その日の夜、美晴は久しぶりに千鶴の部屋を訪れた。
『モモ』を陸に読み聞かせる。
 陸は、珍しくおしゃべりだった。本を読んでいる最中に、美晴に「これはどういう意味?」「なんでこうなるの?」と聞いて来る。
 必死で起きていようとしていたが、結局、途中でスヤスヤと寝息を立てはじめた。
「最後まで、もうちょっとだったのに」
 美晴は本を閉じて、陸の頭をそっとなでて、額にキスする。枕元には、着ぐるみがきちんと畳んで置いてある。

 汚れが目立つので、美晴は陸と一緒に着ぐるみを洗って、コインランドリーで乾燥させたこともある。後1年も経たずに成長して着られなくなるだろう。そうなったときは、どうするのだろうか。
「ぬいぐるみにして、持ち歩けるようにするとか?」
 美晴は千鶴にそう提案したのだ。

 ――陸君のためにも、世の中を変えないと。もっとマシな世の中にしないと、子供たちの未来がなくなってしまう。そのためにも、明日、私は闘いに行くんだ。

 美晴は陸が起きないように、そっと布団から抜け出た。
 千鶴も体を起こす。
「行くのね、怜人君のところに」
 美晴はうなずく。
「決戦前夜だもんね。二人で過ごさないと」
 千鶴は玄関まで見送ってくれる。
 靴を履きながら、
「私、明日の朝は事務所に寄れないから……」
 と切り出したものの、それに続く言葉が見つからなくて、黙り込んでしまった。

 ――これが、最後の別れになるかもしれない。

 そう気づいたのだ。

「美晴さん」
 千鶴は涙を浮かべながら、美晴の手を握った。
「絶対、無事でいて。また3人で一緒に眠れるって、私、信じてるから」
「うん」
「占拠がうまくいってもいかなくても、美晴さんとは、また会える。そうでしょ?」
「うん、うん」

「陸は、美晴さんと出会ってから、ホントに元気になったの。あの子が、あんなに笑顔でいるのって、ホントに久しぶりで……美晴さんのお陰で」
「ううん、そんなことないから。千鶴さんがいつもそばにいるから、陸君はゆっくり時間をかけて、心を開いているんだと思う」
「あの子のことを気にかけてくれる人がいるだけで、私、どんなに励まされてたか……」
「私だって、二人と過ごせて、すごい救われた」
 二人で手を握りあったまま、しばらく静かに泣いた。

「千鶴さんと陸君に出会えて、ホントに幸せだった」
 美晴が涙を拭きながらつぶやくと、
「そんな、これで最後みたいなこと言わないで」
 と、千鶴は咎める。
「ごめん、そうだね」
 美晴はムリに笑顔をつくる。
「私、絶対に戻ってくるから。また3人でご飯食べて、一緒に寝ようね」

 外に出ると、夜風が身を包む。
「それじゃ、また」
「気をつけてね」
「千鶴さんと陸君も、気をつけて」
 美晴は何度も何度も振り返りながら、千鶴に手を振った。千鶴も大きく手を振って返してくれる。

 ――お願い。どうか、これ以上、大切な人たちが傷つきませんように。もう誰も、傷つきませんように。もう、誰も。

 美晴は夜空を見上げる。星が見えない夜だった。


 その夜、美晴は怜人と激しく愛しあった。
「明日の夜は、どうなってるのかな」
 美晴は怜人の胸に頭をのせて、ポツリと言う。
「議場で夜を明かすかもしれないし、つかまって留置場に入れられてるかもしれないし。明日一日で決着はつかないだろうなあ」
 怜人は暢気な感じで言う。

「とにかく、国会内に警官が突入するまでには時間がかかるから、それまでに片田のネタを公開できるかどうかにかかってる」
「うん」
「逮捕されたら、オレは国会議員の資格は剥奪されて、ただの人か。っていうか、すぐに塀の外に出てこれるのかな」
「逮捕されるのは片田たちじゃないの? そしたら、怜人はそのまま議員を続けて、総理になれるかもしれないし」
「うまくいったらね。でも、そんなにトントン拍子にいかないだろうな」
 怜人は上半身を起こして、美晴に向き合った。

「この国がマトモになるまでには、まだまだ時間がかかると思う。明日、占拠がうまくいって、選挙法を守れたとしても、それだけで世の中が劇的によくなるわけじゃないし。でも、オレは日本を若者が死にたいと思う国じゃなく、生きたいと思う国にしたい。それが実現するまで時間がかかると思うけど、美晴にはずっと一緒にいてほしい。そばにいてほしい」
「もちろん。ずっと一緒にいるよ」
 美晴は迷わずに返す。その瞳が涙で揺れる。
「半年前に出会ってから、あっという間だったね」
「そっか。まだ半年しか経ってないんだっけ。もう5年ぐらい一緒にいた気がする」
「中身が濃い半年間だったから」
「ホントに」
 美晴は怜人の目をまっすぐに見据える。

「怜人。あなたが、闘う勇気をくれたの。私、今までは国や社会に不満を持つばかりで、自分からは何もしようとしなかった。変えようとしなかったし、変わらないもんだってあきらめてた。だけど、あなたと出会って、あなたが闘ってる姿を見て、私も変われたの。あなたが闘い方を教えてくれた」

 怜人ははにかんだような笑みを浮かべた。
「美晴は、最初に会ったときから、何かと闘ってる感じだったけど」
「ううん、全然。闘っても、自分から半径1メートルで起きたことでしか闘ってこなかった。でも、それじゃ、世の中は変えられないんだよね。世の中を変えないと、自分も周りの人も幸せになれないんだって気づいたの」
「やっぱり美晴は革命のアイドルだな」
「それはやめて」
 二人は笑いながら強く抱きあう。
「美晴、愛してる」
「私も、愛してる。愛してる、怜人」