翡翠の思惑はともかく、結婚の話題をきっかけに、桜さんにも俺との未来を考えてほしいと思う気持ちはもちろんある。あるいは俺を想ってくれているという、ちょっとした言葉や表情でもいい。誘いに応じてくれただけでも嬉しいけれど、やっぱり恋人っぽい何かが欲しい。

そんな俺の心中に気付かない桜さんは、店員が持ってきた卵焼きににっこり笑いかけている。

「翡翠たち、結婚式はするのかな?」

とにかく結婚話を継続だ。

「お式と両家のお食事会にするそうです」

なるほど。大々的な披露宴はしないということか。

「翡翠は洋装か和装か決められなくて困っていました。写真の前撮りはなしで、当日の一着だけにするそうなので。でも、そういう悩みならいいですよね、楽しくて」
「そうだね。翡翠ならドレスでも白無垢でも着こなせそうだなあ……」
「ええ、ほんとに!」

目を輝かせる桜さん。

「何を着ても、きっと綺麗ですよね。衣装選びについて行きたいくらいです」

やっぱり結婚式の衣装は女性が主人公ということか。男も衣装はあるとはいえ、ただの添え物、新婦に合わせますのでご自由に、だな。

そっと納得している俺の前で、桜さんは卵焼きを取り分けながら「ふわふわです」と満足気だ。

「桜さんも、どっちも似合うと思うよ」

さあ、どう答える? という気持ちで放った言葉に桜さんはぴたりと動きを止め、こちらをじっと見た。不安がよぎった次の瞬間。

「うふふふ、お上手ですね。ありがとうございますー」

――え?

予想外の明るい反応で、思わず身構えてしまった。でも、彼女は何事もなかったように笑顔で言葉を続ける。

「花嫁さんは、たぶん、誰でも美しく仕上げてもらえるんだと思います。そこが式場の腕の見せ所ですよね! もちろん、翡翠みたいに素材から違うとまた別格でしょうけど、わたしでもそれなりに大丈夫だと思います」
「いや、それなりじゃなくて、ちゃんときれいに、いや、誰でもってわけじゃなくて桜さんだからこその……」
「うわあ、そうですか? ありがとうございます。ふふ」

そうじゃない。俺が期待したのはこういう展開じゃない。これじゃあ、まるで俺がお世辞を言ったみたいじゃないか。そうじゃなくて!

……いや、ここは一旦引こう。様子を見て仕切り直しだ。

「俺、二杯目を注文するけど、桜さんは何か頼む?」

差し出したメニューを受け取る笑顔が、俺の誉め言葉よりも生き生きしているような……。

「そうそう、新婚旅行は小笠原だそうです」

注文が済むと、桜さんが思い出した。

「すぐではなくて、年末年始の休みとつなげて行くんですって。向こうで年越しをする予定だって言ってました」
「暖かい大晦日ってことか」
「きっとそうです。初日の出を見るのも寒くないってことですよね?」
「新婚旅行で太平洋の島で初日の出を見るなんて、いい思い出になるだろうなあ」

桜さんなら、新婚旅行はどこに行きたい? と訊いてみたいけれど、さっきの成り行きを思うと躊躇してしまう。桜さんと結婚を結び付けた話題を連続で繰り出したら、プレッシャーをかけているように思われる可能性もあるし。

「ただ、翡翠は船のことをちょっと心配しているんです。片道二十四時間かかるらしいですよ」
「二十四時間? けっこう乗るなあ。心配って、船酔いのことだよね?」
「ええ。翡翠も一柳さんも、そんなに長く船に乗ったことがないから」

体調だけじゃなく、機嫌が悪くなることもあるかも知れない。我慢してストレスが溜まるとか。

「絶対に酔うわけではないけど……。でも、わたし、ちょっと思ったんです。そういうところで夫婦の絆が試されるのかもって」
「なるほど。この試練をふたりで乗り越えられたら、そのあとはどんと来い、みたいな」
「そうそう」

そう考えてみると、小笠原を新婚旅行先に選んだことそのものに覚悟を感じる。……いや! 俺だって、桜さんとならどんな秘境でも円満に行って帰って来てみせる!

「いいですねえ、小笠原。海だけじゃなくて、島全体に見るものがいろいろあるみたいです」
「確か世界遺産に認定されていたよね?」
「そうです。世界自然遺産」

――お。

この流れなら大丈夫かもしれない。桜さんの希望。これからのこと。結婚と別な話としてなら。ちょうど飲み物が届いたのも、間としては良さそうだ。

「桜さんも行ってみたいところ、いろいろあったよね? 確か、ドイツの博物館の島とか」
「あ、覚えててくださったんですね!」

おお! 喜んでくれた! これは良い兆候。

「うん。バビロニアの遺跡っていうのが気になってて。いつか行って」
「あら? 黒川さん?」
「――え?」

誰だよ! デート中だぞ! 見て分かれよ!

「ああ……、花山さん」
「こんにちは。先日はお疲れさまでした」

通路で立ち止まっているのは同期入社で葉空支社の営業の花山さんと女性二人。座席の仕切り壁のせいで近付いて来ることにまったく気づかなかった。向こうも俺の相手が女性だとは気づかなかったのかも知れない。花山さんが連れの二人に説明している様子からすると職場の後輩か。

「葉空支社の日野です! お話は花山さんから伺っています! よろしくお願いします」
「同じく葉空支社営業の深川です。お会いできて光栄です」
「ああ、こちらこそ。あの、別にそんなに偉い者ではないので、畏まらなくても」
「きゃ、ありがとうございます」

どうでもいいからさっさと去ってほしい。人見知りな桜さんが居心地が悪いだろうから。って言うか、営業職なら敏感に察してくれ。

「あ、ごめんなさい。彼女さんですか?」

おい! と思ったのは、花山さんが話しかけた相手が桜さんだったから。慌てた俺が止める間もなく、桜さんが「あ、いいえ」と笑みを返した。初めの頃に見せていた窓口用の微笑みで。

「黒川さんとは習い事でちょっとご縁があって……」

ちらりと俺に視線を向けたのは困惑か。それとも謝罪? けれど、そのまま彼女はおっとりと説明を続けた。

「今日は共通の友人の結婚が決まったので、それで」
「ああ、お祝いの相談ですか」

口ごもった桜さんに被せるように花山さんが言った。桜さんは微かなためらいのあと、やわらかく微笑んで「ええ、そうなんです」とうなずいた。

その姿に心が沈んだ。いや、傷付いた。桜さんが俺のことを「黒川さん」と言ったからか、一緒にいる理由を誤魔化したからか。俺たちが恋人同士になりきっていないと突き付けられた気がする。

「わたし、先月まで黒川さんと一緒にお仕事していたんです」

自己紹介のつもりか花山さんが続ける。その明るい声が癇に障る。こんなことなら仕切り席じゃなくて完全個室の店にすればよかった。

「結構大きな案件で、途中で先方の要望が変わったり、いろいろあったんです。そういうとき、いつも黒川さんは冷静に対処してくださって、わたしがイライラしていても『大丈夫だから』って励ましてくださって。お陰でとても良い仕事ができました」

どうして仕事の話なんか桜さんにするんだよ! 彼女には関係がないだろう?

「花山さん、ちょっと今は――」
「良かったですね。優しいんですね、黒川さんは」

――桜さん! 相槌なんか打たなくていいから!

俺が視線で訴えても、礼儀正しい桜さんには相手を無視することなどできないに違いない。窓口用の微笑みを花山さんたちに向けたままだ。対して花山さんはどこか自慢げで。

「ええ。だから黒川さんは女性に人気があるんですよ」
「そうなんです! 本社の友達も黒川さんのこと凛々しくて格好いいって言ってます。うちの支社でも、黒川さんがいらっしゃると、さり気なく様子を見に行く人がいたり」
「ああ、分かる気がします」

同意しなくていいよ! と心の中で叫んで桜さんを見た瞬間――はっとした。突然感じたのだ。彼女は今、傷付いている。笑顔で相槌を打つその裏で血を流している。自分を傷付けるものに対処することができずに。

このままではだめだ。

「花山さん。悪いけど、遠慮してもらえないかな。僕には――僕たちには大切な時間なので」

全員の視線が俺に集まった。桜さんをそっと確認すると、ぎょっとした顔で固まっている。彼女の中にあるのは驚きだけではなく、恐れ? 焦り? でも、止めるわけにはいかない。彼女のために。

「桜さんは控えめなひとだから、自分の立場を主張しなかったけど」

そこで一度、桜さんに視線を送ってから、花山さんに向き直る。

「僕は桜さんとの将来を希望しているんだ。だから、ふたりで会う時間は、彼女にもそのことを考えてもらうための時間でもあって。毎日会えるわけじゃないから、この時間を有効に使いたいんだよね」
「あ、ああ、そう……なんだ」

戸惑いと気まずさの表情を浮かべて花山さんがうなずいた。

「ご、ごめんなさい、お邪魔しちゃって。思いがけず会えたからつい……。じゃあ、またいつか――お仕事でね。失礼します」

慌ただしく言い訳をする花山さんの後ろで連れの二人も戸惑いがちに頭を下げた。去って行く三人の背中を見送ると、疲れがどっと押し寄せた。

「あの、申し訳ありません」

背もたれに寄りかかる俺に桜さんが頭を下げている。

「あの、大丈夫ですか? あんな言い方……、お仕事に差し支えありませんか?」

――これが桜さんだよな……。

こういうひとだから大切にしてあげないと。

「ああ、平気。花山さんと組む仕事は終わってるから。勤務場所も離れてるし、仕事とプライベートは別だから。それより桜さん」

あらためて名前を呼ぶと、彼女は「はい」と姿勢を正した。

「もっと早く止められなくてごめん。まさか桜さんに直接話しかけるとは思わなくて。しかもあんな自慢みたいな言い方……」
「そんな! 謝らないでください」

桜さんが慌てる。

「わたしみたいなぼんやりした相手には、自慢したくなって当然ですよ。全然気にしてません」

当然だなんて……。

そんなふうに諦めている彼女の心を思うと淋しくなる。

「それに、風音さんはちゃんと説明してくれましたから。そちらの方がびっくりしました。ありがとうございます」
「当たり前だよ」

そうだ。そうだった! こっちの方が重要だ。

「さっき言ったことは本気だからね? 花山さんたちを撃退するための作り話じゃないよ? 俺とのことを真面目に考えて欲しいのは本心だからね?」

途端に後ろめたそうな顔をした。ということは、ある程度は自覚しているということだろう。さっきのズレた反応も、もしかしたらわざとかも知れない。

――まったくもう!

ため息が出てしまう。

「どうしても無理だって言うなら仕方ないけど」
「ち、違います。無理なのではなくて――」

慌てて否定した言葉を切り、彼女は肩を落とした。

「いいえ。やっぱり無理なのでしょうか……」

途方に暮れたその表情が、彼女が本気で困っていることを証明している……。