稽古での桜さんが変わった。

はっきりした変化ではないが、明らかに、何かが。

弱気な発言が減り、質問することが増えた。覚悟のようなものが芽生えたとでもいうのだろうか。真面目なのは以前からだけれど、そこに落ち着きが加わったようにも感じる。初めての演武に向けての変化かも知れないし、これまでの稽古を経て何かを見つけたのかも知れない。

きっかけは何であれ、前向きな変化は歓迎される。特に桜さんの場合はもともと控え目な性格だから、質問するにしても、誰かの邪魔をするほどになるわけもない。教える側としては、困っていることを申し出てもらった方が指導もしやすい。

祖父も、桜さんに教えるのが楽しそうだ。特別扱いしているという意味ではなく、自分の指導に対する桜さんの反応を楽しんでいるように感じる。

彼女は祖父の言葉を素直に聞き、きちんと礼を言う。少々厳しい言い方をされても落ち込まないし、「こうですか?」「こっちですか?」と何度でも繰り返して確認する。敬意を持って接しつつも、基本的に彼女は祖父に対して萎縮せず、教えを明るく素直に、そして柔らかく受け止める。こういった態度の根底には祖父に対する信頼が流れているように思う。

そんな桜さんを、祖父は孫のように感じているのではないかと思ったりする。思えば祖父は彼女が小学生のころから知っていたわけだし、もしかしたら義理の孫になる可能性もあるのだから。

でも……、実の孫である雪香にはときどき遠慮している気配があるから、孫扱いとは違うかな。祖父と桜さんに仲良くなって欲しいという俺の願望で、特別に見えるのかも知れない。

義理の孫……か。

海で思わず口にしてしまったプロポーズについては後悔していない。俺は形式ばったことは苦手だから、自然な形で伝えることができて良かったと思っている。もしも桜さんがロマンティックなプロポーズに憧れていたとしたら申し訳なかったけれど、たぶん彼女はそういうタイプではない。あの時、怒っても、失望してもいなかったし。

でも、オーケーしてくれたわけじゃない。考えないといけないことがあると言った。つまり、断られる可能性もあるということ。

なのに、俺の頭の中には桜さんとの楽しい生活が次々と浮かんできて、具体的に話を進めたい気持ちばかりが募る。それがエスカレートする度に、断られるシーンを強制的に想像してブレーキをかけている状態だ。とは言っても。

桜さんの気持ちは俺と同じなのだ! 間違いなく!

だからきっと、前向きな彼女は自分の迷いに決着を付けて、俺と一緒に進む決断をしてくれる。それまで何か月かかっても、俺は待つことができる。だって、稽古で会えるし、ふたりで出かけることも断られていない。

そもそも以前にも、一緒の将来を考えていると伝えてあり、今回も返事を迫ったわけではない。要するに、今までと状況はたいして変わってはいないのだ。

ただ、少し心配なのは、あの低い自己評価。彼女がひとりで考えると、あれに捕まってしまうのではないだろうか。そうなったら簡単には進めなくなる。それどころか、きっぱりと断られてしまう可能性だってある。

一度断る決心をしたら、頑固な彼女のことだから、考えを翻させることは困難を極めるだろう。

そうならないために、俺は桜さんと今までよりもたくさん会うつもりだ。だって、俺と一緒にいると何でも上手くいきそうに思えるというのだから。

本当は、常に俺と一緒にいればいいのだ。そうすれば彼女はいつも未来に希望を持って過ごすことができる。気楽すぎるかも知れないが、これが一番良い解決方法だと思う。



丹田(たんでん)がどうしても分からないんです。おへその下って言われたのですけど……」

ひとりで抜刀術を練習している桜さんの様子を見に行くと尋ねられた。

「うん。手の幅くらい下かな」

丹田は体の中心、あるいは重心などと言われ、場所は「へそ下三寸」と説明されたりする。丹田に力を入れることで姿勢を保ち、体と力を上手く使えるようになる。教わったのはたぶん、入門して間もなくのはずだ。

「腹筋とは違うんですよね?」

眉間にしわを寄せて自分のお腹に手を当てている。肩や腕と違って教えるときに触れない場所なので、確かに分かりにくいかも知れない。

もしかしたら、夏の間もずっと考えていたのだろうか。自分で考えるだけ考えて、ようやく尋ねてみたらしい。

斬ったときに前傾してしまうのは丹田が上手く使えていないのだろうとは思っていた。でも、そもそも場所が分からないということは考えから抜け落ちていた。

「ちょっと構えて、正面斬ってみてくれる?」

返事をした桜さんが刀を抜いて正眼に構える。上段に振りかぶり、一歩出ながら下段まで振り下ろすとひゅっと軽い音が出た。彼女の上達に思わず微笑む。そこでストップをかけ、前かがみになっている姿勢を直す。

「今、腰を正面に向けてるよね? その中心のあたりを意識してみて。で、そこに芯が入っているような気持ちで上体を支えるんだ」
「腰の中心のあたり……」

桜さんはつぶやきながら、下段のままバランスを探る。

「あれ? ……ということは? 骨盤の中……みたいな?」

確かめるように俺を見上げる。

「うん、そうそう、そのあたり」
「そこに芯が入っているように……」

大きく踏み出した足の上で上体がまっすぐに起き、腰が安定した。

「体が楽になった気がします」
「そうだよね。今度は正眼でやってごらん」

構えなおすと、今までよりも上半身の揺れが少ないのが分かる。

「ああ……そうなんですね! ずっと間違えていました」
「間違えて?」

「分からなかった」ではなく、「間違えて」?

「お腹の表面にあると思っていました。だからなんだか変だったんですね。ここなら力が入ります」

すっきりした表情で彼女が言い、踏み込んで正面を斬った。まだ揺れるけれど、さっきよりも上体が起きているということは、正しい方向に向かっているということだ。

「表面ではないねぇ。どうしてそんな勘違いを……」

体には厚みがあるのだから、重心は表面にはならないはずなのに。首をひねる俺に彼女は苦笑い。

「おへその下って言われたので……。ネットで検索したときも、正面からの人体図を見たから……。そのまま鵜呑みにしちゃったんですね」
「ああ……」

説明を聞くと納得できる部分もある。とは言え、これは桜さんの極端な素直さに起因する、彼女ならではの勘違いのような気がする。輝さんが、桜さんは簡単に物事を信じてしまうと言っていた、まさにその一例かも。

「間抜けですねぇ。恥ずかしいです。ちょっと考えれば分かるはずなのに」

まあ、この程度の勘違いはご愛敬というところだろう。それに、今はちゃんと分かったのだから、目出度し目出度しということで。

「じゃあ、丹田が分かったところで、一緒に抜刀術やってみようか」

俺の提案に桜さんはぱっと顔を輝かせた。

「ありがとうございます! 隣でやっていただくと、とても勉強になります」

俺たちの将来の話にも、こんなふうに笑顔できっぱりと同意してくれないかな。「いいですね! 結婚、しましょう!」なんて。

いそいそと隣に並ぶ桜さんを見ながら溢れてくる愛しさともどかしさを、そっと吐息で逃がす。

次に会えるのは週末だろうか。会えない日には電話をしよう。うちに遊びに来てもらうのもいいかも知れない。それともちょっと旅行に――。

「お願いします」
「では」

並んで鏡に向かって開始の姿勢を取ると、静かに雑念が消えていく……。