「筋肉痛です……」
待ち合わせ場所で俺の顔を見るなり、桜さんが悲痛な表情で訴えた。昨日の表木刀の稽古が原因だ。
「ごめんごめん。表木刀初めてなのに、結構長くやっちゃったから」
「いえいえ、楽しかったですし、覚悟はしていたからいいんです。ただ、思ったよりも広範囲に来て……」
桜さんが「こことかこことか」と、ジャケットの上から体や腕を叩いてみせる。
「そうだよね。俺だって間が空くと筋肉痛になるよ」
「風音さんでもですか? それならわたしがこうなるのは当然ですね」
小さくため息。けれど、こちらを見上げた瞳は決意で輝いていた。
「でも、上手になりたいです。あれをちゃんと振れるようになったら格好良いですから」
「格好良い?」
桜さんからそういう言葉を聞くとは思わなかった。
「はい。上手くできたら格好良いです。雪香さんとか水萌さんとか、憧れます」
「……そっか」
俺ではなく、ね。
「あ、今日のお店はあっちなんです。点心が中心のお店なんですけど、大丈夫ですか?」
「もちろん」
にっこりして彼女が歩き出す。振り返って「ネットでは落ち着いた雰囲気だって書いてありました」と続けるのを聞き、やっぱり真面目な話をするつもりなのかと気持ちを引き締める。と同時に桜さんの手を取った。何があっても俺の気持ちが変わらないと伝えるつもりで。
おそらく彼女は静かな店を想像していたのだろう。でも、ネットの情報で来店者まで予想するのは困難だ。
店についてみると、どのテーブルでも料理と酒を前に、お客が賑やかに笑っている。酔っぱらっているのか、話し声も大きめだ。
「お店の選択を間違えた気がします……」
料理の注文を済ませたところで桜さんが悔しそうにテーブルの上で拳を握った。俺は彼女が真剣にレストラン検索している姿を思い浮かべて気の毒に思いつつも、悔しがる様子が楽しくて、微笑むのを止められなかった。
「いいじゃん、美味しそうだし。お店も綺麗で気持ちがいいよ」
「そうなんですけど……」
言葉を切って、桜さんが店内を見回す。
桜さんが選んだ中華レストランは、モノトーンで統一された設えが洗練された雰囲気だ。黒い表紙のメニュー帳には小さなせいろに入った色とりどりの餃子やきれいに盛り付けられた小皿料理の写真が品良く並んでいた。
確かに店内は賑やかではあるけれど、テーブル同士が適度に離れているから、個人的な話ができないわけではない。みんな自分たちで楽しんでいることも、こちらの会話を他人に聞かれないという点で良い気もする。……と言っても、桜さんから話があるとは言われていない。俺の取り越し苦労かも知れない。
けれど、どうしても考えずにはいられない。これまで楽天的な気持ちが勝っていた俺でも、ここにきて断られる場面が繰り返し頭に浮かんでくる。ただ、店の活気が自分に有利に働くような気もしている。――やっぱり俺は楽天家かな。
「では、お疲れさま」
俺はビール、桜さんは紹興酒のカクテル。桜さんは料理同様、お酒もいろいろ試しているが、今のところは特にお気に入りの酒には出会っていないようだ。今も一口飲んで、ふむふむという顔をしている。そして。
「あのですね」
グラスを置いた桜さんが畏まった様子で切り出した。その様子が――。
「ぷふ、ふっくくくく……」
思わず笑ってしまった。桜さんが「な、なんですか?」と、うろたえる。
「いや、ちょっと思い出しちゃって」
この展開、記憶にある。あの日とおんなじだ。
翡翠の結婚を俺に報告する使命を帯びた桜さんは、今とまったく同じことをした。乾杯の一口目の直後、居ずまいを正して用件を切り出したのだ。
桜さんは大事なことを先に済ませないと落ち着けない性格らしい。これからもこういうことがあると覚悟しておかなくては。
「ごめんごめん。どうぞ話して」
促しても戸惑い顔の桜さんは迷っている。そこに一皿目の料理が届き、桜さんが目を輝かせた。大事な話があっても、食べ物に対する興味が隠せないところが微笑ましい。仕切り直しにもちょうど良いので「お腹空いたから食べようよ」と告げると、桜さんは照れくさそうに頷いた。
蒸し鶏や野菜を一通り味わい感想を述べると、彼女は今度は俺の様子を確かめてから箸を置いた。それから自分を励ますように一つ息を吐いた。
「風音さんにはいつも親切にしていただいて、とても感謝しています。ありがとうございます」
――とうとう来たか。
気持ちを引き締め、彼女にしっかりと注意を向ける。この出だしはどの方向に流れるのか判断できない。
「でもたぶん、風音さんはわたしのことをちゃんと分かっていないと思うんです。……と言うか、隠してたことがあって」
隠していたこと? お母さんとの関係のことだろうか。でもそれは。
「言いづらいことなら言わなくても構わないよ」
悲しいことを思い出して傷付いてほしくない。輝さんから聞いたと伝えた方がいいだろうか?
それに、俺だって桜さんに話していないことがある。学生時代の黒歴史とか。
「確かに話しづらいことですけど、これは言わなくちゃならないことなんです。風音さんにも関係することだから」
「……そう?」
「ずっと話す勇気が出なくて……。でも」
真っ直ぐに俺を見ている桜さん。
「きのう、表木刀をやっている間に気持ちが強くなったというか……」
「表木刀で?」
「はい。風音さんと相打ちができるようになって――もちろん、手加減していただいているのは分かっています。でも、本当ではないにしても、あれは戦いで」
そのとおり。形であっても戦う気持ちで向き合っている。
「打ち合っているうちに、自分の中にもちゃんと立ち向かえる気持ちがあるんだって気付いたんです。それで勇気が出て……、風音さんに話す決心がつきました」
「そう。分かった。聞くよ」
どんな話を聞くことになるのか気になるけれど、それよりも、稽古が彼女に前向きな変化をもたらしたことが嬉しい。それは彼女が真剣に剣術に取り組んでいるということだから。俺と同じ思いを分け合えるということだから。
「ありがとうございます」と軽く頭を下げてから桜さんが顔を上げた。その挑むような表情はきのうの表木刀の稽古と重なる。そして、あの日の輝さんとよく似ている。どんな内容であれ、彼女は今日のために大きな覚悟をしてきたに違いない。
「風音さんは……翡翠も、わたしをたくさん褒めてくださいます。でも、わたし、そんなに良い人間じゃないんです」
お母さんに関連する話じゃない? 良い人間じゃないって……?
犯罪がらみの言葉が頭の中を駆け抜ける。仕事で不正を働いた? プライベートで違法なことを? 桜さんが? いや、まさか! あり得ない!
「……それはどういうこと?」
「わたし……自分勝手で意地が悪いんです」
性格の話か!
そりゃそうだ。桜さんと犯罪なんて、どう考えても結びつかない。そして、性格の話なら確かに俺にも関係があると言える。
それにしても、よりによって自分勝手で意地が悪いとは! 遠慮の塊のような桜さんが!
でも、本人はそうだと深く思い込んでいるわけか……。
「お前は心の冷たい人間だって、母にもずっと言われていました。最近は自分でもそうだと分かるんです。もしも一緒に暮らしたら、きっと風音さんに嫌な思いをさせてしまいます」
「ええと、ちょっと待ってね」
頷いた桜さんがグラスを手にした。少し肩の力が抜けたようだ。今のが話の重要部分だったということか。
――ふむ。
俺もビールで喉を潤す。ちょうど春巻きが届いたので、桜さんに取り分けてあげながら、頭の中を整理する時間を稼いだ。
思い出してみると、彼女は初めから自分が振られることを想定していた。でもそうはならず、俺は彼女との結婚を望むに至った。
そしてあの日、桜さんは気持ちは同じだと言ってくれた。けれど、考えないといけないことがあるとも言った。それがこの話なのだろう。自己評価が低いことは分かっていたけれど、この感じだと評価が低いどころか自己否定と言った方が正しいような気がする。
「俺は今まで桜さんが自分勝手だとも意地が悪いとも思ったことなかったけどなあ」
「それは……他人の前では良い子でいますから」
少し不貞腐れたように視線を逸らす様子が子どもっぽくて新鮮だ。こんな時なのに、からかってみたくなってしまう。
「結婚したら、俺にも意地悪する?」
「そんな……! しませんよ! 絶対にしません!」
「だよね」
絶対にしないと言ったときの嫌悪の表情は本物だ。他人に意地悪などできるひとではないのだ。
「でも……、気付かずにするかも知れません」
「そう?」
何故、そう思い込んでいる?
きちんと話を聞いた方がいいかも知れない。辛いことを思い出させるとしても、彼女は覚悟して来たのだから。ここはたぶん大切なところだ。
「お母さんが……関係しているのかな? さっき、ちらっと聞こえたようだったけど」
「母が……」
言いかけて唇を噛んだ。やっぱり思い出すと辛いのだろうか。輝さんもこんなふうだった。
「……母のことを話すのは慣れていなくて。自分の醜いところを話すのも」
力なく息を吐く桜さん。俺にできるのは黙って耳を傾けることだけだ。そにしても「醜い」とはずいぶん強い言葉だ……。
「輝から母のことを聞いているんですよね?」
「ある程度は。かなり――感情的なお母さんだったらしいね」
「感情的。ええ、そのとおりです。ちょっとしたことで怒り出すので、わたしたち、母を怒らせないことばかり考えて暮らしていました。でも、それはいいんです。ときどき思い出して苦しいことはありますけど、もう終わったことですから」
淡々とした口調。過去の暮らしに対して、怒りも悲しみも悔しさも残っていないというのは本当のようだ。そんな感情を抱き続けても良いことなどないのだから、なくなってしまって良かった。けれど……?
「問題はわたしです。わたしの……、わたしの中にある残酷さ、というか」
残酷……。
さっきの「醜い」に続いてまたしても強い言葉だ。桜さんがそこまで自分を貶める何があるというのか。
「わたし……母のことを何とも思っていないんです」
「……え?」
お母さんの仕打ちを恨んでいない――という意味にしては表情が暗い。暗いどころではない。絶望とでも呼べそうな昏い瞳。
「母に対して愛情も、懐かしさも……何も感じないんです。亡くなったことを悲しいとも感じません。家族なのに。……自分を生んでくれた親なのに」
親なのに――。
そのひと言で、雷に打たれたように桜さんの苦悩を理解した。