午前9時。衆議院の本会議が始まり、すぐに議長が「これから選挙法改正法案の採決を始めます」と号令をかける。
 美晴と若者たちは「絶対通すなー!」「はんたーい!」と議事堂に向かって叫ぶ。議場にいる議員たちに、声が届けとばかりに。

「あっ」
 動画を見ていたスタッフが、固まっている。
「どうしたの?」
「これ、これ、どういうこと?」
 みんなでスマホの画面をのぞき込む。
 すると、的場や的場と親しい議員が議場から出て行く姿が映し出されている。
「的場議員が、議場を退出します。投票を棄権するということでしょうか?」
 アナウンサーが興奮気味に解説している。怜人が的場議員に駆け寄って、説得している。他の野党議員も続いた。
「静粛に、席に戻ってください」
 議長が呼びかけるが、議場は騒然としている。

「うそっ、そんな……」
 美晴たちは絶句する。
 何も知らない若者たちは声を上げていたが、ポツポツと「え、何これ」「どういうこと?」とスマホを確認し、ざわめきが広がった。

 結局、怜人の説得を振り切って、的場たちは出て行ってしまった。その数、7人。なおも引き留めようとする怜人を、ほかの議員が押しとどめている。怜人の絶望的な表情が映し出される。
 画面に、矢田部や片田の姿も映し出されたが、薄ら笑いを浮かべている。

 ――これで、法案は通ってしまう。

 美晴は体中の力が抜けて、思わずふらついた。ゆずが慌てて体を支えてくれる。

 ――ダメだったんだ。食い止められなかったんだ。

 その場はさっきまでの熱気がウソのように、静まり返っていた。
 投票が開始された。壇上に向かう議員の様子が映し出される。
 怜人はあきらかにショックを受けていて、ほかの野党議員に支えられるように壇上に立つ。投票する、その手は震えていた。
 美晴は見ていられなかった。

 全員が投票し終わり、ただちに開票が始まる。
「静粛に」
 議長が木槌を打ち鳴らす。
「選挙法案改正案は賛成票246票、反対票240票、棄権7票。過半数で可決されました」
 とたんに、与党の議員から万歳三唱が起きる。
「ウソだろ?」
「なんだよ、これ」
 若者たちから落胆の声が上がる。

 ――この国が、終わってしまう。

 美晴は絶望的な思いで、国会議事堂を見上げた。
 こんな日でも、空は青く、まさに雲一つない晴天だ。まるで、世の中では悲惨なことなど、何一つ起きていないかのように。


 国会から出てきた議員たちは、足早に車に乗り込む。
 的場たち造反組が出てきたとき、「ふざけんな!」「卑怯者!」「土壇場で逃げやがって!」と怒号が飛び交う。
 プラカードやペットボトルを投げつける若者もいて、警備していた警官とのもみあいがあちこちで起きた。 
 美晴は陸が巻き込まれないよう、千鶴たちと一緒に人込みから離れた。
 ほかの与党議員は平然とした顔で車に乗り込み、野党議員は硬い表情で「申し訳ない」「食い止められなくて」と若者たちに謝りながら去っていった。矢田部や片田たちは、別の出口から出たのだろう。

 最後に、怜人が白石やほかの野党党首に支えられながら出てきた。
 目は真っ赤に充血している。足元もおぼつかない様子に、若者はみな言葉を失う。しゃがみこんで泣き出した者もいる。

「ほんっとうに、申し訳ない。僕の力不足です」
 怜人はぺたんと座り込み、そのまま土下座した。かすれた声、震える手。どれだけ悔しいことか。
 その様子を何台ものテレビカメラが映している。
「怜人君は悪くない」「裏切ったヤツが悪い!」
 あちこちで声が上がる。

「ただ、まだ参議院があります。そこで通らなければ廃案にできるので、僕はまだ最後の望みを捨ててません。他の野党の党首さんとも話し合ったんですが、我々はまだあきらめないということで一致してます。だから、引き続き、皆さんも力を貸してください。友達に、このことを伝えて、参議院の議員の事務所に電話をしてもらってください。まさかこの法案を通すわけじゃないだろう、って。そんなことをしたら日本は民主主義を捨てた独裁国家になりますよ、って。あなたは歴史に汚点を残す決断をした一人として名前を残すことになるけど、それでいいのか、って伝えてください。いいですか、参議院の議員ですよ。皆さんの力が集まれば、必ず与党の議員を動かせるって、僕は信じてます」

 最初は苦し気な声で話していたが、だんだん熱を帯びて、普段の怜人に戻ってきた。
「そうだ、まだ終わりじゃない!」
「これから、これから」
 拍手が起きる。白石が怜人を立ち上がらせると、ヨロヨロと力尽きたように車に乗り込んだ。
「事務所に戻らないと」
 千鶴の声にスタッフは我に返り、みんなその場から離れた。
 そのとき、スマホが震えた。見ると、知らない番号からの電話だ。

 ーーもしかして。

 恐る恐る電話に出る。
「もしもし?」
「ああ、影山さんですか」

 ――やっぱり!

 美晴は鳥肌が立った。片田だった。
「影山さん、最後にもう一度聞きます。今からでも、うちの党に入る気はありませんか?」
 美晴は声を絞り出す。
「……入る気、ありません」
「そうですか。それは残念です。あなただけでも救ってあげようと思ったのに」
 片田は乾いた笑い声をあげる。
「まあ、最後の悪あがきを楽しみにしてますよ」
 電話が切れる。
「――っ!」
 美晴はしばらく動けなかった。悔しさと、恐ろしさが同時にこみあげてくる。

 ――巨大な敵。私なんて、簡単につぶされそうなのに。最後まで戦えるんだろうか?

 震える手でスマホを切った。