その夜、怜人は美晴をアパートまで送ってくれた。
 デモの参加者の何人かは病院に運ばれたが、ゆずによると、軽症の人ばかりだと言う。
 美晴は右の頬にシップを貼っていた。首はあざになっている程度で、幸い病院に行くほどのケガではなかった。

「美晴さんは、もうデモには参加しないほうがいいと思う」
 怜人は運転しながら言う。
「どうしてですか? 私は明日も行きます」
「さすがに、やめたほうがいいって」
「だって、やめたら、あいつらの」
「そうだよ、思う壺だ。だけど、オレはいいんだけど、美晴さんが襲われるのは耐えられないんだ。ずっとオレが見守ってることはできないし」

 その強い言葉に、美晴は何も言い返せない。
「オレが見てないところで、こんなことが起きるのは、絶対嫌なんだ……っ」
 いつの間にか、怜人が「オレ」と呼んでいることに気づいた。  

 ――どういう意味なんだろう。一緒に闘う同志が傷つけられるのは困るってこと? それとも……。ううん、ダメ、変に期待しちゃ。
 
 美晴の鼓動が高まる。怜人の顔をまともに見られない。
 やがて、美晴が住んでいるアパートについた。
「ここのアパートは、オートロックじゃなさそうだね」
「ここは安いから。今は無職だから、高い家賃を払えないし」
「そっか……」 

 怜人はハンドルに腕をついて、何か考え込んでいるようだ。
 美晴は車を降りる気になれず、しばらく二人とも、無言でいた。
 やがて、「それじゃ、送ってくれて、ありがとうございます」と美晴は静寂を断ちきるように言う。
 ドアハンドルに手をかけると、怜人が右腕をつかんだ。美晴は驚いて怜人を見る。

「一人に、させられない」

 絞り出すような、かすれた声。まっすぐな瞳。美晴は小さく息をのむ。

「……でも、優梨愛さんは」
「あいつとは、もう別れてるよ。帰国した直後に別れ話をして、それでも納得してもらえなかったんだけど、オレが若者を煽動してるって世間に責められたら、さっさと去っていったし」
 怜人は自虐的に「ハハ」と軽く笑った。

「誤解させるような態度を取ってたけど、この間の選挙では優梨愛の親御さんから資金を出してもらってたこともあって、なんか突き放せなくて……その辺もとことん話して、たぶん、分かってもらえたと思う」

 美晴は今、泣くのをこらえるのに必死だ。
 ずっと待っていた瞬間。怜人が自分を想ってくれていたなんて。

「こんなときにペラペラしゃべってるオレ、ダセーな」
 怜人はつぶやく。美晴は大きくかむりを振った。
 とたんに涙がこぼれる。
「泣いたら、傷に染みちゃうかも……」
 怜人は美晴の頬に、そっと触れる。
 そして、顔を近づける。美晴は目を閉じた。
 唇に怜人の体温が伝わる。熱い吐息も。

 いったん唇が離れる。目を開けると、目の前に怜人の顔。今まで見たことのない、照れくさいような、愛おしい者を見るような瞳。
 怜人は美晴を抱き寄せ、今度はさらに強く唇を重ねる。美晴は怜人の背中におずおずと手を回す。
 二人の吐息だけが聞こえる、静かな、静かな夜。
 

「いつから、私のことを想ってくれてたの?」
 美晴は怜人の腕の中で尋ねた。怜人の胸は汗ばみ、荒い息をしている。
 美晴の部屋のベッドの上。網戸越しに、心地よい風が吹き込んでくる。ひそやかな夜の香りが二人を包む。

「そりゃあ、もう、最初に会ったときから、かな」
「うそっ」
 美晴は思わず体を起こす。
「ホント。こんなことを言ったら怪しいけど、この人とはこれから何かあるなって、一目見てビビビッて来たっていうか」
「そんなそぶり、全然見えなかったけど……」
「そりゃ、必死で隠してたから。最初からグイグイ行ったら、引くでしょ?」
「そんなこと……」
 美晴は怜人の胸に頬を寄せる。

「あるかな」
「でしょ? それで、美晴さんは、いつからオレのことを想ってたのかな」
「さあ、いつからでしょ」
「そこ、誤魔化すかなあ」  
 怜人は美晴の顔を覗き込む。美晴は笑い声を立てた。
 二人は唇を重ねる。何度も、何度も。
「好きだ」
 囁くような声。
「私も」
 美晴もつぶやくように答える。首筋に怜人の唇が這う。美晴は思わず声を上げる。
 幸せなひととき。
 ずっとこのまま、二人きりでいたいと、美晴は怜人にしがみついた。