翌朝、美晴は満たされた気分で目を覚ました。横を見ると、寝息を立てている怜人。夢ではない。
 こんなに幸せな気分で朝を迎えられたのは、久しぶりだ。
 美晴が体を起こすと、怜人の寝息も止まる。うーん、と軽くうめきながら、怜人は目を開ける。
「おはよ」
 美晴が声をかけると、「おはよう」と、怜人も寝ぼけ眼で答えた。怜人は美晴の頬を軽くなでる。泣きたくなるほど、穏やかな朝。

「朝ご飯、何を食べたい?」
「なんでも。美晴さんの作るものなら」
 怜人は美晴にキスして、突然体を勢いよく起こした。
「ヤバ、今日、国会だった!」
 怜人が慌ててシャワーを浴びている間に、美晴はベーコンエッグとトーストとコーヒーの、簡単な朝食を作った。
 バスタオルで頭を拭きながら、上半身裸の怜人が美晴の前に座る。
「美晴さんって呼ぶのは、他人行儀かな」
 怜人はトーストにバターを塗りながら言う。
「それなら怜人さんって呼ぶのも他人行儀?」
「呼び捨てでいいよ」
「私も呼び捨てでいいよ」
「じゃあ、美晴、コーヒーのお替り、もらっていい?」
 怜人は照れくさそうに言う。美晴はクスクス笑いながらコーヒーのお替りを入れる。
「慣れるまで、時間がかかりそうだなー」
「そうだね。みんなの前では、今まで通りにしといたほうがいいでしょ?」
「そうだなあ。いずれ公表しなきゃだけど、今は選挙法案でそれどころじゃないし。タイミングを見て、みんなには話そう」
「うん」
 
「いったん部屋に戻って、スーツを着ないと」
 怜人はバタバタと身支度を整えながら、玄関に向かう。
「今日の国会、質問に立つんでしょ?」
「うん。金曜に衆議院で選挙法案の投票があるから、とにかく、最後まで粘らないと」
 怜人は「それじゃ、今日も事務所で」と美晴を抱き寄せてキスをした。
「頑張って」
「うん。今ので元気出た」
 怜人はいたずらっぽい笑みを浮かべて出て行った。美晴は階段まで出て、怜人を見送る。
 怜人は車に乗り込んで、こちらを見上げた。美晴が手を振ると、怜人も手を振り返してくれる。

 ――これから、きっと、いろんな表情の怜人を見られるんだろうな。今まで見たことのない顔を、たくさん見られるんだ。

 去って行く車を見送りながら、美晴は幸せな余韻に浸っていた。

 部屋に戻り、 
 ――そういえば、昨日のデモの放水、テレビで大騒ぎになってるかも。
とテレビをつけた。
 だが、どこのテレビ局でも、昨日のデモの放水騒ぎのことは放送していない。芸能界の話題や天気予報など、どうでもいい話題ばかりを取り上げている。

 ――どういうこと?

 美晴は何度もチャンネルを変える。
 番組がスタートしてすぐに放送してしまったのかと、8時台のワイドショーまで待ったが、どこの局も取り上げなかった。
 それどころか、選挙法の改正についても触れていない。

 ――これは……マスコミは報道するつもりはないってことなんだ。

 思わず、鳥肌が立った。
 美晴は慌ててネットで検索する。さすがにネットでは、昨日の放水騒ぎの動画があちこちで投稿されていた。
 だが、それもすぐに国に削除されるのだろう。

 ――まさか、こんな法案が通るわけないって心のどこかで思ってたけど……本当に通るかもしれない。

 そのとき、スマホが震えた。画面を見ると、見知らぬ番号からだ。
 警戒しながら電話に出ると、「美晴さん? 唐沢です」と真希の声がした。どうやら公衆電話からかけてきているらしい。

「今晩、うちの病院で臓器移植の手術が行われることになって。植物状態の患者さんの臓器を使うことになりそうで……どうする? 美晴さん」
 美晴はしばらく迷ってから、「私、どうにかして病院に入り込めませんか?」と聞いた。
「うーん、さすがに、看護師になりすましても、ほかのスタッフにはバレるからねえ」
「真希さんは手術に立ち会うんですか?」
「うん、ベテランだからって頼まれた」
「じゃあ、手術室のやりとりをマイクで拾うのはムリですか? それなら、私も病院の外で聞けるし」
「うーん、身体検査されるわけじゃないから、できないことはないけど」
 真希は「しばらく考えさせて」と電話を切った。
 
 そのあと、1時間ぐらい経ってから、真希から「やってみる」と連絡があった。
 美晴は事務所でみんなとテレビを見ていた。怜人が質問に立つ。
 スーツを着ている怜人の姿を見ながら、どうしても夕べのできごとを思い出してしまう。

 ――あの腕に抱かれて、熱い吐息を重ねて……。

 思い出すだけで顔が赤くなり、美晴は平静を装うのに必死だった。
 陸が美晴の様子に気づき、不思議そうに見ている。美晴はムリに笑顔をつくって、「そろそろ、この着ぐるみ、洗濯しなきゃね」と陸の頭をなでた。

「昨日のデモで放水が行われたこと、今朝の新聞でも、テレビでもまったく報道されていません。まるで、官邸が報道規制でも敷いたかのようですが、総理、あの放水は総理が命じたんですか?」
 怜人はいつも直球で聞く。
 矢田部総理は苦笑する。その矢田部に官僚が耳打ちをしている様子が映る。
 矢田部はうすら笑いを浮かべながら演台の前に立つ。

「えー、まず、昨日のデモで機動隊がデモの参加者に放水したという話は聞いております。ですが、私がその報告を受けたのは深夜であり、夕べは外国から来た要人と会談しており、そのような指示をする時間はありませんでした。
 
 それと、官邸が報道規制を敷いたなんて、そのような事実はまったくございません。テレビ局や新聞社がなぜそのことを報じなかったかについては、それぞれの会社に問い合わせていただきたいなと、こう考えている次第です」

 怜人は素早く手を上げる。議長が「本郷怜人君」と指すと、演台に立つ。

「それでは、総理はその報告を聞いて、どのように思われたのでしょうか。日本ではデモの自由は認められています。そのデモを弾圧するような行為を機動隊がした。これは由々しき事態ですよね? ケガ人も出たんですよ? ケガをした方々には当然、国として何か補償をすべきだと思いますが、その点はどうなんでしょうか」

 再び、矢田部が官僚を見ると、官僚は困った様子で後ろを振り返っている。
 野党の席から、「どうしたー、答えられないのか?」とヤジが飛ぶ。
 議場に慌てて入って来た官僚らしき人物が、矢田部に紙を手渡した。矢田部はその紙を見ながら、棒読みする。

「えー、今確認したところ、昨日の放水で12人の参加者が病院に運ばれたという報告を受けております。ただ、いずれの人も軽傷で、入院することもなく、その日のうちに自宅に戻られたと。そういう報告になっております。
 
 それとですね、昨日のデモ隊との衝突で、機動隊側にも5人の負傷者が出ております。デモの参加者に突き飛ばされたり、棒で殴られて、いずれも軽症ではあるのですが、ケガ人は出ている、それは紛れもない事実です。もしケガをしたデモの参加者に何らかの補償をするのであれば、機動隊にケガを負わせた参加者も、機動隊に対して何らかの補償をするのが筋、ということになるのではないでしょうか」

「いや、国家が暴力を振るうのと、国民が抵抗するのとでは、まったく意味が違うでしょう!」
 怜人は思わず立ち上がって抗議する。
「本郷怜人君、発言は挙手をしてからにしてください」
 すかさず議長が釘を刺す。矢田部はうすら笑いを浮かべながら続ける。

「それとですね、日本にはデモの自由が認められている、確かにおっしゃる通り、憲法で認められています。だからこそ、放水したという話を聞いて、私はこう、胸がつぶれる思いがしました。二度とこんなことはあってはいけないと、警察庁には通達しております」

 今までも矢田部の国会での答弁を聞くたびにイラっとしてきたが、今日は苛立ちが倍増する。
 のらりくらりと逃げる矢田部を相手に、怜人はその後も鋭く追及を続けて、最後には「選挙法改正法案は通させませんから、絶対に」と締めくくった。
 事務所で聞いていたスタッフから、思わず拍手が起きる。
「怜人君、いつも以上に迫力がある感じ」
 千鶴も感心している。
「今の録画、さっそくネットでアップしないと。動画を拡散させなきゃね」

 ――そうだ。まだ闘いの最中だ。私も、自分にできることをしないと。

 美晴はゆずに今晩のことを話すと、「私も一緒に行く」と言い出した。