平塚あやめのルーティン

 平塚あやめは、ルーティンを重んじる女だ。

「先生! 10秒前にチャイムが鳴り終わりました。遅刻です。人の手本となるべき教師が時間に遅れるのはいかがなものかと思われます。あ、それとも、身を挺して反面教師を演じていらっしゃるのでしょうか? 先生のお考えをお聞かせください」

 あやめはまるで選手宣誓をするかのごとく手を天に伸ばして起立すると、遅れてやってきた数学教師に早口で言う。
 ど正論を突きつけられた教師は、苦笑いを浮かべた。

「えっと……、平塚、そうだな……遅刻した先生が悪かった。気を付けるから許してくれ、ははは」

「そうですか、わかりました。では、どうぞ授業を始めてください」

 タジタジになる教師を冷たいまなざしで見ながらあやめは着席した。その間、ほかのクラスメイトたちは誰一人として言葉を発することなく、ただ事の顛末を見守るだけだった。

 彼女は、クラスメイトから「タイムキーパー」と呼ばれている。それは、たった今ご覧いただいたように、彼女がものすごく時間にシビアだからだった。

 一分は愚か十秒、いや一秒たりとも遅れることを良しとしない。

 それが例え教師だろうと、あやめは見逃しはしない。

 もう一度言う。
 平塚あやめは、ルーティンを重んじる女だ。



 AM6:00 起床

――ピ……

 イントロドンよろしく、目覚まし時計が微かな声をあげるかあげないかのところであやめの手が伸びた。
 無駄のない動作で起き上がると、彼女は布団を綺麗に直してから洗面所へと足を運ぶ。
 顔を洗って髪の毛を整え、また自室に戻り制服に着替える。
 淡々と身支度を済ませてから、居間へと向かった。

 AM6:20 朝食

『ここからは、メイメイのすらすらイングリッシュのコーナーです!』

 椅子に座ると見計らったように朝の番組の人気コーナーが始まる。
 あやめが毎日欠かさず見ているコーナーでもある。

 それを見ながらテーブルに置かれた朝食を食べ終えると、食器を流しに片付けてから洗面所で歯を磨く。

 AM7:00 出発

「いってきます」
「気を付けてねー」

 前日に準備しておいた鞄にお弁当を入れてあやめは家を後にする。

 AM7:15 乗車

 あやめがホームに降り立つと同時に電車のドアがプシューと音を立てて開いた。
 それほど混雑はないが、座席は適度に埋まっている。
 あやめはいつも通り1号車のドア付近の手すりにつかまった。

 高校の最寄り駅まで3駅、時間にして25分ほど電車に揺られる。この時間は、あやめのルーティンの中でも比較的自由度が高く、その時の状況や気分で過ごし方が変わる。
 テスト期間が近ければ単語帳を開くし、お気に入りの作家の新作が出れば小説を読む。時には、目を瞑って過ごすこともあった。
 今日は、なんとなく、窓の外を眺めながら過ごすあやめだった。

 AM7:40 降車

 高校の最寄り駅に電車が到着。
 ホームに降りて数歩進んだ先で、目の前を歩く人がハンカチらしきものを落とした。
 あやめは、こういうイレギュラー因子が大嫌いだ。

(あぁ、見てしまったものは仕方ありません)

 しかし、礼儀を欠かさないあやめは、それを拾って埃を払うと持ち主の肩をトンと軽く叩いた。

「あの、これ落としました」
「あ、どうもわざわざありがとう」
「いえ」

 あやめは相手にお辞儀をした。

(20秒もロスしてしまいました)

 歩く速度をいつもより少し速めるあやめだった。

 AM8:00 到着

 いつもと同じ通学路を通って学校に到着。

「おはようございます」

 教室の入口で挨拶をして自分の席に座る。淡々と準備をして、HRが始まるまでの時間は授業の復習や予習をして過ごす。

 ここから先は、学校の時間割がそのまま平塚あやめのルーティンとなるため割愛させてもらうが、冒頭でも御覧いただいたように、平塚あやめは数秒の遅れも許してはくれない。それが例え教師であろうとも、だ。
 そのため、クラスメイトはタイムキーパーの怒りを買わないようにいつも5分前行動を心がけていた。

 平塚あやめの標的になって公開処刑されたいとは、誰も思わないのだ。

 と、ここまで平塚あやめのルーティンを紹介したところで、彼女のプロフィールを紹介しよう。

 平塚あやめ、17歳。高校2年生。身長163cmの細身に小顔。背中でサラサラと揺れる黒髪ストレートはまるで絹糸のよう。目鼻立ちは整っていて有名女優に似ている。その姿は、学校でも群を抜いて目立ち、彼女が歩けば誰もが振り向いてしまうほど人目を惹きつけるものがあった。

 彼女が入学したばかりの頃は、2次元が3次元に舞い降りた!と学校中の噂になり我こそはと名だたる猛者たちが彼女を呼び出そうと教室にやってきた。

 だがしかし。

「平塚さん、放課後ちょっといいかな?」
「すみません、放課後は(私のルーティンに)時間がないので無理です」

「今少し話せる?」
「すみません、そんな時間は(私のルーティンに)ありません」

「俺と付き合って」
「すみません、あなたに付き合っている時間は(私のルーティンに)ありません」

 平塚あやめの前において、名だたる猛者たちは名もなき村人A(通称モブ)でしかなかった。

 そして瞬く間に平塚あやめの性格は知れ渡る。

「あの性格じゃなー」
「ホント、平塚あやめは観賞用」

 もう一度言う。
 平塚あやめはルーティンを重んじる女だ。

 この性格のせいで、彼氏は愚か友だちと呼べる人もいないあやめだった。


「みんな気を付けて帰るようになー」

 帰りのHRを終える鐘が鳴るよりも先に担任が言った。そう、担任さえも、平塚あやめにつつかれたくないがためだ。

 ほかのクラスメイトは早々に席を立ち気ままに動き出すが、あやめは座ったままだった。

――キーンコーンカーンコーン……

 PM3:30 下校

(うん、今日も順調です)

 鐘が鳴り終わるのを聞き届けてから、あやめは鞄を持って席を立つ。その顔は満足げだ。

 人混みを避けながら昇降口にたどり着き、靴に履き替える。一歩学校の外に出れば、またルーティンが始まる。

 朝来た道を戻るかと思いきや、その途中で一本逸れた道を行くあやめ。たどり着いたのは、小さな公園。

「出てきてくださーい」

 言いながら彼女は、生垣に近寄る。
 すると、

「ミー!」

 生垣の中から真っ黒い猫が姿を見せた。

「ミーちゃん、おまたせしました」

 これまで、ほぼ無表情だったあやめの顔が綻ぶ。今日初めて見せた笑顔だ。
 あやめは、鞄の中から子袋を取り出すと生垣の奥に隠しておいた皿に中身を開ける。それは、あやめが買っておいたキャットフードだ。

「ゆっくり食べてください」

 これは比較的新しい平塚あやめのルーティンの一つだった。数か月前、猫の鳴き声につられてここにたどり着いたあやめはミーと出会い、それ以来毎日学校帰りに餌を与えていた。
 猫好きのあやめは、やせ細ったミーのためにお小遣いでキャットフードを買い、少しの時間こうしてミーと時間を過ごしている。

 カリカリと餌を食べる黒猫を見るあやめの目は穏やかだ。とても時間を気にしているようには見えない。

 だがしかし。

 もう一度言う。
 平塚あやめはルーティンを重んじる女だ。

 PM4:00 出発

「あ、もう時間です。ミーちゃん、ではまた明日お会いしましょう」

 ひとしきりミーとの時間を満喫したあやめは、そそくさとエサ皿を片づけて公園を後にした。

 電車に乗り、帰路につくあやめ。

(はぁ、かわいかったです)

 電車に揺られながら、ミーの姿を思い出すあやめだったが、視界の端になにかが映る。

 かがんで拾ったそれは、定期入れだった。

「あの、落としましたよ」

 落としたであろう持ち主に声をかけるあやめ。

「えっ、あ、ありがとう」
「いえ、どういたしまして」
「定期落とすとか、帰れなくなるところだった。助かったよ」

 あやめは薄っすらとほほ笑みを返した。ルーティンが崩れない範囲のイレギュラーは許容できるらしい。

 PM4:40 帰宅

 こうして平塚あやめの一日が終わる。

(今日もオンタイムです)

 帰宅してから後の家で過ごす時間は、割と自由にしていた。それは母が夕飯を作る時間や父の帰宅時間がまちまちなため、ルーティンを固めてしまうと自分がツラくなるからだ。

 平塚あやめは、昔からほかの人よりも少しこだわりが強く、ルーティンを重んじる子どもだった。
 その性格に難を感じた母親に連れていかれた病院で、あやめは軽度のASD(自閉スペクトラム症)と診断されたこともある。
 子どもの頃は、少しでもペースを崩されたり自分の思い通りにいかないと、癇癪を起こして泣いていたが、ある程度大人になり感情をコントロール出来るようになった今、特に生活に不便を感じることもなく過ごしている。

 自分で決めたルーティンをある程度守れていれば苦しくなかった。

 だから、あやめは人と関わることを自ら避けている。
 そのほうが、自分にとって楽だから。




 いつもと同じ朝。
 いつもと同じ時間に家を出て、同じ電車に乗った。

(電車は好きです)

 本当は、家の近くのバス停から学校近くまでバスも通っていたが、あやめはあえて電車通学を選んだ。まず時間通りに来ないバスと違い、電車は時刻表通りに動く安心感がある。

 この日も、特にすることもなくぼうっとして過ごすあやめの視界に、何かが映る。

(これは……)

 ポトリと落ちたそれをあやめはかがんで拾う。
 目の前を通り過ぎていく人に、「あの」と声をかけた。

「落としましたよ、また」
「あ、ありがとう! この前も拾ってくれたよね?」
「はぁ」
「よく物落とすんだよね俺。ごめんね」
「いえ」

(あ、同じ高校の制服……)

 この前と同じ定期入れを受け取ったその男子生徒は、少し照れくさそうな顔で笑うと、そこに立ったまま動こうとしなかった。

「……3組の平塚さん、だよね? 俺7組の小野寺集(おのでらあつむ)。電車一緒だったんだね」

 あやめは、「そうですね」とぎこちなく返事をする。自分は相手を知らないのに、相手が自分を知っているという状況は、あやめにとっては珍しくない。その理由をあやめ本人もわかってはいた。

 だから、気まずい。
 なんだか、相手に先手を打たれているような、不利な立場にあるように感じる。

 小野寺は、あやめが知らないだけで、学年ではそこそこ人気がある生徒だった。
 茶色味を帯びた髪はサラサラで、甘いフェイスは某アイドルグループの一人に似ていると専らの評判だ。

 彼は、持ち前の人懐っこさを全開に、あやめにあれこれ話しかける。

「平塚さんて、いつも家でなにしてる?」
「えっと、勉強とか読書とかを」
「読書ってなに読むの?」
「主にミステリーとかファンタジーとかです」
「お勧めの作家は?」
「最近は、林博史とか、下橋尚子とかが好きです」
「どっちも知らないなー。今度一押しの作品貸してくれない?」
「良いですけど……」
「ホント?じゃぁ明日持ってきてよ。俺いつもこの電車だから」
「わ、わかりました」

 電車はあっという間に駅に着き、二人は連れ立って降りていく。
 二人とも向かう先は同じなので、小野寺は当然のようにあやめの隣を歩いた。そしてあやめもまた、自分のペースで学校まで歩いた。

「じゃ、俺こっちだから」
「では」

 階段を上った先で小野寺と別れ、いつも通り教室へ向かい、教室の時計を確認する。

(よし、今日もオンタイムです)



――キーンコーンカーンコーン……

 今日もあやめは、終業のチャイムを聞き届けてから席を立ち、校舎を後にする。

「おつかれさまー」

 正門までの道を歩いていると、斜め上から声が降ってきた。
 見上げると、そこには小野寺が居た。

「あ、おつかれさまです」

 小野寺はあやめの歩く速度に合わせて隣を歩く。

(まぁ、問題ないでしょう)

 ミーの所で別れれば問題ないか、と思ったあやめだった。

 がしかし。

「あ、俺もついてく」

 寄り道するから、と振り切ったはずがなぜか付いてくるではないか。
 なんとなく、断わるタイミングを逃して小野寺と一緒にミーにご飯をあげることになった。

「うわ、かっわいー」
「そうなんです、可愛いんです」
「もふもふだ」
「そう、そう、もふもふですよね」

(なんだか、嬉しいものですね)

 小野寺がご飯を食べ終わったミーを抱っこして撫でているのを見ながら、あやめは不思議な気持ちを感じていた。

(可愛いものを誰かと共有することが、こんなに楽しいなんて知りませんでした……)

 それは、今まであやめが感じたことのない、気持ちだった。

「平塚さん、ミー飼っちゃえばいいのに」
「飼いたいのはやまやまですが、アパートだからダメなんです」
「そっかー。じゃぁ、俺ん家くるか? ミー」
「えっ、小野寺くん飼えるんですか?」
「うん、うち猫二匹飼ってるから。二匹も三匹も変わんないじゃん。それに野良って危ないしなー」

 小野寺の膝の上でゴロゴロと喉を鳴らすミーの頭をあやめがなでる。指先に頬をすり寄せてくるミーがたまらなく可愛い。

「確かに……」
「あ、でもそしたら平塚さんが寂しくなっちゃうかな?」
「私はミーちゃんが幸せならそれで」
「ホント? じゃぁこのまま連れて帰ろうかな? あ、でも入れ物ないから明日にするかー。途中で暴れて逃げても危ないしね」
「そうですね……、あの」

 なにか言おうとして、あやめは口を噤んだ。

「ん? なに?」
「あ、いえ、なんでもないです」
「なになに? 気になるじゃん、言いかけたことは言いましょう」

 あやめは、ちょっと考えた後に思い切って口を開いた。

「あの……、その、明日……小野寺くんがミーちゃんを連れていくときご一緒しても良いでしょうか?……ミーちゃんに最後のお別れを言いたくて」
「もちろん! 俺もそのつもりだったし」
「あ、ありがとうございます」
「なんなら俺の家まで見届けてもいいよ?」
「えっ、良いんですか? じ、実は……、小野寺くん家の二匹の猫ちゃんも見てみたいと思ってたんです」
「全然いいよ~、撫でてやって。あいつら絶対喜ぶよ」
「はい」

 あやめの顔には満面の笑みが浮かんでいた。
 それを見た小野寺の顔は、真っ赤に染まるが、もちろんあやめがそれに気づくことはない。

「あ、そういえば、平塚さん時間大丈夫?」
「時間……、あっ――――」

 公園の時計の針は、5時近くを指していた。

(これは……失態です……)

 改めて言う。
 平塚あやめはルーティンを重んじる女だ。



 翌日。
 あやめは、朝から落ち着かなかった。
 
 昨日、ルーティンを崩してしまったことと、今日ルーティンから外れる予定が入っていることが起因している。
 しかも、その予定を自ら入れたという事実に、戸惑いを隠せなかった。

(あんなこと、言わなければ良かった……)

 朝から既に後悔していたが、それでもミーとちゃんとお別れをするんだ、と自分を奮い立たせるあやめだった。


「あっ! おはよう、平塚さん」
「お、おはようございます」

 なんとか気を取り直して、いつもの電車に乗れば小野寺が爽やかに現れる。手に持ったミーを入れるためのケージを持ち上げて、「準備万端」と笑った。

「ご両親はなんと?」
「ちゃんと面倒見るなら良いよって」
「いいご両親ですね」
「放任なだけだけどね。平塚さんの親は?」
「少し過保護なのが玉に瑕でしょうか」
「子どもは何歳になっても子どもって言うしね」

 さっきまでのもやもやがいつの間にか消えていることにあやめは気づいた。厚く垂れこめた霧のようだった気分が、サーっと風に流れていく。そして、その風を吹かせたのが小野寺だと思うと、あやめはなんとも言えない気持ちを胸に感じた。

「じゃぁ、放課後」
「はい。また後で」

(誰かと約束をしたのなんて、何年ぶりでしょう)

 そわそわと落ち着かないのに、胸はほっこりとあたたかい。きらいではない胸のドキドキを持て余すあやめだった。




「平塚さん! 帰ろー」

 いつものように終業の鐘が鳴ってから席を立ったあやめは、その声が自分に向けられたものだと気づくのにほんの少し時間がかかった。

 そして、ワンテンポ遅れて廊下を見たあやめにクラス中の視線が集まる。

「小野寺くんと平塚さん?」
「え、あの二人付き合ってるの?」
「いや、確かに美男美女だけれども……」
「ってかいつの間に?」

(お、小野寺くんてば……)

 気まずさマックスの中、視線から逃げるようにあやめは小野寺のところまで駆け寄ると、彼の腕を引っ張って昇降口へと急いだ。

「なんか、ごめん」
「う、ううん、ちょっとびっくりしただけなので……」
「じゃぁ、行こっか。ミーが腹空かせて待ってるよ」



 公園でミーに餌をあげてから、ケージに入れて電車に乗った二人は一緒に小野寺の家に向かっていた。

「小野寺くん家の猫ちゃんは、オスメスどっちですか?」
「二匹ともオス。近所の野良猫が赤ちゃん産んだんだけど、その兄弟をもらったんだ。ミーはメスみたいだからわが家のアイドルになりそう」
「ふふ、ミーちゃんがアイドルですか」

 ケージの中をあやめが覗き込むと、「ミー」とミーが不安気に鳴いた。

「もう少しの我慢ですよ」
「小野寺さんて、猫にも敬語なんだね」
「癖と言いますか……、これが楽なんです、私は」
「そうなんだ、俺なんか敬語めんどくせーってなる」
「普通はそうかもしれませんね」

 なんとなく、自分が普通ではないと言われているような感覚になって、あやめは俯いた。小学生のころ、「あやめちゃんは普通じゃないから遊びたくない!」と友だちに言われたあの時の、心臓が刃物で傷つけられたような鋭い痛みが胸に蘇る。

『やっぱり私は普通じゃないんだ』

 幼いながらに、友だちの言葉はあやめに事実を突きつけた。

「平塚さんは、普通じゃないの?」
「普通……ではないですよ。クラスメイトにも敬語ですし、毎日のルーティンを少しも崩したくないですし」
「それって、別に普通じゃないっていうのと関係なくない? それに、平塚さん、この前駅で落ちたハンカチ拾ってあげてたよね?」
「あ、見てたんですか」
「あ……まぁ、たまたまだよ、たまたま。それに俺の定期入れだって拾ってくれたじゃん」

 あやめは首をひねり「それは当然だと思いますけど……?」と呟く。

「それを当然だと思ってる時点で、平塚さんは大丈夫だよ」

 小野寺は、隣に座るあやめを真っすぐ見て言い放った。
 あやめは、彼の澄んだ眼差しに見惚れて固まる。

「友だちにはため口で話すのが普通なんて誰が決めたの? 自分の予定が崩されるのは俺だって好きじゃないよ。少なくとも、俺は、平塚さんが楽ならそれでいいと思う」

 目から鱗が落ちた。

「うわっ! えっ、ひ、平塚さん?」

 目の前の小野寺が、あやめの顔を見てぎょっとする。

「ごめんっ! 俺、なんか酷い事言っちゃった?」

 あやめの目から落ちたのは、鱗だけではなく、涙もだった。

「あ……いえ、違うんです……これは……」

 ぽろぽろと、つぎからつぎから零れ落ちる涙を、あやめは手で拭うが追いつかない。

(どうしましょう……、涙が勝手に)

 小野寺は、ミーの入ったケージを抱えたままおろおろと冷や汗を流すだけでなにもできない。
 あやめは小野寺に申し訳なく思いながら、鞄の中から取り出したハンカチで目元を押さえた。

 ずっと、『普通』になりたくて、なれなくて、それならば遠ざけてしまおうと、人から離れた。物理的にも精神的にも。
 相手に構わず敬語になったのも、そのせいだった。
 そして、それがいつしか自分の『普通』になった。
 もちろん、世間の『普通』には程遠い。

 平塚あやめは普通じゃない。

 ずっと言われ続けてきた言葉は、いつしか呪いの呪文となってひそやかにあやめを呪った。

『平塚さんは大丈夫』
『平塚さんが楽ならそれでいいと思う』

 普通じゃないあやめの『普通』を、こんな風に認めてくれたのは、家族以外で小野寺が初めてだった。

(しかも、あんなにさらっと言ってくれるなんて……不意打ちです)

「あの、これはですね、嬉しくて出てきた涙なので……、小野寺くんのせいですが、小野寺くんのせいではありません」
「ごめん、言ってる意味がわからない、平塚さん」
「ふふ、わからなくて良いです」

 ようやく落ち着いた頃には、電車はあやめと小野寺の最寄り駅に到着したのだった。電車が完全に止まるのを待って二人は席から立ち上がる。

「小野寺くん、ありがとうございます」
「よくわからないけど……、どういたしまして」

 お互いに笑いあって電車から降りた二人だった。


 時のめぐりは早いもので、二人が出会ってから2カ月が経とうとしていた。

「ミー!」
「ミーちゃん、今日も幸せそうですね」
「ミーのやつ、三郎と四郎が寝てるとこをアタシと遊んで―って起こしに行くんだよ。二人ともすっげー迷惑そうな顔すんの」

 PM4:20 

 小野寺家の庭先で、あやめと小野寺は並んで縁側に腰掛けていた。
 二人は学校帰りにこうして小野寺の家に来て、庭の木陰で涼む三匹の猫を眺めるのが日課になっていた。
 夏本番の7月、じりじりと太陽の日差しが照り付ける中、途中のコンビニで買ったアイスを片手に、二人は話に花を咲かせる。

 この日、小野寺は一大決心をしていた。

 アイスを食べ終えて、滲む汗をシャツで拭う。

「あのさ……平塚さん」
「はい、なんでしょう」
「俺って、その……、平塚さんにとってどんな存在なのか、聞いても良い……?」

 顔を真っ赤にした小野寺に見つめられて、あやめは一瞬きょとんとするも、すぐに意図をくみ取ったようだ。


 そして、彼女は清々しいまでの笑顔で言った。


「あ、もう時間です! 小野寺くん、ではまた明日お会いしましょう」



 最後にもう一度言おう。

 平塚あやめはルーティンを重んじる女だということを。


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