の笑みでそう言う彼女に、私はまた目眩を覚える。緋良李はこういう奴なんだ、うん。
「だからさー」
彼女の声が、唐突に柔らかくなった。綿飴みたいに、甘くてふわふわしてる声色。咄嗟に脳内で警鐘が鳴り響く。この流れはまずいぞ、と。
案の定、嫌な予感は的中する。
緋良李は顔の前で手を合わせて、片目を閉じた状態で言った。
「葉真華の課題、見せてくれない?」
ああ、やっぱりこう来たか。笑顔を貼り付けつつ、裏では呆れと怒りが渦巻く。胸に黒いモヤが掛かって、気持ち悪い。
彼女にとってそれは毎度のことだ。終わってないから、分からないから。そんな理由で、すぐに私の解答を見ようとする。本心なんて、面倒くさいの一言で片付けられているんだろう。
「ね、いいでしょ?」
緋良李はまた、可愛らしく首を傾ける。
普段なら、即座に「いいよ」と答えていた。何の思考をすることもなく、ただ相手の欲するものを与えれば終わりだった。
けれど、今日は違った。
「あー……」
「いいよ」という言葉が出ない。「分かった」という言葉が喉につっかえる。今まで簡単に口から出ていたものが、まるで口内に張り付いているみたいに出てこない。
代わりに蘇るのは、彰夜の声。
『言ってみろよ、自分の、本心』
うん、頑張る。私は確かにそう決意した。
「あのね、緋良李」
笑顔を取って、恐る恐る口を開く。内心、びくびくしていた。胸に当てた拳が震えて、緊張が酷い。
でも、私はここで変わる。
「課題はさ、自分の力でやりなよ」
言った。はっきりと、彼女の顔を見て。
「……えっ?」
緋良李は驚きと戸惑いを混濁した声を漏らす。目を見開いて、明らかに拍子抜けた様子が露わになった。
「見せて、貰えない、の?」
「うん、ほら、課題ってさ、自分の力でやらなきゃ意味ないじゃん」
あくまで、あなたのためだよって伝えるために。優しく、模範のような解答を並べる。言葉が全て本心かって言われるとそうじゃないけど、全部が全部嘘なわけでもない。
「それにさ、もしかしたらテストとか抜き打ちであるかもじゃん!そしたら尚更自分でやった方がいいよ」
「そっか……」
緋良李は予想外の出来事に不満と愕然を感じているようだったが、私に納得したのか、首を縦に振った。
「……分かった。自分でやってみる」
「うん、そうしな」
重そうな足取りで席に戻って行く緋良李の後ろ姿を眺めて、それから服の裾を強く握りしめた。
まだ心臓がドキドキしてる。正直、息が苦しい。胸が、肺が、やけに機能が低下している気がする。
怖かった。あんなこと言って、嫌な顔をされるのが。幻滅されて、離れられるのが。
でも、緋良李は分かってくれた。少なくとも、賛同はしてくれた。
私の本心を、受け入れてくれた。
そして私は、自分の心に素直になれた。
後に多少の嘘はついたものの、始めの言葉は紛れもなく私自身が思ったことだ。
「……できた」
無意識に口角が上がる。頰が緩んでくる。何だろう、この、不思議な気持ち。緋良里に申し訳ないって思いもある。だけど、それ以上に清々しさというか、そういう思いが強い。
朝のこの時間、私がスマホを取り出すことはなかった。