桜さんの苦しみは自分に対する――失望。いや、その大きさを考えれば絶望と呼んでもいいのかも知れない。

人が当たり前に備えていると思われている、親への愛情がないこと。それ故に彼女は自分が人として失格だと断じたのだろう。

「母が救急車で運ばれたと連絡が来たとき……、頭に浮かんだのは、また仕事を休まなくちゃならないということでした」

静かに、けれどしっかりした口調で語る姿に覚悟を感じる。

「病院に向かう間も母の体の心配よりも、入院や介護が必要になったら仕事や生活がどうなるのか……とか、そんなことばかり考えていました。救急車で運ばれるなんて本当に緊急事態なのに……、どうしてお母さんは自分に迷惑ばかりかけるのだろうと思ってやりきれなくて、腹が立って。……ええ、母が生きていたころはずっと腹を立てていたんです。空しくなるので表には出さなかったけど」

腹を立てていた……。

それを責めるつもりはない。責めるどころかほっとした。そこに人間らしさを感じるから。

桜さんの人生をお母さんが搾取してきたことを思えば当然の感情だと思う。逆に、それを外に見せずに心に収めていたことを思うと……苦しくなる。

「病院に着いた時には母はもう亡くなっていて……」

うつろな瞳はその光景を今も見ているのだろうか。

「救急車を呼んでくれたのがパチンコ屋さんだったと聞いて、あとでご挨拶に行かなくちゃと思って……、行ってみたら、母がその店の常連だったと分かったんです。店内にいるときに倒れたそうで」

深いため息。そのことが大きなショックだったに違いない。パチンコ店通いは悪いことではないとはいえ。

「母はいつも体調不良を訴えていました。それは自分が家事をやらないための口実だと感じていましたが、まさかパチンコ屋さんに通っているなんて思ってもみなかったんです。昼間は気ままに過ごしているのだろうと思ってはいたものの、まさか外で遊んでいるとは……」

それはそうだろう。体調不良を口実に使うなら、せめてそれくらいは気を使ってほしい。

「こんなこと訊いたら失礼だけど、お金は? ただで遊べるわけじゃないよね?」
「母には必要なものに使う分として、毎月五万円渡していました。でも、そのほかに自分の通帳があったんです。荷物を整理していたら出てきて……」

つまり、桜さんが知らなかったお金か。

「父が亡くなる前から持っていた口座のようでした。わたしの通帳の残高よりもずっと多くて……。自分が働いていたころに貯めたお金なのかも知れません。だから自分で自由に使っていたのだと……」

それまで静かだった桜さんの表情が揺れた。悲しみ、そして……悔しさ、だろうか。

「中学に入ってすぐに家計費の通帳を渡されたんです。その範囲で責任を持ってやりくりするようにって。父の保険金と公的な支給金が振り込まれていて……、それを見ながらどれほど計算したことか。いつ足りなくなるかと気が気じゃなくて、いつも切り詰めることばかり考えていました」

それが中学から高校までずっと……。

大学進学をあきらめた気持ちが以前よりもよく分かる。桜さんは、就職すればお金の心配がいらなくなると考えたと言っていた。それはお母さんが桜さん一人に責任を負わせたことから始まっていたのだ。中学生だった彼女ひとりに。

「就職してからはそこまで切り詰める必要はなくなりましたが、蓄えが増えるほどではないし、自由に買い物できるわけでもなく……。母にとって自分は何だったのかという気持ちでいっぱいになって……、そんな通帳は見るのも嫌で、輝に相続で押しつけてしまいました」

そうか。輝さんが受け取ったのはそのお金だったのか。

「まあ、借金を作っていないだけ良かったと言えばそのとおりですけど」

苦々しく笑う彼女が痛ましい。

「でも、それももう済んだことです。問題はそこじゃなくて、わたしがそもそも母が亡くなったことが悲しくなかったことなんです。いいえ、悲しくなかった、では済みません。……ほっとしたんです」

桜さんの瞳に深い闇が戻ってきた。

「病院に着いて母が亡くなったと聞かされたとき、悲しみも喪失感も湧いてきませんでした。ただただ解放された、と……。突然訪れた開放。それに驚き、茫然としていたわたしを、周囲の人たちは親を失ったショックだと受け取ってくれたんです。当然ですよね? 親が亡くなったのですから」

周囲がそう受け取ったのは分かる。俺自身も、桜さんの態度を同じように解釈していたし。

「親が亡くなってほっとするなんてあり得ませんよね。でも……」

いつかうちの祖父や両親が亡くなったら俺は――? 亡くなる理由によるけれど、少なくとも淋しさは感じるに違いない。けれど、桜さんは……。

「葬儀のあとは、もうそれっきり母とは関わりたくなくて、仏壇の部屋も閉めっぱなしです。お水は毎日あげなおしているけれど、本当はそれすらも苦痛で。でも、父の分もあるし……。自分を生んで、父が亡くなってからは一人で育ててくれた母に感謝も愛情もないなんて……わたし、ひどい娘なんです」

確かに小さい娘二人と共に残されたお母さんは苦労したのかも知れない。けれど、俺はお母さんの行為が親として適切だったとはどうしても思えない……。

「小さい頃は楽しいことだってあったんです。父が亡くなったあともしばらくは……。なのに、そういう思い出よりも自分が苦しかった記憶の方が大きくて、苦しくて、母のことを考えたくない……」

そう告白しながら、彼女は、そういう自分に傷付いている――。

「わたし、愛情の薄い人間なのだと思います」

真剣な表情が俺を見つめる。

「そして自分のことばっかりしか考えられなくて……。だから、家族を持つべきではないように思うんです。家族に愛情が持てなくて、自分の都合ばかり押し付けて、不幸せな思いをさせるかも知れない。わたしは……誰かを不幸にするのは嫌なんです」
「……なるほどね」

桜さんは言いたいことをすべて言ったらしい。大きく息をついて背中を椅子の背に預けた。寂しげでうつろな表情のままで。

――なんて悲しい経験だろう。

桜さんがお母さんの死を解放だと感じたことは、俺にはまったく正当な感情だと思える。悲しみを感じなかったことだって。

けれど、血のつながりという事実が彼女を責めるのだ。俺がどう思うかよりも、何をしても揺るがない「親子」という事実が。その変えようのない事実を相手に、俺にできることは――。

「よし。じゃあ、食べながら、どうするか考えよう。冷めると硬くなるって言ってたよ」

面食らった様子でこちらを見返す桜さん。俺の口調の軽さにびっくりしたようだ。

「ほら、美味しそう」

さっき届いた二段重ねのせいろ。上段には緑と白の丸っこい餃子が行儀良く並んでいる。下段には焼売。「ね?」と笑いかけると戸惑いながら桜さんが頷く。

美味しい食べ物は気持ちを明るくすると、俺は思う。……いや、誰と食べるかも大事かな。桜さんにとってお母さんと二人だけの食事は苦行だったかも知れないから。でも俺となら。

「はい、お醤油。それからお酢」

桜さんは強い人だ。

その強さがあったからこそ、彼女の良い性質が守られてきた。けれど一方で、彼女が傷付いていることを他人の目から覆い隠し、誰も彼女を助けることができなかった。

でも今、彼女は自分の苦しみを話してくれた。俺に。だから……きっと助けられる。

「どっちを先に食べる? 白? 緑? 色がきれいだよね」

蒸し餃子はもちもちする皮の食感が楽しい。中の海老のしっかりした存在感に思わず笑顔になる。一口かじった桜さんは困った顔をした。重い話の直後に嬉しい顔はしづらいのだろう。「こういう餃子は家ではなかなか作れないよね」と俺が言うと、やっと小さく「はい」と声を出して答えてくれた。

そう。美味しい食べ物は悲しい心に効く。好きな相手と食べればなおさら。

「はい、新しい取り皿使って」

春巻きは冷めてもパリッとしているし、海老の炒め物は濃いめの味付けがお酒に合う。食べながら、俺はあれこれしゃべり続け、桜さんはそれにおずおずと微笑んだり頷いたり。反応が控えめなのは、さっきまでの彼女の告白と今の状況にギャップがあり過ぎて、どうしたらいいのか分からないせいだ。

「飲み物を追加しようよ。どれにする?」

困ったままの桜さんを促し、一緒にドリンクメニューをのぞき込む。続けて料理の追加を選ぶうちに、ようやく桜さんの硬さが消えてきた。

「風音さん、わたしに美味しいものを食べさせれば機嫌が良くなるって思ってます?」

注文が済んだところで彼女が言った。ちょっと拗ねたような表情に自分の勝利を確信する。

「ただ食べさせるんじゃなくて、一緒に食べるっていうのがポイントだね。俺は桜さんの癒し担当だから」
「……冷やし、中華?」
「いやいや、”冷やし“ じゃなくて ”癒し” だから。癒し担当。桜さんの冷やし中華ってなんだよ?」
「ああ……、癒しでしたか。すみません。意味がよく分からないなあって」

真面目に聞き間違えた? それともきまり悪さを隠すためにわざと間違えたのか。どちらにせよ、桜さんらしさが戻ってきた。

「風音さんの癒しは効果抜群ですね……」

抜群だと言いつつ、元どおり元気というわけではない。でも、肩の力が抜けている。

「せっかく桜さんが選んでくれたお店だし、美味しいものは楽しく食べないともったないよ」
「はい……。そうですね」

ようやく素直に頷いた桜さんに対して、胸の奥底から愛しさがこみ上げてきた。

お母さんに対する気持ちを俺に話す決心をするまで、彼女がどれほど悩んだのか。話さずに結婚することもできたのに、桜さんは自分が人として失格だと打ち明けるなどという、自分に不利な、そしてつらい道を選んだ。俺に考え直す機会を与えるために。それは彼女の正直で公正な性質の、そして愛情の証だ。愛情が薄いなんてとんでもない!

そういう桜さんを、俺は必ず、ずっと、大切にする。これからの長い年月、桜さんが落ち込んだ時にはいつでも桜さんを癒して、笑顔を取り戻す手伝いをする。

だから桜さん、心配しないで一緒に歩いて行こう。