翌日。
あやめは、朝から落ち着かなかった。
昨日、ルーティンを崩してしまったことと、今日ルーティンから外れる予定が入っていることが起因している。
しかも、その予定を自ら入れたという事実に、戸惑いを隠せなかった。
(あんなこと、言わなければ良かった……)
朝から既に後悔していたが、それでもミーとちゃんとお別れをするんだ、と自分を奮い立たせるあやめだった。
「あっ! おはよう、平塚さん」
「お、おはようございます」
なんとか気を取り直して、いつもの電車に乗れば小野寺が爽やかに現れる。手に持ったミーを入れるためのケージを持ち上げて、「準備万端」と笑った。
「ご両親はなんと?」
「ちゃんと面倒見るなら良いよって」
「いいご両親ですね」
「放任なだけだけどね。平塚さんの親は?」
「少し過保護なのが玉に瑕でしょうか」
「子どもは何歳になっても子どもって言うしね」
さっきまでのもやもやがいつの間にか消えていることにあやめは気づいた。厚く垂れこめた霧のようだった気分が、サーっと風に流れていく。そして、その風を吹かせたのが小野寺だと思うと、あやめはなんとも言えない気持ちを胸に感じた。
「じゃぁ、放課後」
「はい。また後で」
(誰かと約束をしたのなんて、何年ぶりでしょう)
そわそわと落ち着かないのに、胸はほっこりとあたたかい。きらいではない胸のドキドキを持て余すあやめだった。
「平塚さん! 帰ろー」
いつものように終業の鐘が鳴ってから席を立ったあやめは、その声が自分に向けられたものだと気づくのにほんの少し時間がかかった。
そして、ワンテンポ遅れて廊下を見たあやめにクラス中の視線が集まる。
「小野寺くんと平塚さん?」
「え、あの二人付き合ってるの?」
「いや、確かに美男美女だけれども……」
「ってかいつの間に?」
(お、小野寺くんてば……)
気まずさマックスの中、視線から逃げるようにあやめは小野寺のところまで駆け寄ると、彼の腕を引っ張って昇降口へと急いだ。
「なんか、ごめん」
「う、ううん、ちょっとびっくりしただけなので……」
「じゃぁ、行こっか。ミーが腹空かせて待ってるよ」
公園でミーに餌をあげてから、ケージに入れて電車に乗った二人は一緒に小野寺の家に向かっていた。
「小野寺くん家の猫ちゃんは、オスメスどっちですか?」
「二匹ともオス。近所の野良猫が赤ちゃん産んだんだけど、その兄弟をもらったんだ。ミーはメスみたいだからわが家のアイドルになりそう」
「ふふ、ミーちゃんがアイドルですか」
ケージの中をあやめが覗き込むと、「ミー」とミーが不安気に鳴いた。
「もう少しの我慢ですよ」
「小野寺さんて、猫にも敬語なんだね」
「癖と言いますか……、これが楽なんです、私は」
「そうなんだ、俺なんか敬語めんどくせーってなる」
「普通はそうかもしれませんね」
なんとなく、自分が普通ではないと言われているような感覚になって、あやめは俯いた。小学生のころ、「あやめちゃんは普通じゃないから遊びたくない!」と友だちに言われたあの時の、心臓が刃物で傷つけられたような鋭い痛みが胸に蘇る。
『やっぱり私は普通じゃないんだ』
幼いながらに、友だちの言葉はあやめに事実を突きつけた。
「平塚さんは、普通じゃないの?」
「普通……ではないですよ。クラスメイトにも敬語ですし、毎日のルーティンを少しも崩したくないですし」
「それって、別に普通じゃないっていうのと関係なくない? それに、平塚さん、この前駅で落ちたハンカチ拾ってあげてたよね?」
「あ、見てたんですか」
「あ……まぁ、たまたまだよ、たまたま。それに俺の定期入れだって拾ってくれたじゃん」
あやめは首をひねり「それは当然だと思いますけど……?」と呟く。
「それを当然だと思ってる時点で、平塚さんは大丈夫だよ」
小野寺は、隣に座るあやめを真っすぐ見て言い放った。
あやめは、彼の澄んだ眼差しに見惚れて固まる。
「友だちにはため口で話すのが普通なんて誰が決めたの? 自分の予定が崩されるのは俺だって好きじゃないよ。少なくとも、俺は、平塚さんが楽ならそれでいいと思う」
目から鱗が落ちた。
「うわっ! えっ、ひ、平塚さん?」
目の前の小野寺が、あやめの顔を見てぎょっとする。
「ごめんっ! 俺、なんか酷い事言っちゃった?」
あやめの目から落ちたのは、鱗だけではなく、涙もだった。
「あ……いえ、違うんです……これは……」
ぽろぽろと、つぎからつぎから零れ落ちる涙を、あやめは手で拭うが追いつかない。
(どうしましょう……、涙が勝手に)
小野寺は、ミーの入ったケージを抱えたままおろおろと冷や汗を流すだけでなにもできない。
あやめは小野寺に申し訳なく思いながら、鞄の中から取り出したハンカチで目元を押さえた。
ずっと、『普通』になりたくて、なれなくて、それならば遠ざけてしまおうと、人から離れた。物理的にも精神的にも。
相手に構わず敬語になったのも、そのせいだった。
そして、それがいつしか自分の『普通』になった。
もちろん、世間の『普通』には程遠い。
平塚あやめは普通じゃない。
ずっと言われ続けてきた言葉は、いつしか呪いの呪文となってひそやかにあやめを呪った。
『平塚さんは大丈夫』
『平塚さんが楽ならそれでいいと思う』
普通じゃないあやめの『普通』を、こんな風に認めてくれたのは、家族以外で小野寺が初めてだった。
(しかも、あんなにさらっと言ってくれるなんて……不意打ちです)
「あの、これはですね、嬉しくて出てきた涙なので……、小野寺くんのせいですが、小野寺くんのせいではありません」
「ごめん、言ってる意味がわからない、平塚さん」
「ふふ、わからなくて良いです」
ようやく落ち着いた頃には、電車はあやめと小野寺の最寄り駅に到着したのだった。電車が完全に止まるのを待って二人は席から立ち上がる。
「小野寺くん、ありがとうございます」
「よくわからないけど……、どういたしまして」
お互いに笑いあって電車から降りた二人だった。