「葉真華、お願いがあるんだけど……って、ん?ねぇ、葉真華?おーい、葉真華ぁー」
「えっ、あ、な、何?」

 クラスメイトに肩を叩かれ、ハッと我に返る。首を145度回転させると、首を傾げた女子が立っていた。

「大丈夫?なんかあった?」
「い、いやいや何でもないよ。ただちょっと、考え事してただけ」
「そう?朝からずっとぼーっとしてるけど。保健室とか行く?」
「ほんと大丈夫!」

 どうやら私の魂は遠くへ飛んで行っていたらしい。慌てて引き寄せて自分の中に戻し、私は笑顔の仮面を貼り付ける。

「ところで、そっちこそどうしたの?」
「ああ、今日ってノート提出じゃん。実は板書してないページあってさ。見せてくれないかな?お願い!」

 またか、と呆れつつも、両手を顔の前で合わせられ、絶対に断れない状況を生み出されるから、引くに引けない。まぁ、断るなんて考えはないんだけどね。

「もちろんいいよ。はい」
「ありがとう!ほんと助かった!」

 彼女は満面の笑みでお礼を言って、席に戻っていく。そんな後ろ姿を見送った後、私は深いため息をついた。

「はぁ……。何でこんな重いんだろ?」

 目を覆って、肺の中の空気をめいいっぱい吐き出す。それでも、体内に回るモヤと重さは消えなかった。

「あいつの、彰夜のせいだ……っ!」

 小声にたっぷりの怒りを込めた。

 昨日、彰夜に言われたことがずっと頭から離れない。あの後、むしゃくしゃしたまま家に帰ったからもちろん部屋の中でも怒りは溜まったままだったし、夜も色々考えた結果眠れなかった。しまいには、無意識のうちに考えるようにもなっちゃったみたいだし。

「ほんと最悪……」

 昨日の廊下の光景が、嫌でも脳裏に浮かぶ。

『お前、話し方随分変わるんだな』

 当たり前でしょ、教室の私は仮面を被っているんだから。優等生を演じているんだから。

 でも、それに気づかれたのは初めてだった。誰も気に留めない、誰も知らない。だから、隠し通せているんだと思ってた。そして、このままうまく貫き通せると思ってた。

 それが、初対面の人にバレるなんて。まぁ、笑顔を忘れて素で話した私も悪いんだけど。

『どっちがお前なの。教室の方?それとも今?』

 今に決まってんだろ。教室の私が本物だったこんなに苦労しないよ。本物がこんな性格だから、教室の私が生まれたのに。

 思い出すほど心臓が鋼鉄の腕で掴まれた気分になる。彰夜は妙に勘が鋭く、思ったことをすぐ口にする人だった。もっと、大人しいと思ってたのに。

 そんな人間に秘密を知られた今日、正直学校に来るのが怖かった。もしかしたら、素の私のことをバラされているかもしれない。普段の私は偽物だって言いふらされているかもしれない。

 そんな噂が広まっていたら、私の居場所は無くなってしまう。そう、不安で仕方なかった。

 でも、いざ登校してみれば特に変化はなし。時間が経つにつれて何か起こるかも、と周囲を見渡したりと警戒してみるも、杞憂に終わった。

 つまり、なんてことない、当たり前の日常だったのだ。

 私はチラリと隣の机を見る。今、彼は何処かへ行っているのか空席だった。静かに物だけが佇んでいる。

 どうやら、彰夜は誰かに私の秘密を言ったわけではなさそう。このまま昨日のことを心に閉まったに違いない。と、思いたい。うん、ここまでくれば大丈夫だろう、多分。まさかこれからバラすということも考えられないし。

 どうであれ、平穏が続くことを知り、私は少し安堵した。でも、胸の内の重さは少しもなくならない。どころか、増えている気がする。

 これは何のせいなんだろう?彰夜、そしてあの「ナイト」っていう人に対する怒りだけじゃないと思う。こう、また別の、大きな何か。

 この感情を何というか、私には、分からない。
 
「おい、ちょっと」
「ぎゃぁぁっ!」

 背後からの突然の声に、思わず叫んだ。慌てて口を押さえて、秒で振り向く。

 そこには、目を丸くした彰夜が立っていた。よりによってこいつが!

「ちょっ……!」

 素の私が出そうになったところで、私はふと止まった。いつの間にか、教室がしんと静まり返っている。クラスメイトは何事かと私を注目していた。

 ブワッと冷や汗が湧き出る。危ない、ここで彰夜と話したらバレる……っ!

 咄嗟に笑顔を作り、私を見つめる彼らに言う。

「ご、ごめんみんな。ちょっと驚いただけだから。気にしないで!あと、しょう……羽場崎くんはこっち来て!」

 一応苗字呼びをして、彰夜の手首を掴んだ。

「はっ、ちょっと」
「いいから着いてきて!」

 小声で訴え、彼を教室の外に引っ張り出す。クラスメイトはどうなっているかと気が気でなかったけど、後ろから喋り声やもの音が聞こえてくるから、行動を再開したんだろう。

 大事にならなくて良かった、と内心ホッとした。そして、人気のない廊下に来たあたりで、私は足を止める。

「ちょっといきなり話しかけないでよ驚くじゃん!それに、昨日関わらないでって言ったよね!?」
「あーそれは……ごめん」

 辛い謝罪に、私はキッと彰夜を睨みつけた。もう、彼の前では仮面なんてどうでもいい。演技なんて知ったこっちゃない。

「てかお前、やっぱり態度も口調も教室と全然違う」
「誰のせいよ!」
「えーっと、俺のせいか」

 と、頭を掻く彰夜は、唇以外ほとんど動かない。眉も瞳もちょこっと形や大きさを変えるだけで、ほぼ無表情。何を考えているのか読み取りづらい。

 全く、何してんだか。私は肩を落としながら長いため息をついた。

「それで、何で急に呼んだわけ?」
「ああ、実は聞きたいことがあってさ」

 彰夜はポケットに手を突っ込み、スマホを取り出した。そして、操作を重ねてから画面を私に突きつける。

「これ、お前だろ?」

 彼の言うこれ(・・)を見た瞬間、私な固まった。物理的にも、比喩的にも。
 
「はっ、どう言うこと……?」
「だから、そのまんまの意味だって。これはお前なんだろ?」

それは、オープンチャットの画面だった。それも、私が入っているやつ。

「な、何で、これ……。どうして、どうしてあんたが知ってんの!?」

 そして、彰夜が指すこれ(・・)というのは、「リーフ」と書かれたアイコンだった。

 つまり、私のアカウント。

 何でバレたの!?今まで投稿した文章から?いや、特定されるようなことなんて何も書いてないし。

 頭が混乱して訳わかんない。ただ、自分は今ヤバい状況にいるんだってことだけはかろうじて理解できる。脳内で、赤い光が回るとともに警報がけたたましく鳴っている。

「やっぱこれ、お前なんだ」

 彰夜は静かに言った。

「こんな愚痴漏らして、やっぱ教室では猫被ってんじゃん」
「そうだよ。それがどうかしたの?性格悪いとか、八方美人とか言いたい訳?」
 
 逆に聞き返してみた。もう、ここまで来たら開き直るしかない。変に誤魔化してもボロが出るだけだろうし。

 私は彰夜を睨みつける。だが、彼は相変わらずの無表情だった。画面を見て、それからスマホをポケットにしまった。

「何でそんなことすんの?」
「は?」
「何で演じてんだよ、優等生を」
 
 はっきりと、彰夜はそう私に尋ねてきた。

 今まで、仮面を被る理由を訊かれるのは愚か、性格を作っていることさえバレなかった私は、初めてのことに戸惑いしかない。

「何でって、あんたに関係ないじゃん」
「関係とかどうでもいいだろ。俺は知りたいんだよ、理由が」

 彰夜は痛いぐらい私を真っ直ぐ見つめてくる。それは、狙った獲物は逃さない肉食動物の瞳に見えてきて、背筋に恐怖が走った。

 どうするどうするどうする?冷や汗がたらりと垂れてくる。

「なぁ、何で演じてんの?誰のためにやってんの?何のためにやってんの?」
「そ、それは……」

 誰のために?そんなの、みんなのために決まってんじゃん。
 
 何のために?みんなの役に立つためでしょ。だから、嫌われないようにして、いい子になって。

 でも、そんなことを言ったところで無駄な気がした。彰夜には、そんなことを話しても相手にしてくれそうにない。

 どうする自分?私はどうすればいいの?

「お前さ、疲れないの?」
「えっ……?」

 意外な言葉に、私は顔を上げる。彰夜と、瞳が合う。綺麗な黒い目を見つめると、意識が吸い込まれそうになった。

「他人のことばっか気にしててさ。自分の想いは押し込んで。辛くないの?」
「それはっ……っ!」

 急に、息が詰まった。グッと喉が押さえつけられるような感覚に驚いて、目を見開く。呼吸ができない、苦しい。目頭が熱くなって涙が出てきた。

 ジジッとノイズのような音が聞こえてくる。頭に、何か映る。過去の記憶。脳みその奥底にしまってあったはずの映像。

「はっ、え、な、何どうかしたか!?」

 彰夜が突然慌て出した。その間に、私の頰には熱い液体が伝る。胸も苦しかった。ずっと押さえつけられているみたい。

 機械音が脳内で何回か鳴って、それから、とある記憶が蘇る。

『葉真華ちゃん、遊ぼう!』
『待ってよー!』

 小さな少女が笑う。可愛くて、明るくて、陽だまりのような子。でも次の瞬間に、場面は切り替わって、少女は冷酷な瞳で見下ろしてくる。

『あんたなんか友達じゃない』
『私に話しかけないで!』

 少女は涙を流す。そして、憎たらしい表情を浮かべた。

『あんたと友達になんて、ならなきゃ良かった』

「……っ!!!」

 ズキリと頭の奥が痛んだ。心臓が痛んだ。あまりの苦しみに、私はその場でうずくまる。

「お、おい!大丈夫か!おい!?」

 彰夜は焦った様子で私の背中をさすった。けれど、私が泣き止むことがなかった。むしろ、どんどん溢れてくる涙に、とうとう声をあげて泣き始めた。