いったん勢いが削がれたかのように見えた法案改正の反対運動は、日が経つにつれて、また勢いづいていった。
「正社員だったのに、契約社員にしたいって突然言われて。40代以上の人を大勢雇わないといけないから、雇用調整だって会社に言われました」
「今日、店に行ったら、突然クビだって言われて……40代と50代の人を雇う代わりに、20代と30代をクビにするって……私、これからどうやって生活していけばいいんですか?」
 連日、事務所には窮状を訴える若者からの電話が殺到した。
 会社の寮を追い出された人も多く、住む場所を失って公園や駅に寝泊まりする若者が急増した。

 美晴たちは公園で炊き出しを行い、ホームレスの支援をしている団体と組んで宿泊施設を紹介していたが、とても対応しきれない。
 泊まる場所を提供してくれる人や、テントをネットで募ったところ、テントが事務所にたくさん届いた。
 千鶴とゆずと一緒に仕分け作業をしていると、「美晴さん、美晴さんと話したいって人から電話です」とスタッフに呼ばれた。
「もしもし? 影山です」
 電話に出ると、「……影山先生?」とかすれた声が聞こえた。
 自分を先生と呼ぶのは、今まで診てきた患者だろう。

「どちらさまですか?」
「私、秋川です……あの、AAテクノロジーズで人事をやっていた」
「ああ、秋川さん。覚えてますよ」
 受話器から聞こえる息遣いが荒い。
「どうしました? 苦しそうですけど」
「死のうと思って……」
「え?」
「クビを切られて。寮も出なきゃいけなくて。でも、実家に帰れない……もう、北海道までの飛行機代が……今、薬を飲んで……」
「秋川さん、今、どこにいるの?」
「寮……」
 それきり、芽以は何度呼びかけても返答しなくなった。
 美晴は消防署に電話して、寮に救急車を向かわせた。千鶴たちに事情を話して、事務所を飛び出す。

 ――最後に私に電話をかけて来たってことは、死にたくないってことだ。

 タクシーに飛び乗り、美晴は何度も芽以のスマホに電話をかける。だが、出る気配はない。

 ――死なせない、今度こそ。

 タクシーが寮に着くと、ちょうどタンカが救急車に運び込まれるところだった。人だかりができている。
「あの、私、さっき救急車を呼んだ者です!」
 救急隊員に声をかけると、「ああ、あなたが」とベテランの隊員が手招きした。
「彼女の容態は?」
「あなたの通報が早かったから、一命はとりとめたと思います。これから病院に運ぶところです」
「一緒に行っていいですか?」
「ほかに行く人はいないみたいだし、いいですよ」
 横たわる芽以は苦しそうに目を閉じている。

「今日はこれで若者の自殺は5件目ですよ」
 救急隊員はポツリと言う。
 美晴は思わず隊員の顔を見た。
「今のところ、助かったのは彼女だけです」
 美晴は天を仰いだ。

 ――なんで、なんでこんなことに。

 ぎゅっとスカートを握りしめる。 

 ――決めた。私は、最後まで戦う。何があっても、どんなにあいつらに嫌がらせをされても、絶対に屈しない。絶対に。

 救急車が病院に着いた。
 降りるときに、「あの、あなた、革命のアイドルと呼ばれている方ですよね?」とベテランの隊員に声をかけられた。
「ハイ、まあ」
「頑張ってください。僕は、あなたたちのことを応援してます」
 右手を差し出されて、美晴は握手に応じた。 
「もう、毎日、若者を病院に運ぶのはつらくて……この世の中を何とかしてください。変えてください」
 隊員は涙ぐんでいる。
「……ハイ」
 美晴はペコリと頭を下げる。

 その日の夕方、芽以は目を覚ました。
「……ここは?」
「病院。自分が何をしたか、覚えてる?」
「ああ……」
 つらそうに目を閉じる。 
「北海道の実家に連絡して、迎えに来てもらうのは、どう?」
 芽以は力なく首を振る。
「親に心配かけたくなくて……うちは農家なんだけど、経営が厳しくて……農業なんてやるもんじゃないってずっと言われてて。だから、東京に来たのに。こんなことになって」
 涙が零れ落ちる。美晴は芽以の手を握った。

「そう。ご両親を大切に思ってるのね」
「私、今まではずっと自分は勝ち組だって思ってて。クビを切られる人をバカにしてて。高木君が飛び降りた時も、全然同情しなかったし。でも、自分もあっけなくクビを切られちゃって、目の前が真っ暗になっちゃって」
 芽以は嗚咽を漏らす。美晴はハンカチで流れ落ちる涙を拭いてあげた。
「こんなことなら、社長の愛人になっておけばよかった」
「え?」
 美晴は手を止めた。

「社長から言われてたんです。俺の愛人になったら、一生面倒見てあげるって」
「ホントにそれを信じてるの? あの社長が一生面倒見てくれるって思う?」
「ううん、思わない」
 芽以は首を振る。
「でも、クビにはならなかったかもしれない。だって、愛人になった子は、クビを切られずに済んだから」
 美晴は怒りが込み上げてきた。目の前に岩崎がいたら、回し蹴りでもしていたかもしれない。

 ――あのゲス男。そうやって若い子を自分のものにして。やりたい放題じゃない。

 芽以はひとしきり泣いたら落ち着いたのか、再び眠りについた。その頬には涙の跡。

 ――愛人になってたらなんて、そこまで追い込まれてたってことだよね。幸せな若者は、もういないんだろうか。

 美晴はやりきれない想いでいっぱいになった。

 結局、病院から芽以の実家に連絡が行った。母親は「帰って来なさい。こっちでゆっくりすればいい」と電話口で泣いた。芽以も泣きじゃくる。
 翌日、芽以は退院したその足で北海道に帰ることになった。
 美晴は空港まで送る。
「影山先生、飛行機代は、近いうちに必ず返しますから」
「ううん。気にしないで。いつでもいいから」
 芽以の眼は泣きすぎて腫れている。

「影山先生、お願いです。この国を変えてください。私、影山先生ならできるって思います。私みたいな若者が、これ以上、増えないように。今の政権を倒してください。北海道でも、私、仲間を募りますから」
「ありがとう。でも、ムリしないで、今はゆっくり休んで」
 搭乗口に消えていく芽以は、何度もこちらを振り返って頭を下げる。美晴はそのつど、大きく手を振った。

 ――どうして。どうして、世の中は正しくならないんだろう。みんなが幸せになる方法だって、きっとあるはずなのに。なんで権力者は正しい道を選ばないんだろう。まるで、大勢が苦しむ道こそ、権力者の特権だって思ってるみたいに。