お盆シーズンに向けて蒸し暑い日々が続いている。暑さが苦手な俺には苦しい季節だ。

仕事で何度か外に出ているうちに、少し日に焼けたらしい。妹の雪香が稽古で顔を合わせるなり「うわ、黒」とつぶやいた。そういう本人は外の仕事が多いのにたいした日焼けもしておらず、日焼け防止の努力は並大抵ではないようだ。

あの夜から約二週間経つ。とりあえず、桜さんとは順調と言えるだろう。平日はここのところ仕事が立て込んでいてメッセージのやり取りが中心だが、稽古で会うと、彼女の笑顔も言葉も以前に比べて堅苦しさが消えたと感じる。

ただ……、それが友達認定の効果なのか、俺との関係を進めようと思ってくれているのかは判別できずにいる。

もちろん、控えめな、そして慎重でもある桜さんの性格は分かっている。でも、何か……ほんの一言でも、俺を想っていると思える言葉が聞けたら――。「連絡を待っていた」とか「会いたい」とか「声が聞きたい」とか。でなければ、思わせぶりな目配せ一つでもいいのだけれど。彼女の気持ちがまだそこまでは至っていないのか……。

少なくとも週一回は稽古で会えるわけだが、稽古中は個人的な話はしづらく、終了後はさっさと引き上げだ。メッセージも度々ではうるさがられるかも知れないなどと考えてしまい、とてももどかしい気分。

今は母に指導を受けている桜さんを目の端で捉えて密かにため息をつく。顔を上げると、鏡の中から眉間にしわを寄せた自分が見返してきた。

やっぱり時間をやりくりして、ふたりで会う時間を作りたい。とにかく近いうちに一度、食事にでも行かないと。顔を合わせているのに接点が少ないというのは、逆に禁断症状が出てきそうだ。今週の仕事の見通しが立ったら連絡してみよう。



「視線が下がってしまうのが、なかなか直らなくて」

水分補給に来た桜さんが、先に休憩していた俺にしょげた様子で言った。彼女と話すため、俺はなるべく彼女の荷物の近くで休憩するようにしているのだが、そのことには気付いているのだろうか。

「何度も言われているのにどうしてもできないんです。本当に申し訳なくて」

できなくて申し訳ない、という桜さんらしい反省の言葉に笑ってしまった。

「何でも簡単にできてたら、誰もがあっという間に達人になれるよ」
「それはそうですね」

桜さんの表情が和らいだ。

でも、確かに桜さんは視線が下がりがちだ。一度、俺が前に立って斬り付けを試してから少しは改善されてはいるが今一つだし、動作の前後や素振りのときに下を向いてしまうことが目立つ。

下を向くことは気が途切れた状態を意味する。敵がいれば目を離さないのは当然だし、納刀後も周囲の様子に気を配る状態を維持するから、視線を足元に向けることはない。抜刀納刀で手元を見ないのはもちろん、石や段差には摺り足で気付くことができる。つまり、そもそも下を向く必要はないのだ。

「刀を目で追っちゃってるのもあるね」
「そうなんです……。正しい位置まで振れているか気になって、確認してしまうんです。あと、仮想の敵というのがどうしても難しいです。でも、それだけじゃなくて……」

そこで一つため息。

「わたし、普段でも下を向いていることが多いんですよね。歩いているときも、電車の中も。翡翠にも後ろ姿がしょんぼりしてるって何度も言われました。知り合いに声をかけられてびっくりすることもよくあるし……」

うつむいて歩く彼女が目に浮かぶ。硬い表情で周囲を拒絶するように? いや、彼女の場合は他人の目を引きたくないというところだろうか。

「その癖がここでも出てしまっていると思うので、少し頑張って、普段から顔を上げるようにしてみようと思います」
「ああ、それはいいね。やってみる価値があると思う」

上達するために普段の行動を変えようと考えるとは。その向上心が同じ門人として嬉しい。

「そうですか? 良かった。時間はかかりそうですけど」

少し恥ずかしそうな、でも喜びが溢れ出るような桜さんの笑顔につられて俺も微笑んでいる。

「でも、桜さん、摺り足はだいぶできるようになったよね?」
「あ、できてますか? 上達しているなら嬉しいです。かなり練習しているので……。家だけじゃなくて、職場の廊下に誰もいないときとかにこっそり」
「ああ、職場の廊下はある程度の長さがありそうでいいね」
「そうなんです。ただ、職場では後ろに下がる練習はできないので、そっちはまだバタバタしちゃいます」
「あはは、後ろに下がる練習は人に見られたら気まずいよね」

もともと熱心さは見えていたけれど、もしかしたら桜さんは剣術の世界にかなりはまっているのかも知れない。仕事の合間にまで練習したり、習慣を直そうと考えたり、ここで上達するためにいろいろな方法を考えている。

胸の奥に、ふわりと熱を感じた。

この熱は目の前の、にこにこと語る桜さんから生まれた熱だ。穏やかで控えめな彼女の中にある――そう、静かな情熱、それに共鳴したのだ。俺も負けていられないと。

上達すること。今よりも上を目指すこと。それはここで稽古をする全員が共に持つ目標だ。けれど、今までほかの誰かに触発されたことなどなかった。それぞれに努力しているのは確かだし、ずっと見てきたのに。

そう言えば、初めの頃からそうだった気がする。稽古の度に桜さんの上達を思い描き、自分の励みにもなっていた。接点の少なかった当時から、彼女との間に響き合う何かを感じていたのかも知れない。この小柄でおとなしい桜さんに――。

「――あれ?」

思わず出た声に、桜さんが刀を外しかけた手を止めてこちらを見た。

「それ、違ってない? 下緒(さげお)
「え? 下緒? 結び方……ってことですか?」
「うん。引っ張る方が違ってる」
「なんと!?」

目がまん丸だ。驚き方が素直過ぎて可笑しい。

下緒は鞘についている長い紐のことで、帯刀している間は袴の紐に結んでおく。結び目は下緒の端側を引くと外れ、逆に刀とつながっている側を引くと締まる。刀を奪われたり鞘を失くしたりすることを防ぎ、一方で、自分での着脱は簡単な結び方だ。桜さんは今、刀につながっている側を引っ張って外した。

「輪を作ったあと、こっち側を通すんだよ。外すときは端側を引く。ほらね?」
「ああああ! もしかして三か月ずっと間違ったままで? いや、最初はできていたはずなのに……」

がっくりと肩を落としている。

「いつまでたってもできないことばっかりです……」

落ち込んだ表情には悔しさも混じっているようだ。まあ、これについてはもう二度と間違えることはないだろう。

「大丈夫。摺り足は上達してるし、抜刀も引っかからなくなってきたし、ちゃんと進んでるよ。それに、できないことが多い方が上達する楽しみがあるから」
「ああ……、言われてみれば確かにそうかも知れません……。ええ、チャレンジできる方が楽しいです」
「そうそう」

もちろん、頑張ろうと思うかどうかは人それぞれだろう。もしかしたら、頑張ろうと思えるものに出会えたことそのものがとても幸運なのかも知れない。

「さて。哲ちゃんの手が空いたから行ってくるよ」
「木刀ですか?」
「今日は小具足。風返し七本」

風返し七本は相手がいないとできない技だ。そして、どんな技でも上級者に見てもらうのは大きな収穫がある。

教わって、体にしみ込ませて――の繰り返し。やらなければ上達しない。それは経験年数が何年でも同じこと。

進みたいならやるしかないのだ。