月曜日の夜、桜さんに電話をかけた。「食事でもどうかと思って」と誘うと『ありがとうございます。いつですか?』と明るい声が返ってきて、心にあった心配も焦りもストレスも一気に吹き飛んでしまった。

水曜日の夕方、待ち合わせに現れた彼女は、なんと、髪を切っていた。日曜日には背中の中ほどまであった髪がすっかり短くなって、肩のあたりでさらさらと揺れている。

「ずいぶん一気に切ったね。びっくりしたよ。でも、よく似合ってる」

今までの生真面目な雰囲気に軽い茶目っ気が加わった感じで、好奇心旺盛な彼女らしさも垣間見える。

「急にうっとうしくなって、きのうの帰りに美容院に行ったんです」

無造作な態度は照れ隠しだろうか。そんなところも微笑ましくて可愛い。

「それよりも」

大きな瞳がまっすぐにむけられる。その真剣な表情に心の奥を見透かされたような気がして、思わず身構えてしまう。

「実は、さっきまで翡翠と一緒だったんです。今日は休暇を取って翡翠とランチに行ったんです。ホテルのランチビュッフェ、すごく美味しかったです。たくさん食べてしまいました」
「ん? う、うん。よかったね」
「はい」

楽しかった報告にしては表情が険しい。何か心に重大な決意があるみたいな。

「え、と……、じゃあ、もしかしてお腹がいっぱいなのかな?」

俺との予定をキャンセルしたいのか? それが言いづらいとか。

「いいえ、それは大丈夫です。だいぶ時間が経ちましたから、またいっぱい食べられます」

いっぱい食べられるのか。お昼にたらふく食べても。

「そうじゃなくて、わたし、風音さんに大事なお話をしなくてはならなくて」
「……大事な話?」
「はい。翡翠から任されまして」

ほっとした。俺を断る話ではないようだ。

「今日、風音さんと会う予定だから一緒に来れば? って言ったんですけど、遠慮されてしまいました」

誘ったのか……。俺との食事に……。

でも、さすがだ、翡翠。俺の気持ちをちゃんと分かってくれている。ありがとう!

「それで、できれば落ち着いて話ができるお店がよいのですが。誘っていただいたのに、お店に注文を付けたりして申し訳ありません」
「あ、ああ」

なるほど。険しい表情の理由はそれか。俺に頼みごとをしなくちゃならないという。

「じゃあ、仕切りがある店にしようか」
「ありがとうございます」

なんだか笑いがこみ上げてきた。

これは翡翠のいたずらのような気がする。「重要な話だから」と、桜さんを軽く脅したのではないだろうか。俺たちが落ち着いた店で恋人らしく過ごせるように。

でも……、翡翠の大事な話って本当にあるんだよな? 桜さんに代理を頼める大事な話って……なんだ?



「翡翠が結婚することになりました」
「ん、ごほっ」

ビールの一口目の最中に、桜さんが待ちかねたように切り出した。彼女はグラスの梅酒にほんの少し口を付けただけで膝に手を置き、背筋を伸ばして前置きもなく告げたのだった。

「あ、お手拭き――」
「いや、大丈夫」

彼女はきっと、お酒の一口目まで話を切り出すのを控えていたのだろう。でも、あまりにもストレートに本題に入られたので、俺は心の準備ができていなかった。話の内容にも驚いたけれど、桜さんの話しぶりもなかなかのものだ。

「それは目出度いな。それを俺に伝えてくれって頼まれたの?」
「はい。翡翠が何度も同じことを説明しなくていいように、わたしから話しておいてほしいって。風音さんにはわたしが知っていること全部話してかまわないから、と言われています」

そうか……。

翡翠のくすくす笑いが目に見えるようだ。自分の結婚話をきっかけに、俺と桜さんの関係が進むことを期待しているに違いない。俺だってそうなればいいと思うけれど、そう上手くいくだろうか。

「じゃあ、食べながら話そう。相手はどこの人?」
「一柳さんです」

思わず箸が止まった。

桜さんは俺の様子には気付いていない。大事な用件を切り出すことができて肩の荷が下りたらしく、さっきまでの緊張感もなくお通しをつまんでいる。

「……一柳さん?」
「はい。プロポーズは去年の秋にされていたそうなんですけど、翡翠が決心がつかなくて……。あ、嫌いだったんじゃないですよ。あの……翡翠の事情で」

翡翠が簡単に決められなかったのは理解できる。でも、去年の秋にプロポーズ? つまり、あの日は。

「食事会のとき、一柳さん……翡翠よりも桜さんとたくさん話していたような」
「ああ。一柳さんはわたしの兄なので、わたしの世話を焼くんです」
「え、兄? お兄さん?」

混乱する俺に、彼女はふふ、と笑って「血はつながっていませんが」と言った。

「新人の頃、わたし、一般常識をあまりにも知らなくて、一柳さんがいろいろ教えてくれたんです。そのときに『妹が一人増えた』って言われて。一柳さん、四人きょうだいの一番上なんですよ。で、わたしも『そうか、お兄さんなのね』と思ってずっと身内の気持ちでいます」

ぽっと頭に浮かんだのはいつかの稽古の記憶。不安を抱く彼女に大丈夫だと請け合った俺の顔をしばらくじっと見てから、「信じます」と言った。あのとき、とても大きなものを委ねられたような気がした。

同じように一柳さんに向かって納得している桜さんが目に浮かんでくる。つまり、桜さんにとって信じるというのはそういうことなのだ。

一切の疑問を遮断するくらいの全面的な信頼。その一途な信頼に、相手も覚悟したくなるほどの。

――不思議な人だ。

人見知りな桜さんは、初めはフレンドリーに見えて、実は見えない壁をつくって身を守っている。でも、信じると決めた相手はとことん信じる。もしかしたら、それは桜さんの真心なのかも知れない。

そう言えばあの日、一柳さんが俺に名刺を渡そうとしていたと桜さんが言っていたっけ。もしかしたら、一柳さんは交換で俺の名刺が欲しかったのかも知れない。兄の気持ちで、俺の素性を確かめたかったのかも。

「翡翠は一柳さんに一目惚れだったって、今日話してくれました。わたしは最初から何となく感じていたんですけど」

桜さんの口調が和らぐ。

「翡翠が入ったとき、一柳さんはもう異動してうちの区役所にはいなかったんです。出張のついでに顔を出してくれたときに、翡翠は初めて会ったんです」

くすっと笑ったのはその瞬間を思い出したからだろう。

「わたしが『同期の一柳さんだよ』って紹介したら、『じゃあ、イッチーだね』っていきなりニックネーム付けちゃって。わたしはびっくりしたんですけど、一柳さんはその程度で動揺する人じゃないので、ただ笑っていました。翡翠がそんなふうにいきなり突進していくようなところは、一柳さん以外、見たことがありません。そのあとも会うたびにからかって……。でも」

そっと視線を落とす。

「一柳さんをどう思っているかは一度も話題にしませんでした」
「うん」

それは分かる。恋愛話そのものが翡翠を傷付けかねないのだから。

「ここ二、三年、ふたりで出かけていることは知っていました。いつもわたしにも声を掛けてくれていたので」
「本当は三人で遊びたかったんだね」
「ええ。わたしが断るって分かっていても必ず……。優しいんです、ふたりとも」
「うん」

優しさだけじゃない。ふたりとも桜さんのことが好きなのだ。大好きで、大切な友達なのだ。

「一柳さんって、ちょっと個性的じゃないですか」

気を取り直した様子で桜さんが言った。

「五年前はもう少しスマートでしたけど、あんまり格好良いわけでもなくて、職場では真面目な変わり者という評価だったんです。苦手だって言う人もいて。なのに、翡翠は初対面で好きになったなんて、不思議ですよね」
「そうだね。でも、桜さんは信用していたんだよね、一柳さんのこと。それが人格保証になったんじゃないのかな」
「友達の友達は――みたいな? じゃあ、感謝してもらわないと。ふふふ」

そういえば。

あの食事会の日、桜さんと一柳さんの関係を疑っていた俺に、翡翠が心配いらないと言った。そして「根拠があるの」と。あれは既に翡翠がプロポーズされていたから……。

「一柳さんはずいぶん長い間、翡翠の返事を待ってくれたんだなあ」
「ええ。一柳さんだから、だと思います。翡翠を幸せにできるのは自分しかいないって翡翠に言ったそうです。翡翠は一柳さんには過去のことは話していなかったので、まずはそこから決心しなくちゃならなくて」

簡単な決断ではなかっただろう。愛する人を失う可能性も頭に浮かんだだろうし。

「悪いことばっかり考えてしまったって、翡翠は言っていました。でも打ち明けて……。翡翠が戸籍を変更したときに名前を変えなかった理由は聞きました?」
「名前? いや」

あのとき、それはどうしてだろうと思ったっけ……。

「翡翠の名前はご両親が<とても貴重なもの>という意味で付けてくださったんですって。お姉さんは真珠(しんじゅ)さん。翡翠はそんなご両親の気持ちを大切にしているんです。そして、自分もそんな家族を持つことが夢だって。だけど――」

翡翠は妊娠できない……のだろう。

「翡翠が打ち明けたとき、一柳さんはまったく動揺しなかったんですって。子どもができなくてもふたりで家族になることはできるし、特別養子縁組っていう方法もあるよって」
「特別養子……?」
「戸籍上も実子として子どもを迎えることです。一柳さんはもともと児童福祉に興味があるので。翡翠に、自分たちが親との縁に恵まれない子と一緒に幸せになれるとしたら、それこそ幸せなことだって言ったそうです。もちろん、簡単ではないかも知れませんが」

なるほど……。そこまで覚悟してくれたのか。

一度会っただけではあまり分からなかったけれど、一柳さんの懐の広さは並大抵のものではない。桜さんが信頼を寄せているのも当然だ。

「そこまで理解してくれて、その上、翡翠も一柳さんが好きなら、もう結婚するしかないよなあ」
「ですよね? わたしから見ると、あれ以上にお似合いのカップルはいません。でも、職場の人は『なんで!?』って言うんだろうなあ。才色兼備の翡翠と変わり者の組み合わせですから」
「そうなんだ? 俺は桜さんの話を聞いて、きっと幸せになるだろうって信じられるよ。じゃあ、ふたりの幸せを祈って乾杯しよう」
「あ、そうですね!」

翡翠のカミングアウトの相手は、家族よりも俺が先だった。自分の在り方について家族に対して罪悪感を抱いていたせいで、言い出すことができなかったのだ。そんな翡翠のことはずっと――疎遠だった期間も――彼女は幸せだろうか、幸せになってほしいと、いつも心にかかっていた。

今、翡翠には桜さんという信頼できる友達がいて、これからは全てを受け止めてくれる家族ができる。

「翡翠、おめでとう。乾杯」
「乾杯」

幸せになれ、翡翠。