『じゃあ、ちゃんと話せたんだね? よかった!』
スマホの向こうで翡翠の声が弾んだ。
結婚のお祝いを直接言おうと電話をかけたら、逆にこちらの状況を尋ねられた。結婚の報告を桜さんに言付けた裏にはやっぱり、俺と桜さんの関係も前進するように――いや、前進させろと、俺をせっつく狙いがあったようだ。
「まだ何も約束したわけではなくて、入口ってところだけどね」
そう。彼女は初めて自分の気持ちを伝えてくれた。さよならするのは淋しいと。これまで褒め言葉は口にしてくれても、俺を好きだと確信できる言葉は言ってくれなかった彼女が、俺と離れることが淋しいと。
『それでも桜が前向きに考えるようになるだけでも十分。今までは、自分は結婚に向いてないなんて言って、笑い飛ばすだけだったんだから』
「向いてない?」
もともと家族のことと仕事を両立させてきた桜さんが?
「結婚願望がなかったってこと? 一人で生きていきたいとか……」
お母さんのことで苦労してきたから? だとしたら、俺は彼女に自分の価値観を押し付けてしまったのだろうか。他人と違う意見を言うのが苦手だという彼女に。
『心配しなくて大丈夫。桜は結婚したくないんじゃなくて、自分はダメな子だから、結婚しても家族を幸せにできないっていう意味。相手に悪いって。冗談半分を装ってはいたけど、あれはねぇ、結構本音よ。分かるの』
「幸せにできないから……。桜さんらしいなあ」
そんな彼女が、俺と一緒にいると何でも上手く行きそうな気がすると言った。さよならするのは淋しいと、メッセージをくれた。それを思うと愛しさがこみ上げてくる。
「確かに桜さんは自信がないって言ってたよ」
『うん。自分はダメだから……って桜の口癖みたいなものだよ。それを言い出すと、あとはあたしが何を言っても効き目がないの。『翡翠は優しいからそう言ってくれるけど』って、何もかも諦めたみたいに言うだけで……』
なんとなく想像できる。諦めたような表情の彼女は実際に何度か見ているし。
『そうなると、もうそれ以上は続けられなくて、話題を変えるしかなかった。ほんとに頑固で』
「……どうしてなんだろう?」
ふと思う。
『え?』
「いや、ほら、誰でも自信がなかったり、自己評価が低かったりするところはあるけど、桜さんは特に強いっていうか、確信があるような言い方するよね?」
翡翠は桜さんにとって信頼できる友人だ。その翡翠の言葉も受け入れられないほど固く思い込んでいるとなると。
「そんなに強い思い込みって、どこから来たのかと思って」
『そうねえ……。桜はその話になると何も言わなくなっちゃうの。だから……口に出すのも辛いのかなって思ったよ』
口に出すのも辛い、か……。
桜さんは自分の過去を、比較的軽い口調で話してくれた。お母さんのために自由な時間がなかったことも、大学進学を諦めたことも、残念だけれど仕方がないと割り切った様子だった。その彼女が口に出すのも辛いというのは――。
「何かがあったのかな……」
『何か? どんな?』
「うーん、桜さんがひどく傷つくこと。誰かにとても酷いことを言われたとか」
そうなのかも知れない。
そうじゃなければ、あれほど頑なに思い込むことはないような気がする。桜さんが信じていた誰か。例えば――。
『昔の彼氏とか好きだったひととか?』
「う……、そう、だね。そういう相手に酷いことを言われたらショックだよな」
今の想像で俺も少しばかり傷付いた。
『でも、もしそうだとしても、所詮は昔のことでしょ? それを引きずっているのは桜っぽくないな』
「そうか?」
『んー、あくまでもあたしの印象だけど。桜って諦めるのは早いっていうか、気持ちを切り替えるのが上手なんだよね。ときどき思い出して落ち込むのはあるとしても、最終的には何かを頑張って、1ランクアップしようっていう方にエネルギーが向くような気がする』
「あ、それ、桜さんっぽい!」
『ね?』
そうだ。十代の頃から桜さんはいろいろなことを諦めてきたのだ。でも、そこで止まらないで、彼女は自分の道を切り開いてきた。もちろん、家庭の事情が許す範囲内という制限はあったけれど、立ち止まりはしなかった。
『でもまあ、それを乗り越えてクロと桜が上手く行きそうで、本当にほっとした』
翡翠がしみじみと言った。
『あたしがプロポーズを受ける決心ができた理由の何パーセントかは、クロが現れたことだったんだよ?』
「俺?」
『そう。だって、あたしがイッチーと結婚しちゃったら、桜がひとりになっちゃうでしょ? あたしたちが桜の友達でいることは変わらなくても、桜のことだから、勝手に遠慮しちゃうじゃない。だからクロがいてくれれば安心って思ってたの』
そうか。ふたりが結婚することで、桜さんが心を許せる相手の優先順位が変わる……。
「ちゃんと信頼は築けているから大丈夫だよ」
『分かってる。今日だって、食事に行くって嬉しそうだったもの。服とかお化粧とか心配したり』
「ほんとに? そうかー……」
翡翠の前ではそうなのか。口許が緩んでしまう。
軽い笑い声が聞こえたと思ったら、次に聞こえた声はトーンを落としていた。
『今日、桜とランチ行ったの知ってるでしょ? 休暇取って。こういうの初めてなの、桜とは』
「そうなんだ?」
『どうしてだか分かる?』
休暇を取らない理由?
「忙しい職場にいるから?」
『違う。桜は今まで自分の都合では休暇が取れなかったの。お母さんのことがあったから』
「亡くなった関係で――」
『違うよ。もっと前、就職してからずっとだったはず。桜のお母さん、何でも桜に頼ってて、その用事で休みを取らなくちゃならないから、休暇を自由に使えなかったの』
翡翠が話してくれたのは同じ職場にいたときに見たこと、そして桜さんが漏らした数少ない言葉からの推測。桜さんは翡翠にも、お母さんについて多くは語らなかったそうだ。それは場の雰囲気を重くしないための桜さんの配慮だと翡翠は感じていたという。
『桜が休暇を取るのはほとんどが家の用事。ガスや電気の点検日、家の設備の修理や買い替え、そして、お母さんからの不意の呼び出し』
「呼び出し?」
『そう。何か不都合が起きたから帰ってきてくれって電話がかかってくるの。最初はスマホに。仕事中で出られないと職場の電話に』
「職場の電話か……」
俺も一度だけ受けたことがある。会議中だった上司の旦那さんが交通事故に遭って、すぐに連絡を取りたい――って。あれは本当に緊急の場合という気がする。
『そうよ。けっこう頻繁に。まるで桜を見張ってるみたいだと、あたしは思ってた。具合が悪いのは知っていたけど、本当は桜がちゃんと職場にいるか確認するために電話をかけてくるんじゃないかって、意地悪く考えちゃった。もちろん、そんなことは桜には言わなかったけどね』
家の点検や修理に立ち会うことができないだけじゃなく、仕事中の娘を呼び出すほど体調が悪かった? それは……仕方ないのかも知れない。実際に亡くなったわけだし。
それに、体調のせいで不安が大きかったということも考えられる。だとしても、桜さんにとってはとても窮屈な生活だったはずだ。
『そういうことがあるから、桜は休暇取って出かけることをしなかったの。二年前に異動の希望を出すときも、スマホに電話がきたときに出られる職場がいいからって内部の仕事を希望したの』
そんな生活だったのか、俺が出会う前の桜さんは……。
「桜さんが、翡翠と一柳さんが遊びに行くときは、断るのが分かっていても必ず誘ってくれたって言ってたよ」
『そうだよ、必ず誘ったの。もちろん本気で来てほしくて』
翡翠の声に力がこもる。
『あたしたち、桜に自由をあげたかったの。あたしたち同年代と同じように、いろんなことを楽しんでほしかったの。桜の自由はお昼休みだけだったんだよ。あたしね、乱暴かも知れないけど、桜をお母さんから引き離したかった。だって……』
言い澱んだものの、決心したらしい。
『納得いかなかったんだもん、桜を縛ってるお母さんが』
翡翠の憤りが伝わってくる。桜さんを思う気持ちも。
『ひどい、意地悪だって思ってた。どうして娘の自由を奪って平気なの? って。桜だから我慢できてるんだよって』
桜さんだから我慢できている――。きっと、そのとおりだ。
『あたしたちが誘うと桜はいつも申し訳なさそうに『ごめんね』って言うの。『せっかく誘ってくれたのに』って。でもね、桜は悪くないでしょ? なのに『ごめんね』って言うの。謝る必要ないのに。そうじゃなくて、立ち向かってほしかった。お母さんに』
立ち向かってほしかった……。
長患いのお母さんに立ち向かうのは、きっと難しいことだったのだろう。もしかしたら、桜さんはそんな生活に慣れてしまっていたのかも知れない。我慢して、諦める生活に。それは悲しいことだ。でも……、もう彼女のお母さんはいない。
「翡翠の気持ちは分かったよ。俺は……桜さんと一緒に幸せになりたいと思ってる。だから見守っててくれよ」
そう。俺の気持ちは固まっている。
「桜さんにはこっちの都合や気持ちを押し付けたくないんだ。せっかく自由を手に入れたのに、急がせたり強制したりはしたくない」
『クロ……』
桜さんがようやく手に入れた自由。時間だけじゃなく、心の自由もだ。その第一歩で、彼女は黒川流への入門を決めた。――俺の後ろ姿に引っ張られたみたいに。
記憶が次々に湧き上がる。
稽古にひたすら真面目に取り組む姿。短い居合刀を勧めようとした俺に、使っていた居合刀を握りしめて、このまま頑張りたいと言った表情。初めての武道具店に目を輝かせ、驚いたり笑ったりしていたこと。その帰り、購入した荷物を見る彼女の顔に浮かんでいた満足感と――そう、愛おしさ。
今ならよく分かる。桜さんにとって黒川流への入門がどれほど大きな意味があったのか。
桜さんはずっと家族が優先で、“自分のために何かを選ぶ” ということが許されていなかった。だから、誰のためでもなく、自分がやりたいと思うことに、やりたいように挑戦できることが心の底から嬉しかったのだ。彼女にとって、黒川流は自由の象徴のようなものなのだ。
『桜のこと、大切に思ってくれてるんだね……』
翡翠のしみじみとした声が聞こえた。
『やっぱりあたしの見立てに間違いなかった。あたしをずっと見守ってくれたクロだから、桜のことも大事にしてくれるに違いないと思ったの。クロとなら最高の組み合わせだよ』
「ありがとう。桜さんもそう思ってくれるといいけれど」
『大丈夫! とにかく、クロのこと応援してるからね。困ったときは相談して』
「うん」
電話を切ったあと、翡翠から聞いた桜さんのお母さんの話を思い出してやるせない気持ちになった。桜さんの生活の窮屈さは想像以上だった。そんな状態がずっと続いていたなんて。
――これからは俺が支える。
ひとりで頑張ってきた桜さん。これからは俺が一緒に歩くから。
これから出会う困難は、手をつないでくぐり抜けて行こう。