別にダンスは俺のすべてとか、そういう特別で大切なもの、という訳ではなかった。同じくらいゲームも好きだったし、他にも習い事はいくつかやっていた。なんでもそれなりにできる。挫折した経験もなかった。刺激とかもなくただ平坦な日々。正しい拍子でリズムが刻まれていく。それがひどく窮屈で、つまらなかった。

そんなある時だった。その日は、当時小学校中学年の頃通っていたダンス教室の発表会があった。舞台袖では生徒たちが待機していて、みんな緊張でそわそわしている。俺はなんとなく体をほぐして、袖口から舞台を見ていた。緊張してうまく体が動かない生徒、テンションが上がって変な振り付けを組み込み出す生徒、練習通りの動きのはずだがどこかぎこちない生徒。大方がこんな感じだった。

一人でスポットライトの当たる舞台に立つ。そのくらいの緊張や失敗はつきものなのだろう。

けれど、あいつだけは違った。

特別何かすごい振り付けを踊っているわけではない、かといって他の生徒と同じかと言われたら、間違いなく違うと答えられる。そんな踊り方だった。音楽にぴたりとあった、なめらかな胴の動き、関節の使い方、指先まで。震えるような繊細なステップが折り重なっていく。

かと思えば、全身を大きく使った体中から力が溢れ出てきそうなほど、力強い旋律で。俺は一瞬も目を離してはならないと思った。力強く心からダンスが楽しいと瞳が動く。次々と変化していく、彼から生み出される、新鮮で情熱的な表現をずっと見ていたかった。平凡なリズムを刻む日常が一気に弾むような音に変わる感覚があった。

その瞬間ダンスはただの習い事から、大切で人生にとって欠かせないものに変わった。

それから俺はすぐにその人と話がしたくて、名前も知らない彼を発表会の後に探した。幸い彼はすぐに見つかった。発表会の会場の外でガラス窓に全身を映しながらダンスの練習をしていた。

「ねえ、そこで何してんの」

そこからは、あっという間だった。俺が話しかけた相手は及川涼太といった。学年は一つ下で、俺たちは小学校、中学校と二人で時々和樹も加わって、放課後や土日は集まってダンスの練習をした。涼太は俺の一つ下の学年だったが、俺よりもはるかに大人っぽかった。俺が学校で友達と喧嘩をして愚痴を言っても、冷静に状況を整理して解決策を打ち出してくる。そこがちょっと憎たらしくて、気に食わない点だった。

俺が中三の時。地元の中学生ダンスサークルに所属していた俺たちは、県の中学生大会で優勝も経験していた。その頃には涼太はもちろん、俺も三年生としてチームを引っ張る存在だったと思う。俺にとって中学生最後になる大会の前、俺と涼太は喧嘩をした。原因はダンスの表現の方向性の違い。けれど今までもこういうことは何度もあった。その度に、どちらかが電話をかけて、またダンスについて夜通し語る。今回もそうなるんだろうと漠然と思っていた。

俺は連絡を入れようと、携帯の画面を眺めていた。すると目の前にに 及川涼太 の文字が浮かび上がる。飛びつくようにして電話に出た。

連絡の主は涼太ではなかった。涼太の母親が涼太の携帯で俺に電をしてきたのだった。内容は涼太が交通事故に遭ったということ、幸いにも命に別状はないということ、ただ腕を骨折してしまったため今は入院しており、ダンスの大会には出ることができそうもないということだった。

交通事故にあったことに対する衝撃はあったものの、命に別状がないと聞き大層安心した。今回の大会に出ることが出来ずとも、また次がある。高校に行ってもダンスを続けるのだから。その時の俺はそう漠然と考えていた。

だが、退院の翌日及川涼太は死んだ。原因は交通事故。こんな短期間で二度も事故に遭うものなのか。見当違いなことを思った。けれど、それは揺るがない事実。

それから俺はダンスをやめた。涼太がいなければ、ダンスを続けてもしょうがない。あの溢れ出てくる刺激的な表現にもう二度と出会うことはできないのだから。




「ふわぁーー」

一眠りをして、固くなってしまった体を伸ばす。けれど、頭の中は驚くほど、はっきりとしていた。

時計を確認してみると、すでに放課後になってしまっていた。保健室に来たのが六時限目に入る前だったことを考えると、二時間は過ぎている。流石に寝過ぎた。

ベッドから離れて、鞄を受け取って帰路に着く。

空はじんわりと赤が滲んでいて、校庭ではいくつかの部が練習に励んでいた。掛け声が折り重なるように聞こえてくる。

横目に通り過ぎようとしていた。

すると、後ろから声がした。

「佐渡先輩!」

振り返ると、息を切らした様子のあの一年女子がいた。そして、なぜかジャージ姿である。

「……なんだよ」
「姿が見えたので走ってきました!」
「馬鹿なの?俺、おまえとそんな親密な関係でもないはずなんだけど」

「佐渡先輩にとってはそうかもしれませんが、私にとっては違うので!あと、私の名前は、三浦真音です!」

「いやだから、お前……」
「三浦真音」

どうやら彼女は、自分の名前に厳しいらしかった。

「……三浦真音」
「はい!それで、先輩……」
「ダンス部には行かねえよ」
「どうしてですか」

「どうしたこうしたもねえ、いかない」
「一瞬だけでもいいので、お願いします」


律儀に頭を下げてきた。けれど、

「無理だ、行く気はない」
「……どうしてか、聞いてもいいですか」

どうして。
その問いの答えは、もう決まっている。だが、答える義務は俺にはない。

「始めに言ったとおりだ。ダンス経験者でもない俺がやっていけるとは思えない。三年生だからな、いい加減諦めろ」

その時の、三浦真音の表情は無という表現が正しいような気がした。ほんの少し、笑いそうになった。

ああ、その表情で問題ない。早く軽蔑して、諦めてくれ。ダンスのある世界に、俺は行かない。

その日から徹底的に、三浦真音を避けた。休み時間になれば、トイレに直行、昼休みは空き教室に身を潜めてやり過ごした。

様子を見ていた和樹は、呆れた顔をする。

「あ、やっと戻ってきた。さっき教室に真音ちゃんが来てたよ。浩人がいないってわかってがっかりしてた」

「また来たのか、あの一年。よほど暇なんだな」

「そんなこと言ってやんなよ。真剣に毎日勧誘に来てくれてるだろ」
「あいつが勝手に来てるだけだ」

「ひっど!その言い方どうにかしろよ。嫌われるぞ」

和樹はわざとらしく、身をひいて見せる。本当に鬱陶しいんだから別にいいだろ。

あれだけ、言ってもまだ諦めない精神にだけは関心する。
すると、隣からあっと思い出すように口に出した。

「そういえば浩人、今度の土曜日空いてる?」

「別に空いてるけど」

「よっしゃー!じゃあ、遊ぼ、スマホに集合場所送っとくからさ」
「なんで?」

 しかし俺の質問に返答はなく、和樹は次の別の話題について話し出す。何か隠し事があるのかと勘繰ったが、追求するのも面倒なのでそのまま、気づかないふりをした。


「佐渡くーん、こっちの料理、テーブルに運ぶのよろしくー!」

「わかりましたー」


バイトのシフトは、週の後半に入れている。駅から少し離れたところにある、小さな喫茶店だ。小さいとは言っても、お客さんが入れ替わり立ち替わりやって来る。正直、休む暇がない。


けれど、店長が高校生だからとまかないを多めに出してくれるおかげで、飯代が浮くし、他の定員の人も優しいので、なんとなく続けているという感じだった。


昔からある店で、この地域にも根付いている。俺がバイトをしているのも、知り合いからの紹介あってのことだ。


からんからんと、店の扉の開く音がした。


「いらっしゃいませー」


声をかけて、視線を前に移した。


「こんにちは、先輩。……すごい顔ですよ」

「あたりまえだろ」


「私も実は驚きなんです。先輩はここでバイトを?」

嘘くさい言い回しだった。


「答える義務はない」


「つれないですね。ちなみに私は勉強をしにきたんです」


そう言って、一年女子は一人がけのテーブルの席に着いた。


飲み物を頼んで、かばんからテキストを広げ始めた。


まじめに勉強をしに来たらしい。


そのまま、何事もなく帰ってくれ。


「佐渡くん、さっきの子は知り合い?」


こそっと、女子大生の田中先輩が聞いてきた。恋バナ好きの人で、目をらんらんとさせている。



「高校の後輩です。少なくとも、先輩の思い描いているような関係じゃないことは確かですね」


「おお、辛辣。いや照れ隠し?」


「張り倒しますよ」


「きゃー怖い、店長、佐渡くんが物騒なこと言ってきます!」


変なこと言うからだろ。対して田中先輩はさっきよりも、楽しそうな表情だ。


「まあまあ、佐渡くんからかうのも、ほどほどにね」


「はーい」


つまらなそうな声を上げた。これ以上の追求はなさそうで、胸を撫でおろす。


「佐渡くんも、田中さん悪い子じゃないから、許してあげて」


「わかってますよ」


すると、店長は少し嬉しそうな顔をした。


「佐渡くんさ、さっきの田中さんと同じ質問になっちゃうんだけど、さっきの子と知り合いってことで、あってるかな」


「まあ、高校が同じなので」


「真音ちゃんはさ、結構前からここに通ってくれててね。来るのは不定期だし、最近は姿が見えなかったんだけど、元気そうでよかった」


店長と三浦真音は知り合いだったのか。


正直、ストーカー行為が激化しているのかと、焦った。自意識過剰のような気がして、恥ずかしくなった。


バイトが終わって、扉を開けた。日はすっかり沈んでいる。一歩、足を止めた。


「佐渡先輩、すみません。お時間、よろしいですか」


初めてあった時の、あの目をしていた。薄暗い中でも、気づけば目で追ってしまいそうなほどの。


「少しだけな」


気づけばそう、答えていた。


近くの公園で、ベンチに腰掛ける。ぽつぽつと街灯が道を照らすだけの小さな公園で、遊具も限られていた。


「佐渡先輩は、いつからあの喫茶店に?」


「去年の夏休みくらいから」


「そうなんですね」


そこから、三浦真音は、得意なメニューはなんですか、喫茶店の

制服素敵ですよね、雰囲気が落ち着くんです、とか当たり障りのないトークを繰り広げ始めた。


なんとなく、俺の様子を探っているような心地がして、胸がざわざわした。


「で、言いたいことはなんだ」


すると、ぴたりと会話をやめた。図星か。


「……先輩、どうしてあの喫茶店でバイトをしているんですか」


正直、拍子抜けした。もっと、何かすごい質問が来るのか、と構えていたのに。


「くだらない話なら帰る」


「違います!本当に知りたくて」


真剣そうな様子だった。興味本位で聞いていなことは明らかだった。


「……和樹に何か聞いたのか」


「はい、でも」


ため息が出た。あいつは、三浦真音に肩入れしすぎだ。


「知人の紹介でだ。死んだ幼馴染があそこでバイトしてたんだよ」


思った以上に、ショックを受けたようだった。下を向いたまま、動かなくなってしまった。


「ダンス部に入らないのは、それが原因ですか」


「それもあるかもな」


「それでも、私は先輩にダンス部に入ってほしいです」


ベンチから立ち上がった。三浦真音は動かない。

「……人はな、死ぬんだよ。だったら、苦しくないように死にたいんだ。何かを成し遂げてしまったら、きっと苦しくなる」

だから、

「俺は、入らない。他を当たった方がいい」


追い打ちをかけるかのように、声が飛んできた。


「先輩は、そうやって逃げるんですか」

余計なお世話だと思った。



俺はそのまま、家に帰った。


週末、和樹との約束の場所に向かっていた。公園での会話以降、三浦真音はクラスに押しかけることはなくなり、平穏な日々だった。


「おっ、来たきた。浩人、こっち!」


「こっち!じゃねえよ、どこに呼び出してんだ」


「公民館?」


「とぼけんな、意味わかんねえんだけど」


「まあまあ、気にすんな。とりあえず行くぞー」


中に入ると、古びた建物独特の匂いが鼻をついた。スリッパに履き替えて辺りを見回す。


「なんでこの場所なんだ」


「まあまあ、お、ここだ」


指が示した方向を、目で追う。


小さな体育館に、小ぶりなステージ。観覧車用のパイプ椅子が並んでいて、実際に座っているのは数人の年配者。常設されている音響からは、ポップミュージックが流れている。そしてステージ上にいたのは……



「三浦真音」


呆然として、自然と口から滑り出た。


「そ、今日真音ちゃんから、ダンス部が地域の交流会にでるから、見にきて欲しいってお願いされてさ。でもおまえ言ったら来ないだろ。だから俺が黙って呼び出したわけ……おっとそうはいかないよ」


帰ろうとしたら、後ろ首もとを掴まれた。


「おまえな」


「んな、睨むなよ。せっかく来たんだから、ちゃんと見て行こうぜ」


無理やりパイプ椅子に座らせられる。


仕方なしに、ステージ上に目を向けると、流れる音楽に合わせてステップを踏んでいるところだった。足の動きに気を取られすぎていて、上半身が疎かになっている。体幹のぶれも激しい。


あんなにしつこくダンス部に入ろうと、勧誘してきていたから少しは実力があるのかと、考えていたがそれは見当違いだったらしかった。


ありきたりで、全てが素人のお粗末なダンスにすぎない。正直このまま席を立って帰ってしまい衝動にかられていた。けれど


「あ……」


一瞬だけ、姿が重なった気がした。目が覚める心地がする。


ただ下手くそなだけなら、きっとそのまま和樹の静止を差し置いてでも、帰っていたことだろう。けれど、俺はそれができなかった。


何一つ、完成度はおよばない。どこを探しても相似点を見つけることができない。


それなのにどうしてこうも、頭をよぎるんだ。


及川涼太のダンスを初めて見た時に受けた衝撃。初めてダンスをしたいと、心から思えたあの瞬間。胸の高鳴り、全身から溢れ出でくるとめどない高揚感。


その全てが、ステージのある世界へと引き戻そうとしてくる。うまく、息ができない。




とたんに、胃がむせ返りそうな衝動にかられた。思わず口を抑える。


トイレに駆け込んだ。身体中から、気持ちの悪いじんわりとした汗が出てきていた。吐き出したいのに吐き出せない。内臓の中を、得体の知れない何かが、動いている。


俺はさっき、何を考えていた。一瞬だけ、涼太と姿が重なった?そんなことあるはずがない。きっと、体調が悪かったんだ。


もうダンスはしない。あいつがいない世界で、俺は表現しない。

だって、道を照らすものがなくなったのに、歩き出そうとするなんて、無謀な行動がすぎる。


苦しくて、辛い。永遠に続く、地獄。そんな道を歩く覚悟は俺にはない。


何も吐き出せなくて、便座に顔を向けてから、しばらく経った頃、扉を叩く音が聞こえてきた。


「……浩人、大丈夫か?」


喉は、空気が通るばかりで、うまく作用しない。


「俺が言うことじゃないのは、わかってる。聞き流してくれてもいい。ここから言うのは俺の独りごとだ」


すっと、息を吸いこむ音がした。


「俺はおまえの気がすむなら、ダンスをやめるのも、いいんじゃないかと思ってた。でも、やっぱり辞めることにする。俺は、もう一度、おまえのダンスが見たい。俺が、真音ちゃんにどうして肩入れするか、わかんねえだろ。真音ちゃん、俺に言ったんだ。私は佐渡先輩のダンスが好きなので、絶対に諦めないですって」


初めて、ダンスを見た時、衝撃を受けたという。俺のいる高校へ行って、ダンスをしてみたいと思ったそうだ。


そして、声色が変わった。


「俺、それ聞いて、何やってるんだろうって思った。今までの行動が馬鹿みたいに思えた。結局俺も、逃げてたんだ。苦しそうにする、おまえを見ていられなかった。でも、もう、何もしないのは、やめる。おまえが、もう一度ダンスをするのを諦めない。今度からは、勧誘が二人に増えるからな、覚悟しとけよ」




からりと言ってみせた。


それを聞いて、体の中を動いていた何かが、おさまったような気がした。うごめいていた何かが、消化されたように、すっとなくなったのがわかる。


生きている中で、なによりもダンスをしている瞬間が自分が一番生きている心地がすると、涼太は俺に言った。


きっと、三浦真音もそうなのだろう。


指が、眼差しが、自分を見ろと、訴えかけてくる、さっきの様子が目に浮かんだ。


まさか、もう一度この気持ちを味わうことになるなんて、想像もしていなかった。


俺は、その気になれば、三浦真音の誘いを無視する機会はいくらでもあった。それを、あしらうだけでとどめていた時点で、答えは出ていたのだろう。


「やばいな」


トイレを出ようとして、鏡を見た時、ようやく涙が出ていたことに気がついた。


「あ!菅原先輩、佐渡せんぱーい!」


週明け、三浦真音は俺たちの姿を見つけるなり、廊下を走ってやってきた。おまけに声も大きいため、通りすがりの生徒たちから妙な視線を向けられる。


「お二人とも先日は地域の交流会にまで見にきてくださって、ありがとうございました!」


「そりゃどーも、俺は見にこさせられたの間違いだけどな」


「えっと、それでダンス部の件は……」


「入るよ」


「いや、そうですよね。別にこんなダンス見せられたからって入部するだなんてなりませんもんね……って入る!?」


「今度から、勧誘が二人に増えるって脅されたからな、しかななくだ」


「わー、ほんと素直じゃないな」


「今、おまえがトイレの前で言ってたこと、発表してやろうか」


「それは、勘弁」


「わかってます、わかってます!もう私めちゃくちゃい嬉しいです!」


三浦真音は胸の前で拳を握りしめて喜ぶ。隣ではよかったねと、和樹が笑っている。


もう一度、ダンスのある世界にいく。そこに対する恐怖がなくなったわけじゃない。大切だから怖くて、忘れたくないから、気持ちを隠した。


苦しさは、まだ消えてくれない。でも、何もしないよりはずっといい。今は、支えてくれる人たちの存在に気づくことができた。


桜は散り、青々とした若葉が、空に構える光の方へと、日を追うごとに、成長していく。開いた窓から、入ってくる風が、春の終わりを告げていた。


「佐渡先輩置いてっちゃいますよ!」


あんなに、鬱陶しと思っていた声が、心地よく感じるなんて、少し前の俺には、おそらく信じてもらえない。


「わかった」


一歩踏み出す。前より、少しだけ息がしやすくなった気がした。