「お兄ちゃん、最近、気合入ってるよね」

帰りの車の中で雪香が言い出した。雪香がこういう切り出し方をするときは何か含みがあると、頭の片隅で警報が鳴る。

「今日は哲ちゃんに相手してもらえたし、そろそろ秋の演武のことも考える必要があるし」
「今日だけの話じゃないよ。最近って言ったじゃん?」

しつこい。何が言いたいんだ?

「風音は小さい頃から真面目だったよ? 無謀なことはしないし、予定を決めてこつこつやるタイプだから、親としては安心だったなあ」

のんきな性格の母には、俺は育てやすい子どもだったらしい。この評価は今までにも何度か聞かされている。

雪香が「はいはい、あたしはみんなに心配かけてますよ」といじけてみせると、祖父と哲ちゃんが雪香は若手の植木職人として将来有望だと持ち上げる。みんなで雪香を慰めて笑っておしまいという流れは我が家ではよくあるやり取りだ。

「お祖父ちゃんはさ、桜さんを前から知ってたんでしょ? ずっとあんな感じ?」

鼓動が一つ飛んだ。桜さんの名前に驚いたのだ。

雪香がこのタイミングで桜さんの名前を出したのは偶然か? もしかしたら俺と彼女の関係を怪しんでいるのか?

でも、続いている動悸の理由はそれだけじゃない。

祖父がどの程度知っているのかという不安だ。桜さんが家の中で背負ってきたものを。もしかしたら、彼女が知られたくないことも?

「まあ、年に二回、隣に行ってただけで、顔見知りっていう程度だけどなあ」

少しほっとする。たいした情報はないかも知れない。

「礼儀正しい子だったよ、小学生の頃から。会ったときは必ず立ち止まって挨拶してくれて」

そうか。植木の仕事は基本的に平日昼間。桜さんは学校に行っている時間だ。就職してからは帰り時間も遅くなるから、顔を合わせる機会はほとんどなかったはず。つまり、祖父の情報は十年以上前のことだ。

「よく妹連れて出かけてたなあ。家の手伝いもよくやってるって、松木さんが言ってたよ」

松木さんというのが隣のお得意様だろう。

「ふうん、そうなんだ? 今日、桜さんが部活に入ったことがないってちらっと言ってたから。やっぱり家の手伝いなんだね。小学校のときにお父さんが亡くなったそうだから、お母さん、仕事に出てたのかもね」
「ああ、そうかもなあ。桜さんの親御さんに会ったのは、あの家が建ってすぐの頃かな。それ以来、記憶にないなあ」
「じゃあ、やっぱりそうだ」

――違う、よな?

桜さんのお母さんは家にいたはずだ。桜さんが家に帰らなくちゃならなかったのは具合の悪いお母さんのためだったのだから。でも、存在が分からないほど静かに過ごしていた? 当時からそれほど具合が悪かったということか。

「桜さんのお母さん、この春に亡くなったって言ってたわねえ?」
「うん、そうだって。病気かなあ? お兄ちゃん、何か聞いたことある?」
「ないな。ただ――」
「なあに?」
「……いや、勘違い。別な人の話だった」

言わない方がいい。ずっと具合が悪かったことは。桜さんが家事を担ってきた理由を、雪香たちはお母さんが働いていたからだと思っているのだから。

でも、かれこれ二十年? 姿を見せなかった桜さんのお母さん……。

気配を消すようにひっそりと暮らしていたお母さん。母親に代わって家事や妹の世話を引き受けていた桜さん。妹さんはしっかり者だと桜さんが言っていたけれど、それはお母さんや桜さんの負担を軽くするために身に付けた強さだったのかも知れない。

父親を失って以来、具合の悪い母親とまだ小さかった二人の娘が寄り添って生きてきた。桜さんの十代、二十代は家族のための日々だった。それが突然終わり、桜さんは自分のために生きることになった。目の前に差し出された自由におずおずと触れながら。

俺はそんな桜さんを支え、共に幸せを探したい。彼女が安心して笑っている姿を見ることが俺の幸せだと、今、心から思う。

「風音」

家に着いて荷物を運び終わったところで祖父に呼び止められた。母と雪香はもう向こうの家に入ってしまっている。祖父は俺が近くに行くのを待っているようだ。

「何かあった?」
「桜さんを大事にしてあげなさい」

近付くと、前置きもなく言われた。

「――え? え? 俺? え、なんで?」

なんで急にそんなことを!? 俺、何か祖父ちゃんに言ったっけ?

奥で動いている哲ちゃんの気配が気になる。口を開いたら墓穴を掘りそうで、突っ立っていることしかできない。

「テレビで見たんだよ。風音と桜さんが一緒のところ」
「えええええぇ!? なんだそれ!?」

照れ笑いをする祖父。でも、俺はそれどころじゃない。テレビに映っていたなんて、あまりにも衝撃的出来事だ。誰もいなくなってから言ってくれた配慮が心底有難い。

「地域のニュースか何かで景色を映してる映像でさあ。先月、ふたりで港の方に行っただろ? 少し遠目だったけど、背格好ですぐ分かったよ。うちのテレビ、高画質だからかなあ。あははは」

高画質の上に大画面だ。誰かと一緒に見たのかは聞きたくない……。

「桜さんなあ、たぶん苦労してきたと思うから」
「え……?」

突然、本題らしきところに入った。心構えができていなかったから混乱する。

「それって……?」
「さっきは言わなかったけどなあ、桜さんの母親、ずっと家にいたよ。姿は見えなくても気配で分かるものだから。それになあ……」

知っていたのだ。それはそうだ。隣り合った庭で作業をするのだから。でも、祖父が気付いたのはそれだけじゃない? 

続きの言葉を待っていると、決心するようにごくりと喉を鳴らしてから祖父が口を開いた。

「二度か三度だけどな、すごい怒鳴り声で」

静かに言って、しばらく目を閉じた。

「……怒鳴り声?」
「ああ。母親がな、子どもたちのこと、ずうっと怒鳴りつけてた。叱っていたんだろうけど……、学校から帰って来たなと思ったら、それから長い時間……。聞き耳を立てていたわけじゃないが、いつまでも終わらないんで、作業しながら心配になったよ」

――そんなに……。

外に聞こえるほどの怒鳴り声。しかも長い時間? 桜さんのお母さんは病弱な人ではなかったのか? いや、十年前まではそんなに重くなかったのかも。でなければ、病気のせいでイライラしていたとか……。

桜さんだって子ども時代にはいたずらや失敗をしただろう。だから、親に叱られるのは普通と言える。けれど、祖父の様子がなんとなく不安を掻き立てる。

「お隣の人は何か……?」
「ときどきあるって言ってたよ。躾に厳しい家だって」

ときどき? 躾? それは一般的な範囲内なのか? 他人が聞いて不安になるような状態でも? ――よく分からない。

「躾に厳しいのは本当だったんだろうなあ。今時、あんなに礼儀正しい子どもはそんなにいないからな」
「うん……、そうかもね」

礼儀正しさは彼女の一番目に付く特徴だ。それ自体は悪いことではない。けれど――。

祖父がほぅっと息をついた。まるで大きな荷を下ろしたように。

「こんな話、桜さんには言わなくていいぞ。他人に知られてるなんてあんまり嬉しくないだろうから。ただ、お前が桜さんを大事にしてやればいいから」
「はい。それは大丈夫。心配いらないよ」

すでにそう決めている。

桜さんは確かに礼儀正しい。でも、それだけじゃなく、真面目で素直で好奇心旺盛でやさしくて根性があって……とにかく良いところがたくさんある。自由を制限された生活を送りながら、そういう良いところを自分の中に育ててきた強さを俺は素晴らしいと思っている。

「風音と桜さんならいい縁組だ。桜さんがうちに入門してくれてよかったなあ、ははは」
「まだ決まったわけじゃないよ。雪香と母さんには余計なこと言わないでくれよ?」
「言わなくてもあの二人は気付いてると思うけどな。特に雪香は最初から『怪しい』って言ってたから」
「最初は何もなかったよ」

車の中で警報を感じたのは間違いじゃなかったようだ。まったく妹っていうのは面倒くさい存在だ。

「お兄ちゃーん、ごはんー!」

雪香の声だ。

「今行く! じゃあ、祖父ちゃん、おやすみ。ありがとう」
「おう。また来週な」

家に向かいながらふと気付いた。俺も雪香も親に――祖父や哲ちゃんにも――叱られたことはある。でも、何時間も怒鳴り続けられたことなどなかった。

それはいったいどんな気持ちなのだろう……。