どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しい――こんな自分のことが大嫌いだ。

 そう、心の何処かで思ってた。あの日までは。





 私の朝は、スマホのアラームから始まる。薄い電子機器から発せられた音は、机を振動させて空気を震わせる、私の鼓膜を揺らす。

 震えが音となって脳に送られ、私は目覚める。最初は、ぼんやりとした世界の中で、アラームだけがやけにはっきりと聞こえる。

 重い瞼を擦って、上半身を起してから、スマホを取って騒音を消す。部屋中に響いていたBGMが一瞬にして止んで、残ったのは小鳥の囀りだけだった。

 うーんと体を伸ばし、私はカーテンを開ける。シャッという音を合図に、暗い部屋の中に光が漏れる。朝だ、日光だ。今日の空も澄んでいて、真っ青だった。

 それは、美しい光景。それは綺麗な景色。……の、はずだ、本来は。というのも、私の視界に映る世界は、今日も濁って見えたから。色はちゃんとあるはずなのに、目の前に映る全てが、私を疲れさせる。

「はぁ……今日も学校か」

 ポロリと零した一言は、自分でもびっくりするくらい、暗く、重かった。

 着替えと顔洗いを済ませた私は、階下に降りる。階段に一番下に来たところで、香ばしい匂いがして、一度息を吸った。それから、にっこりと微笑みを作る。そして、扉を開ける。

「おはよう」

 機嫌がいいように、明るいトーンでキッチンにいた人物に挨拶した。

「あら、おはよう、葉真華(はまか)

 ひょっこりと顔を出したのは、お母さんだった。エプロンをつけて、フライパンでスクランブルエッグを作っている。

「もう少しでご飯ができるから、ちょっと待っててね」
「うん、分かった」

 笑顔で頷いて、その間に支度を済ませた。テーブルに座ると、湯気が立ち込めたプルートをお母さんが運んでくる。

「さ、召し上がれ」
「うわぁ美味しそう!いただきます」

 心の底から言っているみたいに声を張り上げて、元気よく手を合わせた。お母さんがにっこりと微笑む。それを見て、安心する。

 ホカホカの白米に梅干しを乗せて一口含むと、丁度良い酸味が口内を駆け巡る。ゆっくりと咀嚼をすれば、酸味よりも米の仄かな甘味が勝るようになる。味噌汁も啜った。馴染みの出汁が落ち着く。さらに卵を頬張って、私の胃袋は満たされる。

 ご馳走様、と言った後に食器をキッチンに片付けて、歯磨きをしてから玄関に向かった。襟を確かめ、靴を履いてから、一度振り返る。

 そこには、いつだってお母さんの姿があるから。どんな時でも、必ず、挨拶はする。それが我が家のルールだった。いくらめんどくさくても。

「行ってきます」

 そう言って、私は家を出た。むわっとした熱気が、家から出た途端に私にまとわりついてくる。夏だから仕方ないか。

 歩きながら、ふと顔を上げた。雲一つない快晴。太陽がギラギラと輝いている。それは、ただただ眩しくて熱いだけだった。


 私が学校に着く頃は、まだほとんどの人が来ていない。少人数が座る自分の教室の扉の前で、私は一度立ち止まる。そして、深呼吸を何度か繰り返した。

 いつも通り。今日も、今までと同じように振る舞う。何も変えない、何も変わらない。いつも通りに。

 自身の胸にそんなことを言い聞かせて、私は教室に入った。

「おはよー!」

 扉を開けた瞬間に挨拶するのが、習慣だった。印象もいいし、みんなが挨拶をするようになるし。現に、何人かの人たちは「おはよう」って返してくれた。優しいなぁ、あのひとは。

 私が自分の席に荷物を置いた時、「葉真華ちゃーん」と駆け寄ってくる声が聞こえてきた。

 朝っぱらからうるさいな、と心の中で舌打ちをする。だけど、それはあくまで私の内面での話。本音は仕舞い込み、代わりに笑顔を浮かべて振り返る。

「おはよ、緋良李(ひより)。今日も相変わらず元気だね」
「あはっ、そう?」

 腕にしがみついてきた彼女は、ボブの髪を揺らしながら笑った。急に腕を腕を掴むとか、遠慮が全くないよね……。正直、彼女のこの行動はうざい。もちろん、口にはしないけど。

「あ、てか聞いてよ、昨日買い物に行ったんだけどさぁ……」
「うんうん、なんかあった?」

 笑顔で相打ちを打ちながら、内心では呆れていた。またこの話か。緋良李は自慢話とか、以前の話とか、とにかく自分の話をしたがる。

 それほどにまで自慢したい症の人なのか、はたまた、ただのかまってちゃんなのか。どっちだっていいが、こう当たり前のようにずっと絡んでいると疲れる。かと言って、拒絶することはできない。

 拒絶なんてしたら、彼女は理不尽に怒りをぶつけてきそうだから。面倒ごとに巻き込まれるくらいなら、感情を押し殺していたほうがいい。

「それでさ、可愛いコスメいっぱい見つけて。でもどれがいいか分かんなくてさぁ……」
「そっかそっか。でも、緋良李ならなんでも合いそうだけどね」
「えっ、本当!そうかなあ?」

 わざとらしく驚いて、人差し指を唇に当てる仕草が、見ているこっちからだとちょっと痛々しい。これがぶりっ子というものなのだろうか。

「でも葉真華がいうなら今度買ってきてみようかな」
「うんうん、いいんじゃない。緋良李がそれつけたところ、私見たいし」
「うわぁ、嬉しい!さすが葉真華だね。優しいなぁ」

 そう言ってまたきつく腕を抱きしめてくる緋良李に、私はただ愛想笑いを向けた。こんな時、どんな反応をすればいいか、なんで言えばいいか、一番困る。

 あはは、なんて声も出していたら、緋良李のグループの子達が登校してきた。彼女たちの姿を見て、緋良李は「あっ」と声を漏らしたかと思うと、「じゃあね、葉真華」と言って私の元を離れる。

 あっさりと私の腕を離した彼女にとって、私は自己満足を満たすための道具にしか映っていないんだろうな。まぁでも、腕の重りがなくなってスッキリしたからいいけど。 

 途中だった荷物の整理を終えた後、私はスマホを手にトイレへ行った。個室に入って、便座の蓋の上に腰を下ろす。

 LINEを開いた瞬間、溜まっていた感情がぐつぐつと煮え返ってくる。早くなんとかしなきゃ。この思いを、どこかに吐き出さなきゃ。そんな衝動に駆られて、オープンチャットに勢いよく文字を書き込んだ。

 それから、送信、のボタンを押す。すると、「リーフ」と名前の隣に緑色の吹き出しで私の書いた言葉が画面に浮かび上がった。

 「リーフ」は、私のここでの名前。顔を性格も知られず、ただ愚痴を吐き出すためだけに作った偽物の私。

『あいつマジうざい』
『自分の話ばっかして。どうせ私なんて、友達でもなんでもないくせに』
『わざわざ絡んでくるとかキモい。吐き気がする』

 ここまで送信して、私はふぅと息をつく。感情の勢いが、そのまま行動に出てしまった。なんとか、これで心は落ち着く。と、すぐに手元が震えた。見ると、あっという間に既読がついていて、さらに返信まであった。

『分かる。自分勝手なやつっているよな』
『私の周りにもそういう人いる。ほんとやめてほしい』

 私の意見に同情してくれる人がいると知って、少しだけ安心した。それと同時に、嬉しかった。やっぱりみんなそう思うよね。私だけじゃないもんね。

 同じ意見の人がいる。それだけで、仲間ができた気分になった。私はスマホをぎゅっと握りしめた。

 良かった、スマホがこの時代にあって。良かった、誰かがLINEというアプリを作ってくれて。良かった、仲間を見つけることができて。

 心が苦しくなったら、こうして人目につかないところで体内の毒を吐きまくる。これができるから、私はいつまでも「いい子」の仮面を被っていられる。

「……よし、そろそろいっか」

 スマホをしまい、トイレを出た。手洗い場に付いている鏡を見て、にっこりと笑顔の練習をする。うん、今日も自然と笑えている。大して可愛くもない自分が、板を隔てた目の前で、偽物の表情を浮かべていた。