まだ驚きから抜け出しきれない……。
気持ちを落ち着けようと素振りをしたのに、刀を片付けたらまた胸の中に重い塊が戻ってきた。こんなこと、今までなかった。
それほど輝さんの話がショックだったということだ。お母さんとの生活があれほど過酷なものだったとは。
聞いた話が頭の中で渦を巻いている。俺が想像していたものとはまったく違っていた坂井家の暮らし。お母さんの怒りを恐れながら暮らしていたという過去。
違う。桜さんにとってはつい数か月前まで続いていた現実。そう。過去と言って片付けられるほど遠くない。まるで閉じ込められたような……十八年もの期間。
行動の自由を奪われ、家族のために働き、笑うことも泣くことも禁じられた生活。桜さんはあんなに好奇心旺盛で生き生きとしたひとなのに、それを表に出すことができなかったなんて。
それとも逆だろうか。不自由な生活が、彼女を好奇心旺盛にした?
……いや、そんな風には考えたくない。桜さんの魅力が過去の苦しい日々のお陰だなどと。因果関係があるとしたら、それは桜さんの心の強さだ。けれどそれは輝さんを守るために使われて、彼女自身の防護壁はボロボロだったのではないだろうか。
桜さんがときおり見せた将来への諦め、そして頑固なまでに低い自己評価。それらは、長く続いたお母さんの強い支配と攻撃によるものだ。小学生のころから人格を否定され続けた桜さんが、自分には価値がないと思い込んでしまうのも無理のないことだ。
いったい俺は、今まで何を見て、聞いていたのだろう。祖父の話だけじゃなく、翡翠の話にも、怪しむべき点はあったのに。
現に翡翠は桜さんのお母さんの行為を「ひどい、意地悪だ」と思っていたと言っていた。祖父だって、親子関係に不穏なものを感じていたからこそ俺にあの話をしたのだ。なのに俺は、”病気がちな母親と、その母親を助ける孝行娘“という美談を頭の中で創り上げ、聞いた話をすべてそれに当てはめていた。なんと単純で安易な思考なのか。
桜さんがお母さんの話題に口が重かった理由だってそうだ。あれはおそらく辛い経験と結びついているからだ。俺はそれを母親を亡くした悲しみや喪失感のせいだと解釈していた。そういう感情を抱くことが娘として当然だという前提で考えていたから。
けれど……。
彼女にとってはそう思われる方が気持ちが楽だったのかも知れない。お母さんは体調が悪いと説明していたのと同じ理由で。
誰にも助けを求めずに、母親の攻撃を受け止めて、耐えてきた桜さん。罵倒され、支配される生活の中、何を思ってきたのだろう。
中学生から高校生という、将来を考える期間に、彼女は一家の支え手という役割を担っていた。やりたいことがあっても、彼女が担う役割はほったらかしにできるものではなかったし、お母さんがそれを許さなかったはずだ。
逆に見れば、桜さんの葉空市役所への就職は、お母さんにとって好都合だったのではないのか? 桜さんを手元に置いておけば、収入と家事担当が将来にわたって確保できるわけだから。
桜さんの責任感や義務の意識が家庭での役割を放り出すことはないと、お母さんは読んでいたのではないだろうか。あるいは桜さんがそういう選択をするように仕向けていた可能性もある。輝さんの話から推測するに、それは難しいことではなかっただろう。
こういう経緯があったから、輝さんが俺を試したのだ。ようやく自由を得た桜さんがまた閉じ込められることのないように。
まるで独裁者のように坂井家に君臨していた桜さんの母親。いったい何を望んでいたのだろう。
安楽な生活? 家来のような子どもたち? それが幸せだと思っていたのだろうか。
それとも娘たちをいじめることで満たされた気持ちに……、いや、いくら何でもそれはないだろう。きっと、のらくら暮らしたいというくらいのことだったのでは。
けれど……、本当に具合は悪くなかったのだろうか。輝さんはああ言ったけれど、すべてが仮病だったわけではないのかも知れない。少なくともどこかの時点では。
輝さんは五年前に家を出ている。本当のところは桜さんに聞かなければ分からない。とは言え……。
桜さんにお母さんの話をさせる気にはなれない。
だって、話すためには思い出さなければならない。思い出すということは、当時の気持ちも再び味わうということ。そんなことはさせたくない。だったら俺は知らないままでいい。今となっては何も変わらないのだし。
桜さんは……心から笑うことはあったのだろうか。
輝さんと一緒のときは、きっとあったに違いない。ふたりで行った買い物は楽しかったと輝さんも言っていたから。学校も心が休まる場所だったかも知れない。でも、そのあとは? 輝さんが安全な場所へと脱出したあと、何か希望や楽しみを持つことができたのだろうか。
恋くらいはしただろうか。友達は?
……そうだ。翡翠がいた。一柳さんも。
桜さんを心配し、楽しませようとしてくれる友達。一緒に出歩くことはできなくても、あのふたりが支えになっていたのは間違いない。
翡翠が桜さんの言葉に救われたように、ふたりの存在は桜さんにとって安らぎだったに違いない。だから彼らと一緒のときの彼女はあんなにリラックスして楽しそうだったのだ。そして――今は、俺がいる。これからは俺が桜さんを支え、守る。
桜さんを攻撃するお母さんはもういない。けれど、桜さんの中には、他人に対する潜在的な恐怖心という形でお母さんの影響が残っている。自己評価が低いことからも簡単には抜け出せないだろう。意見の対立を恐れることも、最初のころに見せたガラス越しのような感じの良さも、目立ちたくないというこだわりも……、そして、下を向きがちなことも。
俺はべつに、それらを乗り越えて直せばいいと思ってはいない。彼女のそうした傾向は彼女の生き易さのために必要なのだと思うから。それに、稽古を見ていれば分かるとおり、桜さんはけっこう愛されキャラだ。本人がどんなに控えめにしていても、みんなが彼女を仲間だと認め、親しみを感じている。それは、彼女の本質的な人柄が好ましいものであるからだ。
それに、彼女は自分の弱みをちゃんと分かっている。そのうえで世界とどうにか折り合っていこうと努力している。
自分のことに関しては頑固な彼女は、周囲に対しては自己主張はしない。相手に合わせる柔軟でしなやかな思考は彼女が馴染んできた、そして得意とするところだろう。けれどその一方で、自分の思いや願いを閉じ込める行為でもある。
だから俺は、桜さんの思いを受け止め、願いを叶える役割を担いたい。彼女が自己主張できる安全な居場所を提供したい。彼女が楽しく笑っていられる時間をたくさん作りたい。
彼女に寄り添い、一緒に歩いてゆく。必要とするときに手を貸し、支える。彼女の過去を知った今、これまで以上に強く、そうしたいと願う。
これは憐みの気持ちからでは、決して、ない。
桜さんが辛い経験をしてきたことは事実だ。けれど俺は、彼女に対して ”気の毒な人” という視点で接することはしないつもりだ。それは桜さんに対して失礼だから。
桜さんは――輝さんも――厳しい生活を強い意志を持って過ごし、今は自分の力で堂々と、気高く、自分の人生を歩んでいる。他人からの同情や特別扱いなどはまったく必要としていない。逆に、見下されたと感じて傷付くだろう。
だから俺は、桜さんたちの生い立ちについては一旦脇に置いておくことにする。ただ、過去の経験が今の彼女を苦しめるときは、それを取り除く手伝いをしたい。それが俺の役割だ。
桜さん……。
桜さんに会いたい。声を聞きたい。
今、何を思っているだろう。輝さんと楽しく語らっているだろうか。笑っているだろうか。家の中で、気兼ねなく。
必ず幸せにする。一緒に笑ったり、怒ったり……、おおらかで楽しい家族になろう。