「抜き付けも抜き打ちも、わたしのはへろへろで、絶対に何も斬れないし誰も怖がらないと思うんですよね。やっぱり力が足りないせいでしょうか?」
タンドリーチキンを一口大に切りながら桜さんが言った。
抜き付け、抜き打ちというのは、抜刀の方法だ。抜き付けは抜いた刀の切っ先を相手に突き付けて止めること、抜き打ちは抜いた勢いのまま斬り付けること。
尋ねた桜さんはぱくりとチキンを食べて「美味しい」と微笑む。次の瞬間、「あ、でもやっぱり辛い」と目を見開いた。
夕食に選んだのはビュッフェのインド料理店。五種類ほどのカレーとさまざまな料理があり、真鍮の取り皿が灯りに輝いて異国的な雰囲気を盛り上げる。
「勢いと止め、かなあ。でも、それって力じゃないんだよね。桜さんの場合は握りの問題かな」
サラダのトマトを急いで口に入れた桜さんが少し涙目で見返してくる。
「例えば抜き付けなら、刀が抜けるタイミングで柄をしっかり握り込むことで切っ先に勢いが生まれるんだ。抜き始めは緩く手をかける程度でゆっくり、で、抜ける瞬間に握り込んで、止めるところでしっかり止める」
説明しながら思わず抜刀の動きをなぞってしまう。桜さんもふむふむと頷き、確認するように右手を動かしている。周りから見たら、何をやっているのかと訝しく思うだろう。
「でも、まず大事なのは刃筋だよ。斬る方向と刃の向きを合わせること」
「ああ……、いつも注意されています。まだ全然不安定で。特に袈裟斬りが難しいです」
「袈裟斬りはそうだよね……。まあ、まずは一本一本、正確に振ることを考えたらいいよ。その過程でいろんなことができるようになるから」
「分かりました」
楽しいけれど、これは想像していた食事シーンと少々違う。稽古のときと同じような話をしているなんて……。まあ、共通の話題がまだ少ないし、お互いに興味があることだからいいか。
「服にカレーが付かないように気をつけてね」
「あ、はい」
それにしても、ものを食べているときの桜さんはいつも幸せそうだ。店内の装飾やメニューにも目を輝かせ、どんな料理にも興味津々でわくわくした顔をしている。このレストランを選んだのはテーマがある店の方が桜さんが喜びそうだからで、その予想は当たっていた。
「風音さんは中学生のときに剣術を始めたんでしたっけ?」
二杯目の飲み物が来た頃、彼女が尋ねた。
「そうだよ。もっと小さいときからやってみたかったんだけど、中学まで待てって言われてて。だから小学生のときはサッカークラブに入ってた」
「サッカーですか。剣道ではなく?」
「そう。友達と一緒に。で、中学で剣道部に入って、二年目に入門の許しが出た」
「入門が許可制……? わたしは……?」
「ああ、大人は大丈夫」
ふざけたりいたずらしたりすると危険なので、ある程度の分別がついてからということらしい。
「そうだったんですか。雪香さんも剣道部だったって伺いました」
そのとおり。うちの家族は全員、剣道経験者だ。父親は今もそのまま剣道の世界にいる。
「いつかは風音さんや雪香さんが黒川流を継ぐんですね……」
桜さんのつぶやきに「どうかなあ?」と首を傾げる。予想と違う返事に桜さんが目を見開いた。
「俺も、入門したころまではそう思ってたんだ。自分には黒川流を次につなげる使命があるって。だけど、祖父も哲ちゃんもそんな風には思ってなくて、志があれば、継ぐのは黒川家の者じゃなくても構わないし、適任者がいなくなれば消えてしまうのも仕方がないって」
「消えて? それはもったいないです。あ、でも……」
そう。「でも」なのだ。
誰でもいいというわけじゃない。剣術を金や世俗的な名誉・名声を得る道具と考える人間には譲らない。それが黒川東玄の遺志だから。そしてまた、本人の気持ちがないのに強制して継がせても良い結果にはならない。
「それを聞いたのは入門してすぐのときだった。祖父は俺が跡を継がなきゃならないと考える必要はないって言ってくれた。続けるのもやめるのも自由に決断していい、やめた後に再開するのも拒まない、やめても家族は家族だし、お前の人生はお前のものだから、って」
「自由に……」
桜さんが静かに繰り返した。
「それを聞いたとき、がっかりした部分もあったんだ。心の中に、自分は将来『宗家』って呼ばれる存在……まあ、つまり偉くなれるっていう甘い気持ちがいくらかはあったんだよね」
あの頃は何も分かっていない子どもだった。自分の可能性を過大評価し、大人になることを甘く見ていた。
「だけど、ふわっと体が軽くなったような感じの方が大きくて、『ああ、俺はプレッシャーを感じていたんだな』って気付いた」
あの瞬間の気分は、今でもたまによみがえる。
「うちは地元の神社の祭りで演武をしてるから、近所はみんな黒川流のことを知っていて、俺は小さいころから『跡取りだね』って言われてたんだ。だから、それが自然なことだと思い込んでいたのかな」
「ご近所のみなさんの言葉で刷り込みが起きた、みたいな……あ!」
桜さんがはっとした表情で俺を見た。
「わたしも決めつけていましたね、今。ごめんなさい」
「ああ……、いや、いいんだよ。もう大人だからね。自分で判断できるから大丈夫」
笑顔でフォローしても、桜さんは自分の失敗に肩を落としている。そんな様子を見ていると、彼女に対しては誠実でいなければ、と思う。嘘やごまかしは、真面目で素直な彼女をきっとひどく傷付けてしまう。そんなことは絶対にしたくない。
「うちの家族は誰も跡取りの話なんて、俺にしたことなかったんだよなあ。でも伝統芸能の世界だとありがちだからね」
祖父や親がいる場で跡取りの話が出たときは、まだ決まったわけじゃないと相手に言っていた。けれど周囲はそれを本当とは受け止めず、「男の子だもんねえ?」「強くなるよね?」などと俺に言葉をかけてきた。それに頷けば、そういう大人たちは褒めてくれたのだ。
後を継ぐことは嫌ではなかった。もちろん今でも、周りが適任だと認めてくれるなら責任を持って務めようと思う。そのときに自信を持って引き受けられるようにと考えて稽古に臨んでいる。けれど、最初から跡取りだと決まっているというのは意味が違う。そこには俺の思いがない。
「うちの父親も、長男だけど黒川流も植木屋も継いでないだろう? 祖父に同じように言われたって、あとから聞いた。そのときから迷うたびに自問してきた。続けたいかどうか。もう最近は迷わなくなったけど」
「風音さんはちゃんとご自分の意志で続けている」
「うん。とにかく自分が納得できるまで進もうって決めてる。そうしているうちに何かが見えてくるのかも知れないから。まあ、まだ哲ちゃんもいるし、うちの母もいるから、後継者問題はしばらく必要ないけどね」
「風音さんのご家族は伝えられてきたものを守っている一方で、それで家族を縛ることはしないんですね……」
――家族を縛る。
静かな声だったのに、その言葉が胸に重たく響いた。
桜さんは家族のために自分の自由を手放してきたひとだ。家族に縛られてきたとは言わないまでも――。
「……ごめん。桜さんは自由どころじゃなかったよね? なんか……うちって計画性がないよな。黒川流が消えても仕方ないなんて無責任だし」
「そんなことないです」
桜さんが穏やかな微笑みを浮かべる。
「風音さんのお家では、それぞれが自分の人生を自分らしく生きることが何よりも大切だという考えなのですよね? それってちっとも無責任ではないと思います。逆に、本人にも、それを告げる側にも覚悟が必要だという気がします。伝えられてきたものが自分で途切れてしまうかも知れないわけですから」
確かにそうだ。続けることよりもやめる決断の方が勇気やエネルギーがたくさん必要な場合もある……。
「それに、わたしもべつに強制されたわけではなくて、自分で選んだんです。母は――」
突然、言葉が途切れた。束の間、口元を引き締めて目を伏せ、次の瞬間には顔を上げてにっこりした。その妙に明るくさっぱりした微笑みが、俺には逆に悲しそうに見えてしまう。
「後悔はしないことにしているんです。その時間をこれからに向けて使いたいから」
言い切った瞳に力が宿る。そして微笑みは挑戦的に。……と、ふふっと笑って力を抜いた。
「今は自由を満喫しています。好きなことをする時間があって、美味しいものを食べられて、こうやって出かけることもできる。とっても幸せです」
いつもの彼女だ。おおらかで穏やかで楽しそうな。
今、彼女が幸せだと感じているのはきっと真実だ。けれど、過去は? 不意に言葉を切ったり、目を伏せたりするのは……。
一つ、気付いたことがある。
桜さんは「幸せでした」とは言わない。