「じゃあ、早速行こうか」
「……」
笑顔で話しかけても、何一つ声が返ってこない。そっぽを向いて、視線すら合わせてくれなかった。でも、そんな状況も、すでに慣れてきた。
訪れた放課後、私は先生の約束通り、彰夜に校内を案内する。
「ここ、職員室。まぁ、今朝も来たんだと思うし、分かるよね」
「……」
*
「図書室は2階。学年ごとに使える日が決まってるから、教室に貼ってあるカレンダーとか見るといいよ」
「……」
「聞いてる?」
「……まぁ」
たった一言で済ませる彼に、私はイラッとした。なんだよ、人が一生懸命説明してるのにさ。
怒りを押し殺して、無理やり笑顔を浮かべる。それは、相手に不快な思いをさせないため。そして、感情を悟られないためでもあった。
「そっか。じゃ、次行こう」
廊下を指差す私を、彰夜はチラリと見る。その瞳は、なんでも見透かしていそうな鋭さを持っていて、背筋に寒気が走った。
なんだろう、この感覚。身体はもちろん、心まで貫かれているみたい。腕をさすりながら、私は彼に背を向けて歩き出す。
*
「ここが美術室。同じ3階にあるから行きやすいよ」
「……」
「行きやすいよー。だから間違わないでねー」
「……はいはい」
顔を覗き込もうとしたら、面倒くさそうに避けられた。ったく、いちいち最低な奴。頬の筋肉が一瞬だけ痙攣した。
でも、もちろんのこと、顔には出さない。必死に噛み殺す。私の本音を、知られるわけにはいかないから。
奥歯を噛み締める私を、気づけば彰夜がじっと見ていた。
*
「最後にここが、音楽室。先生に許可を得られれば、放課後とか先に使っていいことになってるから」
「……あっそ」
何から何まで、彰夜という少年は本当に無愛想だった。私が必死に言葉を紡いでも、彼は素っ気ない態度を見せるだけ。感謝の一つぐらいしろよ。
腕が震えている。ポケットに手を伸ばしたくて仕方ない。心がすでに限界を迎えていた。
早く、早くこの感情を吐き出さなきゃ。この想いを誰かにぶちまけなきゃ。
「じゃあ、一通り案内し終わったことだし、帰ろっか。また明日ね、彰夜くん」
早口でそう言って踵を返す。向こうから見えないことをいいことに、笑顔を剥がして廊下を駆けようとした時だった。
「なんでそんなソワソワしてんの?」
初めて、彼の長い台詞が聞こえてきた。それは、明らかに私に対する質問。
「えっ?」
そんな風に見えていた?口角を上げるのも忘れて、咄嗟に振り返る。
前髪の僅かな隙間から、彰夜の鋭い瞳が私を射抜いていた。切れ長の目に、私の心臓は高鳴りと収縮が同時に起こる。
「私、そんなにソワソワしてる?」
「してる。今すぐにどっか行きたいって顔に書いてあるし」
「はぁ?」
なんでそんなこと言えんの?私、ずっと笑顔だったじゃん。もしかして、そんな気持ちだけ滲み出てたのかな?
「それにお前さ」
「お、お前!?」
「何、呼び方に不満でもあんの?」
「無いわけないでしょ!?クラスメイトに対してお前呼びとか失礼すぎない?」
「別にいいじゃん。名前覚えてないし」
「はぁぁぁ!?」
最初の呼び方がお前とかひどくない?今日初対面だよ学校案内してあげたんだよ。
失礼な彼の態度に、私の中で怒りが蓄積されていく。気づいたら、拳が痙攣を起こしていた。ハッとなって、深呼吸をする。
「で、なんて言おうとしたの?」
「ああ。お前さ、話し方随分変わるんだな」
「へっ?」
「なんか教室とは別人っつーか、猫でも被ってんの?」
その言葉の意味を理解した瞬間、私は自身の口を塞いだ。忘れてた、自分は今、笑顔を取り繕っていないことに。
それだけじゃない。思わず、素の自分で話してしまった。こんな、無愛想な男子相手に。
さぁーっと血の気が引いた。折角、上手くやれてたのに。転入生なんかにバレるなんて。
「いや、これは、その……」
「どっちがお前なの?教室の方?それとも今?」
彰夜は詰め寄ってくる。
「はっきりしろよ、どっちなのか」
「……う、うるっさいなー!」
堪らず、叫んだ。限界だった。
私は彼の胸を思いっきり押して拒んだ。突然の大声に、彰夜は目を丸くする。
「どっちだってあんたには関係ないでしょ!」
仮面も建前も関係ない。もう、心は壊れる寸前だった。全身が熱い。特に、目が。
「関係ないって……はっ、逆ギレ?意味分かんないんだけど……」
「分かんないのはこっちだよ!会って間もない奴に詰め寄られてさ!こっちだって辛いって!」
思ったこと全部、吐き出していた。誰にも言ったことのないような酷い言葉、心の奥底に沈めていた言葉。それらが勝手に溢れてくる。
「も、もう私に話しかけないで!私を気にしないで!」
思う存分吐き出してから、私は今度こそ背を向けた。そして走る。一刻も早く、彰夜から離れられるように。
「お前どこ行くんだよ、おい!」
背中にかけられる声を無視して、ただひたすらに足を進めた。
むかつくムカつくムカつく……っ!
たんたんと床を踏み鳴らしながら、私は歩く。激しく腕を振りながら、感情任せに突き進む。
そして、1番近いトイレの個室に入った。ポケットからスマホを取り出し、オープンチャットを開く。
自分の目にさえ止まらない速さで指を動かし、文字を紡いだ。罵詈雑言の、心にぐるぐると渦巻く言葉たちを。
『人が親切してやったのにそれを仇で返すとか最低』
『初対面で口調悪すぎ』
『人の弱みを握るのがそんなに面白いわけ?』
『あいつムカつくほんとやだ』
書いて書いて書いて、今までにないぐらいの想いを吐き出した。ひたすらに、電子の画面に胸の内の叫びをぶちまける。
何も考えず、感情のままに、ただ出して出して出して出し続ける。
「ふぅ……」
そして、ようやく落ち着いた私は、スマホを片手に背中を壁に預けた。体の内部でぐつぐつと煮えたぎっていた怒りの釜が、少しでも冷めただろうか。
ピロンと、手のひらで振動が生まれた。来た、と慌てて身を起こす。アプリを立ち上げて、新たなるコメントを読んだ。
『何そいつ人間のクズじゃん』
『最低!リーフさんに謝って欲しいんだけど』
『あなたはすごく優しい人なんだね。憧れるよ』
そこには、私に対する労い、怒りの共感、庇いなどの言葉が並べられていた。何だか自分の意見が正当化されたように錯覚して、幸せに満たされる。
ところが、だった。再び手元が振動した時、私が目にしたのは驚きのコメントだった。
『それ、あんたが悪いんじゃないの?』
その一言を見た瞬間、心臓を冷たい手で鷲掴みされたのかと思った。
ピロン。また、コメントが届く。
『自分の気持ちぐらい自分で言えよ小学生か?』
『お前のことなんて誰も考えてねーよ』
「はぁ……はぁ……はぁ……」
呼吸がうまく出来なくなっていた。気体交換をたくさんしているはずのに、動悸は止まらない。
誰、一体誰なの!?何これ私を完全に否定してるじゃん!これを送ってきたのは誰なんだろう。
震える指で画面をスクロールして、送り主を探した。探し物とは割とすぐに見つけられるらしい。
吹き出しの隣に書かれているアイコンに、小さく載せられた文字。「ナイト」と。
「ナイト……夜?それとも、騎士?」
なんて疑問に思ったのも一瞬。こいつか。こいつが私のコメントを真っ向否定しているのか。
その時、ん、と首を傾げた。紺碧の背景と白銀の剣が浮かぶアイコンに、何か引っ掛かる。
そう言えばこれ、何処かで……?
ハッと気づいて、私は自分の昔の投稿まで遡った。
「あった」
口元を抑えながら、そのコメントを読む。
『そんなに言うなら友達辞めればいいじゃん』
『文句あんなら貸さなければ?自分の意思で決めたことに愚痴つけるなよ』
私の愚痴に対する数々のコメント。殆どが私を支持するものだったけど、中にはアンチ的な返信があったのを覚えている。
そして、その中の一つ、というか殆どが、その「ナイト」によるものだった。この人は人を貶すことが好きなのか?
「何なのこの人……っ!」
私は乱暴にスマホをポケットにしまう。そして、むしゃくしゃした思いのままトイレを出た。
今日ばかりは、心のうちの言葉を吐き出してもスッキリとはしなかった。