どこにいても、何をしていても、いつもどこか息が苦しい—こんな自分のことが大嫌いだ。自分で選択したことなのに、どうしてこんなに息が苦しいのだろう。

桜が風に吹かれて散っていく。窓から吹き込む春の朝の風は、案外心地よくて、寝不足の俺の体に沁みた。

「失礼します!私、三浦と言います。佐渡浩人先輩はいらっしゃいますか!」

快活な声が教室中に響き渡った。高校三年一組の教室にいた生徒のほとんどが、手を止めて声の主を見る。もちろんそれは、俺も例外ではない。机に突っ伏して、寝かかっていたところだったのだが、起きてしまった。ぼやけた視界で様子を伺う。

真新しい制服に、茶色味のある髪の高めに結い上げたポニーテールの女子生徒。上靴に赤色の線が入っていることから、新入生であると容易に想像ができた。たくさんの上級生に見つめられて、少し首を傾げている様子も初々しげだ。

とはいえ、それも一瞬のことですぐに各々の活動を再開させていた。

「あの……」

「よっす、おはよ。……入り口にいる君、うちのクラスに何か用事?」

菅原和樹が問う。黒髪を刈り上げて、耳にはピアスが添えられている。制服のシャツは上から三番目までのボタンが開け放たれており、全体的にだるっと着こなしている。チャラそうな雰囲気を存分に放っているが、中身はただのオカンだ。俺が昼食を菓子パンで済ませようとしているのを見るや否や、速攻売店に行ってサラダを買って差し出してきたこともある。

今もちょうど、教室に入ろうとしている時に、入り口で当惑している生徒を見て、話しかけたのだろう。本当にお人好しなやつだと思う。対して俺はただ状況を俯瞰するのみ。面倒ごとには巻き込まれたくない。

「そっか、浩人に用事があんのね。ちょっと待ってて、呼んでくる」

和樹が話を終えて、こちらに向かってくる。机に頭を伏せて寝たふりをした。

「ほら、浩人起きろ嘘寝すんな。バレてんぞ、一年生が呼んでるから行ってやれ」


「やだ、めんど。俺は寝てるから、また今度来てくださいって、和樹言ってきて」

あくまで寝る体制のまま答える。昨晩はゲームに熱中しすぎて寝不足だった。本当に今は動きたくない。
すると後頭部に痛みが走る。

「馬鹿なこと言ってないで行け。女の子が待ってんだぞ」

少しどすの利いた声が降ってくる。
和樹には妹がいる。超がつくほどの溺愛ぶりで、女子への扱いもうるさい。

結局、強制的に椅子から立たされて、教室の入り口にまで連れて行かれた。

「あの……なんかすみません。時間を取らせてしまって」

俺が和樹に無理やり連れてこられている様子を見ていたのか、一年女子は申し訳なさそうに頭を下げた。

「いえ別に、いつものことなので大丈夫です」

浅く頭を下げて、反射的にこちらも敬語になる。敬語で言われると、敬語で返さなければならない気になってくるのだから不思議だ。

すると一年女子は、下に向けていた視線を上げて真っ直ぐに目を向けてきた。眩しいくらいに真剣な表情が寝不足な俺には辛い。一瞬たじろぐ。

「私は一年の三浦真音と言います。突然ですが先輩、私と一緒にダンス部に入りませんか?」

「えっ」

本当に突然だなと思う。和樹でさえ隣で息を呑んでいるようだった。しかも俺は三年生で今年は受験生。一年女子は部活に誘う人選を間違ったんじゃないか。眠気で朦朧としている思考を切り替えようと、必死に頭を動かして考えた。

「ええと、質問させてほしいんだけど、まずどうして?記憶違いだったら申し訳ないんだけど、俺たち面識ないよね?」

「はい、面識はありませんですが、私は先輩を知ってます」


さらに空気が固まる、なんとも恐ろしいセリフだ。俺は一年女子を知らないけど、彼女は俺を知っている。ちょっとしたホラーである。

背中に寒気を感じていると一年女子は俺の目の前にスマホの画面を突きつけてきた。

「これです」

画面に映し出されているのは一本の動画。どこかの体育館のステージの上で数名が曲に合わせて踊っている。耳に残るようなファンキーな曲に合わせて、次々とキレキレのダンスを披露していた。ステージ上のチーム全員の一糸乱れぬ動きに圧倒される。特にセンターで踊る二人が目を引いた。

一年女子はその動画を指でさす。

「ここのセンターの左、佐渡先輩ですよね」

それ聞いて一瞬、呼吸が止まったかと思った。だがすぐに息を吸い答える。

「ごめん、それ俺じゃないよ。ダンスなんてやったことないし、せいぜい授業でやった程度だから」

できる限り、本人ではなくて申し訳ないというような表情を作る。すると一年女子の表情が曇った。

「でも……」

一年女子は何か話そうとしていたが、強引に話を断ち切る。

「ごめん、俺今日、不足なんだ。ちょっと寝たい。悪いけどダンス部は他あたって」

そのまま自分の席に戻る。和樹は何やら一年女子と話してから戻ってきた。大方、俺の愛想が悪くて申し訳ないとか、そう言う話をしていたのだろう。

和樹は俺の前の席に座って、こちらを振り返って背もたれに顎を乗せた。

「驚いたな」
「ああ」

和樹は俺が昔ダンスをやっていたことを知っている。つまり、一年女子にダンスは未経験であると言ったことは嘘だ。一年女子がさっき見せてきた動画は、中学生の時に出場し、優勝したコンクールの映像だ。彼女が指差した人物は間違いなく俺。名前を知っていたのは、おそらくネット上の情報だろう。

流石に彼女も俺の見え見えの嘘に、気がついたことだだろう。でも、別に構わなかった。もうダンスをする気は毛頭ない。きっとそれは、さっきのはぐらかすような態度から彼女にも伝わったはずだ。一度断ったし、もうダンス部に入部しようだなんてこと言いにはこないだろう。それに一年生が三年生の教室に来るだけでも相当な勇気がいる。

そんなことを考えながら、さっきよりもはるかに重くなった瞼を下ろした。

その日の学校からの帰宅途中、イヤホンを片耳につけ、音楽を流しながら信号を待っていた。周囲にあまり、人はいない。
下見向けていた視線を、前に移す。

すると、横断歩道の向こう側にいたおばあさんが、なにやらふらふらとしながら立っていた。
そのまま、信号は青に変わり、歩行者が横断を始める。俺もそれにならった。
渡りつつ、おばあさんを横目に見る。ふらふらとしているものの、倒れそうな様子はなく、そのままいけば、きちんと渡れそうな様子だった。

特に手を貸すこともなく、そのまますれ違った。渡り終わるのと同時に、信号が赤に変わる。後ろを振り返った。
まだ、おばあさんは横断歩道上にいた。でも、車通りも少ないから大丈夫だと思った。

けれど、次の瞬間、視界の端にトラックが走ってきているのが見えた。明らかに、制限速度を超えている。

間に合わない、ぶつかる。
そう思った。足は動かなかった。

トラックはそのまま直進を続けた。速度が弱まる様子はなく、刻一刻と迫る、エンジン音だけが聞こえる。

すると、スーツを着たサラリーマンが走ってきて、焦った様子でおばあさんの手を引き、歩道側に寄せた。その背後を掠めるように、トラックは走り去っていった。

その様子を俺はただ呆然と見ていた。なにをすることもなく、その場にいただけ。危うく事故になるところだったのに。

助けに行けばよかったとか、声だけでもかけたらよかったとか、そういう気持ちがないわけではない。けれど、それ以上に心を占領するものがある。

ああ、俺はこの程度、目の前のおばあさん一人助けようともできない。あの頃と何も変わっていない。

この気持ちはただの自己満足にすぎない。そんなの自分でもわかっている。傲慢で独りよがり。自分のことばかりで、こんなことを思う自分に嫌気がさす。そんなことを考える自分をぶん殴りたくなる。
こんな時は決まって、死んだ幼なじみのことを思い出す。

もしあいつが生きていて、この現場に居合わせたのなら、さっきのサラリーマンのようにおばあさんを助けたのだろう。

事故に巻き込まれることを恐れてなにもしなかった、かってに自己嫌悪に陥っている俺とは違う。

そんな風にこぼすと、あいつは決まって、大丈夫だと言った。
なにが大丈夫なんだ。意味がわからなかった。その度に、俺はこいつとは根本的に違うのだと思い知らされている気がした。

何もかも面倒くさがるくせに、こういう誰かを助ける場面になった時、なにもできないことを後悔する。あたりまえだ、初めからなにもしていないのに、できるはずがない。

そんな人間が、何かを求めるなんて、本当に馬鹿な話だ。
取れかけたイヤホンを耳に押しこんで、そのままそこを後にした。

その後、俺の考えは甘かったようで、一年女子は毎日ダンス部に誘いにやってきた。何度断っても来る、ゴキブリ魂。終いには移動教室中にも勧誘してくるようになった。本当に厄介で疲れる。

「佐渡先輩、今日こそダンス部に入りましょう」
「やらない、できないし。ていうか次移動教室なんだけど。そこ邪魔」

この日は一年女子が、俺の教室の前で待ち伏せをしていた。トイレから帰ってきたら既にいて、和樹と何やら話をしていた。

「佐渡先輩って結構毒舌ですよね」

最初は下手に出ていた一年女子も、俺を勧誘し始めて一週間くらい経った今となっては、かなりものをいうようになってきている。

ぐいっと押しのけて教室に入る。彼女は律儀に三年生の教室には入ってこない。他クラスには勝手に入っては、いけない決まりだ。

「そう?どっかのストーカー一年女子に悩まされているせいかもな」
「えっそうなんですか!なんですその不届き者は。言ってください、私が成敗して見せますから!」

あくまで自分ではないと言う設定らしい。本気の目で、その不届き者は誰なのかと疑っている。そのトンチンカン加減に流石に頬が引きつってくる感触があった。

「お前だ、馬鹿」
「えええっ私ですか!ストーカーだなんて、そんなの誤解です!」
「今まで一度も面識がないくせに、俺の名前から、通っている高校を特定して、入学早々追いかけ回す行為を、世の中ではストーカー行為と呼ぶんだ」

「私のはストーカー行為じゃありません、先輩失礼です」
「どの口が言うか、本当に馬鹿なんだな」

思わず拳を作ってパシパシと打ち鳴らす。ただでさえ毎日の勧誘にうんざりしているというのに、本人はこの調子だ。いい感じに俺の疲労も蓄積され続けている。一旦成敗しないと気がすまない。面倒くさいことは早めにすませてしまうのが吉だ。

「まあまあ落ち着いて浩人。真音ちゃんもあと少しで授業開始の鐘鳴っちゃうよ」

見かねた様子で和樹が言うと、一年女子は、本当だ、失礼します!と足速に去っていった。運のいいやつ。

「浩人も行こう。次、体育だから、校庭に移動だ。早く行かないと」
「おう」
俺たちは小走りで、更衣室に向かった。

授業の内容はサッカーだった。そして俺が苦手な部類のものでもある。ボールという、無機質で動かない物体。なんだか扱いづらく感じる。自分の意思ではどうにもならないこの球体に、いつも苦戦する。

「佐渡、ボール行ったぞー!」

足元にボールがやってくる。なんとか、コート内からは出さないように、つま先で触るも、弾かれて相手チームにボールが渡ってしまった。

「ごめん」
「まったく!むしろ、ボールがコート内から出なくてよかった!俺がちゃんと、ボール取り返してくるから!」

そう俺に声をかけて、ボールを追いかけていった。確かあいつは、サッカー部に所属している。いわゆる陽キャというやつで、いつもクラスの中心にいるという印象だった。

クラスの中で、あまり目立たない俺にも気を使って、さらっとフォローも入れてくれる。そんな奴の人気がないわけがない。

しかもそれを無意識にやっていることを見ると、別次元の人間だと思うと同時に、少し羨ましくも感じた。

授業終わり、和樹と一緒に用具を倉庫に戻しに行った。昇降口に戻ろうと、歩いていく。

「佐渡、危ない!!」

誰かの声がして、次に頭に衝撃が走った。

「いってえ」

後頭部を抑える。下を見れば、サッカーボールが転がっていた。

「浩人、大丈夫か?」
「まあ、なんとか」

頭部を触ると、熱を帯びている感覚があった。どうやら、こぶができているらしい。

「マジでごめん!まさか、当たると思わなくて」

ボールで遊んでいたであろう男子数名が、通り過ぎると同時に声をかけてきた。

「別に、俺もまわり見れてなかったし……」
返答する。

頼むから、そんなに謝らないでほしい。陽キャが陰キャに頭を下げている様子は、いやでも目を引く。

「浩人、本当に大丈夫なのか?」

外靴を履き替えている時に和樹が聞いてきた。


「まーちょっと、ぼんやりする程度」

「それ、保健室行った方がいいんじゃないか。俺、ついていくけど」
「いい、一人で行く。ついでに昼寝もするから、先生に言っといて」
「……わかった、無理すんなよ」

適当に手を振って答える。保健室に行って、名簿に名前を書きベットに潜り込んだ。ボールを受けた衝撃で、なんとなく、頭の中に霧が立ち込めている心地がする。ぼんやりとした心地で、そっと眠りに落ちた。