その日、レイナは鼻歌を歌いながら、タクマのところに向かっていた。
タクマは、午前中は住人のおじさんたちと鉄くずを売りに行っていたはずだ。そろそろ戻って来ているだろう。
その髪には、タクマからもらった赤いバレッタをつけていた。
「あら、素敵な髪飾りじゃない」
ルミの小屋の前を通りかかったとき、洗濯物を干していたルミが話しかけてきた。
小屋と木の間に張り渡したロープには、下着が干してある。
マサじいさんもジンも、何度も「外に下着を干すな」と言っているにもかかわらず、ルミはやめようとしない。
そのうえ、男の住人が下着を見ていると、「何ジロジロ見てるのよ!」と怒るので、下着を干している間は誰も近寄ろうとしなくなった。
「あいつは何をしたいんだか」と、ジンも呆れている。
ルミはどこで調達したのか、タバコを吸っている。寒いのにナイトガウンしか着ていないので、レイナは「風邪ひかないのかな」と思った。
「髪、ボサボサじゃない。とかしてあげる」
ルミは小屋の外に置いてあるドレッサーに座るよう、レイナを促した。あのときトムから買い取ったソファは結局使い物にならず、山に戻したらしい。
レイナはためらった。
ミハルはルミのことを嫌っていて、「あの人には近寄らないほうがいい」と、何度も言い聞かされていた。
レイナは「いいです」と立ち去ろうとしたが、「そんなんでタクマに会うつもり?」と言われて、迷いが出た。
「ホラ、すぐに済むから」と促され、気が進まないまま、丸い椅子に座る。
ドレッサーの鏡はキレイに磨かれ、ブラシやメイクグッズがきちんと整理されて置かれていた。意外にもルミは几帳面らしい。
ルミはバレッタを外し、ブラシでレイナの髪をとかし始めた。小さな鏡を見ながら自分でバレッタをつけたので、確かにうまくまとまっていなかった。
「キレイな髪ね。黒くて、艶やかな髪」
ルミは煙草をくわえながら髪をとかしているので、灰が降りかからないか、レイナは気が気じゃなかった。
「それに、色も白いし、肌もキレイだし。スタイルはそうね、もうちょっと胸があるといいんだけど。でも、それはいいものを食べればもっと肉が体につくしね。レイナは美人だから、ここにいるのはもったいないわよ」
ルミは鏡の中のレイナの目を見る。
「ねえ、ここを出たいって思わないの?」
レイナは迷った。そんな深刻な話をするほど、ルミと親しくはない。レイナは何も答えないことにした。
「ずっとここで暮らすつもりはないんでしょ? こんなにキレイなんだから、レイナはどこでも通用するわよ」
ルミはレイナの頬に触れた。その手は冷たく、レイナは思わず身をすくめた。
「ねえ、私がいいところを紹介してあげようか?」
ルミが顔を近づける。
「いいところ?」
「街にある、キレイなお店のこと。そこに行ったら、キレイなドレスを着れるのよ。髪も美しくアップして、高い宝石もいっぱいつけて、まるでお姫様のようになるの。それだけで、お金をたくさんもらえるんだから。レイナなら、たくさん稼いでお金持ちになれる、絶対に。そういうの、興味ない?」
レイナは唇をキュッと結んだ。
――ママが気をつけろって言ってるのは、こういうことなんだ。
「私は、そういうの、興味ない」
「えー、そうなの? それはそのお店を見たことがないからでしょ。今度、一緒に行ってみない? お店を見たら、きっと考えが変わるわよ」
「変な勧誘すんなよ、ババア」
背後から低い声がした。みると、ジンがクロと一緒に立ち、ルミを睨みつけている。
「お前、レイナに何する気だ? 水商売の店に売り飛ばす気かよ。ふざけんな。レイナに指一本触れるんじゃねえ」
その剣幕に、ルミは思わずタバコを落とした。
「そ、そんなこと、するわけないじゃない。ただ、ここを出ていい暮らしをしたいんなら、お店を紹介してあげてもいいわよって言ってるだけで」
「お前、3年前にサラを言いくるめて、キャバクラに売ったよな? サラはその後、どうなったんだ? お前はそのお金で豪遊して、あっという間にお金を使いきってここに戻って来たけどさ。サラはヤクザの愛人にされたんだろ?」
「愛人でもいいじゃない。ここよりはいい暮らしをできるんだから」
「薬漬けにされたのに、いい暮らしかよ? ふざけんな」
ジンに一喝され、ルミは黙り込んだ。
「レイナ、行くぞ」
ジンに促され、レイナは「髪をとかしてくれてありがとう」とルミにお礼を言った。
バレッタを返してもらおうと手を出すと、ルミは「この髪飾り、私の方が似合わない?」と自分の髪につけようとした。
「ちょっ、それ、私の!」
「おい、何してんだよ」
「冗談よ、冗談。そんなに真剣にならないでよ」
ルミはレイナの髪をすくうと、バレッタを留めた。
「ハイ。この方がキレイでしょ?」
レイナはそれ以上何も言う気になれず、ジンと一緒に小屋を後にした。
「でも、あんただって、レイナがこのままここにいたらもったいないのは、分かってるんでしょお?」
ルミはジンの背中に投げかけたが、ジンはまったく反応しなかった。
ジンとルミの会話の内容は、ほとんどレイナには理解できない。
だが、3年前に突然いなくなったサラの失踪に、ルミが関与していることは何となく分かった。サラの母親も、サラがいなくなってから、いつの間にかゴミ捨て場からいなくなっていた。
レイナは、今は詳しい事情を聞いても大人たちが教えてくれないだろうと思った。それでも、どうしても1つだけ、聞きたいことがある。
「ジンおじさん。私がここにいたらもったいないって、どういうこと?」
ジンは一瞬困ったような表情になった。
「レイナに限らず、子供たちはみんな、ここで一生を過ごすことになるのはもったいないんだよ。未来はいくらでも開けてるんだからさ。街に行こうと思ったら行けるし、何にでもなりたいものになれる。それを諦めるなってこと」
「ふうん」
「それより、あのババアにはもう近づくなよ。何言われても無視するんだぞ?」
念押しして、ジンはクロと一緒にゴミの山を登って行った。たまにゴミの山から出火していることもあるので、住人で順番に見回りしているのだ。
タクマは、午前中は住人のおじさんたちと鉄くずを売りに行っていたはずだ。そろそろ戻って来ているだろう。
その髪には、タクマからもらった赤いバレッタをつけていた。
「あら、素敵な髪飾りじゃない」
ルミの小屋の前を通りかかったとき、洗濯物を干していたルミが話しかけてきた。
小屋と木の間に張り渡したロープには、下着が干してある。
マサじいさんもジンも、何度も「外に下着を干すな」と言っているにもかかわらず、ルミはやめようとしない。
そのうえ、男の住人が下着を見ていると、「何ジロジロ見てるのよ!」と怒るので、下着を干している間は誰も近寄ろうとしなくなった。
「あいつは何をしたいんだか」と、ジンも呆れている。
ルミはどこで調達したのか、タバコを吸っている。寒いのにナイトガウンしか着ていないので、レイナは「風邪ひかないのかな」と思った。
「髪、ボサボサじゃない。とかしてあげる」
ルミは小屋の外に置いてあるドレッサーに座るよう、レイナを促した。あのときトムから買い取ったソファは結局使い物にならず、山に戻したらしい。
レイナはためらった。
ミハルはルミのことを嫌っていて、「あの人には近寄らないほうがいい」と、何度も言い聞かされていた。
レイナは「いいです」と立ち去ろうとしたが、「そんなんでタクマに会うつもり?」と言われて、迷いが出た。
「ホラ、すぐに済むから」と促され、気が進まないまま、丸い椅子に座る。
ドレッサーの鏡はキレイに磨かれ、ブラシやメイクグッズがきちんと整理されて置かれていた。意外にもルミは几帳面らしい。
ルミはバレッタを外し、ブラシでレイナの髪をとかし始めた。小さな鏡を見ながら自分でバレッタをつけたので、確かにうまくまとまっていなかった。
「キレイな髪ね。黒くて、艶やかな髪」
ルミは煙草をくわえながら髪をとかしているので、灰が降りかからないか、レイナは気が気じゃなかった。
「それに、色も白いし、肌もキレイだし。スタイルはそうね、もうちょっと胸があるといいんだけど。でも、それはいいものを食べればもっと肉が体につくしね。レイナは美人だから、ここにいるのはもったいないわよ」
ルミは鏡の中のレイナの目を見る。
「ねえ、ここを出たいって思わないの?」
レイナは迷った。そんな深刻な話をするほど、ルミと親しくはない。レイナは何も答えないことにした。
「ずっとここで暮らすつもりはないんでしょ? こんなにキレイなんだから、レイナはどこでも通用するわよ」
ルミはレイナの頬に触れた。その手は冷たく、レイナは思わず身をすくめた。
「ねえ、私がいいところを紹介してあげようか?」
ルミが顔を近づける。
「いいところ?」
「街にある、キレイなお店のこと。そこに行ったら、キレイなドレスを着れるのよ。髪も美しくアップして、高い宝石もいっぱいつけて、まるでお姫様のようになるの。それだけで、お金をたくさんもらえるんだから。レイナなら、たくさん稼いでお金持ちになれる、絶対に。そういうの、興味ない?」
レイナは唇をキュッと結んだ。
――ママが気をつけろって言ってるのは、こういうことなんだ。
「私は、そういうの、興味ない」
「えー、そうなの? それはそのお店を見たことがないからでしょ。今度、一緒に行ってみない? お店を見たら、きっと考えが変わるわよ」
「変な勧誘すんなよ、ババア」
背後から低い声がした。みると、ジンがクロと一緒に立ち、ルミを睨みつけている。
「お前、レイナに何する気だ? 水商売の店に売り飛ばす気かよ。ふざけんな。レイナに指一本触れるんじゃねえ」
その剣幕に、ルミは思わずタバコを落とした。
「そ、そんなこと、するわけないじゃない。ただ、ここを出ていい暮らしをしたいんなら、お店を紹介してあげてもいいわよって言ってるだけで」
「お前、3年前にサラを言いくるめて、キャバクラに売ったよな? サラはその後、どうなったんだ? お前はそのお金で豪遊して、あっという間にお金を使いきってここに戻って来たけどさ。サラはヤクザの愛人にされたんだろ?」
「愛人でもいいじゃない。ここよりはいい暮らしをできるんだから」
「薬漬けにされたのに、いい暮らしかよ? ふざけんな」
ジンに一喝され、ルミは黙り込んだ。
「レイナ、行くぞ」
ジンに促され、レイナは「髪をとかしてくれてありがとう」とルミにお礼を言った。
バレッタを返してもらおうと手を出すと、ルミは「この髪飾り、私の方が似合わない?」と自分の髪につけようとした。
「ちょっ、それ、私の!」
「おい、何してんだよ」
「冗談よ、冗談。そんなに真剣にならないでよ」
ルミはレイナの髪をすくうと、バレッタを留めた。
「ハイ。この方がキレイでしょ?」
レイナはそれ以上何も言う気になれず、ジンと一緒に小屋を後にした。
「でも、あんただって、レイナがこのままここにいたらもったいないのは、分かってるんでしょお?」
ルミはジンの背中に投げかけたが、ジンはまったく反応しなかった。
ジンとルミの会話の内容は、ほとんどレイナには理解できない。
だが、3年前に突然いなくなったサラの失踪に、ルミが関与していることは何となく分かった。サラの母親も、サラがいなくなってから、いつの間にかゴミ捨て場からいなくなっていた。
レイナは、今は詳しい事情を聞いても大人たちが教えてくれないだろうと思った。それでも、どうしても1つだけ、聞きたいことがある。
「ジンおじさん。私がここにいたらもったいないって、どういうこと?」
ジンは一瞬困ったような表情になった。
「レイナに限らず、子供たちはみんな、ここで一生を過ごすことになるのはもったいないんだよ。未来はいくらでも開けてるんだからさ。街に行こうと思ったら行けるし、何にでもなりたいものになれる。それを諦めるなってこと」
「ふうん」
「それより、あのババアにはもう近づくなよ。何言われても無視するんだぞ?」
念押しして、ジンはクロと一緒にゴミの山を登って行った。たまにゴミの山から出火していることもあるので、住人で順番に見回りしているのだ。