いつもと同じ朝。
いつもと同じ時間に家を出て、同じ電車に乗った。
(電車は好きです)
本当は、家の近くのバス停から学校近くまでバスも通っていたが、あやめはあえて電車通学を選んだ。まず時間通りに来ないバスと違い、電車は時刻表通りに動く安心感がある。
この日も、特にすることもなくぼうっとして過ごすあやめの視界に、何かが映る。
(これは……)
ポトリと落ちたそれをあやめはかがんで拾う。
目の前を通り過ぎていく人に、「あの」と声をかけた。
「落としましたよ、また」
「あ、ありがとう! この前も拾ってくれたよね?」
「はぁ」
「よく物落とすんだよね俺。ごめんね」
「いえ」
(あ、同じ高校の制服……)
この前と同じ定期入れを受け取ったその男子生徒は、少し照れくさそうな顔で笑うと、そこに立ったまま動こうとしなかった。
「……3組の平塚さん、だよね? 俺7組の小野寺集。電車一緒だったんだね」
あやめは、「そうですね」とぎこちなく返事をする。自分は相手を知らないのに、相手が自分を知っているという状況は、あやめにとっては珍しくない。その理由をあやめ本人もわかってはいた。
だから、気まずい。
なんだか、相手に先手を打たれているような、不利な立場にあるように感じる。
小野寺は、あやめが知らないだけで、学年ではそこそこ人気がある生徒だった。
茶色味を帯びた髪はサラサラで、甘いフェイスは某アイドルグループの一人に似ていると専らの評判だ。
彼は、持ち前の人懐っこさを全開に、あやめにあれこれ話しかける。
「平塚さんて、いつも家でなにしてる?」
「えっと、勉強とか読書とかを」
「読書ってなに読むの?」
「主にミステリーとかファンタジーとかです」
「お勧めの作家は?」
「最近は、林博史とか、下橋尚子とかが好きです」
「どっちも知らないなー。今度一押しの作品貸してくれない?」
「良いですけど……」
「ホント?じゃぁ明日持ってきてよ。俺いつもこの電車だから」
「わ、わかりました」
電車はあっという間に駅に着き、二人は連れ立って降りていく。
二人とも向かう先は同じなので、小野寺は当然のようにあやめの隣を歩いた。そしてあやめもまた、自分のペースで学校まで歩いた。
「じゃ、俺こっちだから」
「では」
階段を上った先で小野寺と別れ、いつも通り教室へ向かい、教室の時計を確認する。
(よし、今日もオンタイムです)
――キーンコーンカーンコーン……
今日もあやめは、終業のチャイムを聞き届けてから席を立ち、校舎を後にする。
「おつかれさまー」
正門までの道を歩いていると、斜め上から声が降ってきた。
見上げると、そこには小野寺が居た。
「あ、おつかれさまです」
小野寺はあやめの歩く速度に合わせて隣を歩く。
(まぁ、問題ないでしょう)
ミーの所で別れれば問題ないか、と思ったあやめだった。
がしかし。
「あ、俺もついてく」
寄り道するから、と振り切ったはずがなぜか付いてくるではないか。
なんとなく、断わるタイミングを逃して小野寺と一緒にミーにご飯をあげることになった。
「うわ、かっわいー」
「そうなんです、可愛いんです」
「もふもふだ」
「そう、そう、もふもふですよね」
(なんだか、嬉しいものですね)
小野寺がご飯を食べ終わったミーを抱っこして撫でているのを見ながら、あやめは不思議な気持ちを感じていた。
(可愛いものを誰かと共有することが、こんなに楽しいなんて知りませんでした……)
それは、今まであやめが感じたことのない、気持ちだった。
「平塚さん、ミー飼っちゃえばいいのに」
「飼いたいのはやまやまですが、アパートだからダメなんです」
「そっかー。じゃぁ、俺ん家くるか? ミー」
「えっ、小野寺くん飼えるんですか?」
「うん、うち猫二匹飼ってるから。二匹も三匹も変わんないじゃん。それに野良って危ないしなー」
小野寺の膝の上でゴロゴロと喉を鳴らすミーの頭をあやめがなでる。指先に頬をすり寄せてくるミーがたまらなく可愛い。
「確かに……」
「あ、でもそしたら平塚さんが寂しくなっちゃうかな?」
「私はミーちゃんが幸せならそれで」
「ホント? じゃぁこのまま連れて帰ろうかな? あ、でも入れ物ないから明日にするかー。途中で暴れて逃げても危ないしね」
「そうですね……、あの」
なにか言おうとして、あやめは口を噤んだ。
「ん? なに?」
「あ、いえ、なんでもないです」
「なになに? 気になるじゃん、言いかけたことは言いましょう」
あやめは、ちょっと考えた後に思い切って口を開いた。
「あの……、その、明日……小野寺くんがミーちゃんを連れていくときご一緒しても良いでしょうか?……ミーちゃんに最後のお別れを言いたくて」
「もちろん! 俺もそのつもりだったし」
「あ、ありがとうございます」
「なんなら俺の家まで見届けてもいいよ?」
「えっ、良いんですか? じ、実は……、小野寺くん家の二匹の猫ちゃんも見てみたいと思ってたんです」
「全然いいよ~、撫でてやって。あいつら絶対喜ぶよ」
「はい」
あやめの顔には満面の笑みが浮かんでいた。
それを見た小野寺の顔は、真っ赤に染まるが、もちろんあやめがそれに気づくことはない。
「あ、そういえば、平塚さん時間大丈夫?」
「時間……、あっ――――」
公園の時計の針は、5時近くを指していた。
(これは……失態です……)
改めて言う。
平塚あやめはルーティンを重んじる女だ。