その日は埼玉のスーパーの駐車場で演説をすることになっていた。支援者が自分の経営するスーパーの駐車場を貸してくれることになったのだ。
 駅から歩いて20分ぐらいのところにあるので、事前に告知してもあまり人が集まらないかと思っていたが、開始30分前にはすでに人が集まり始めていた。
「こんなに、僕らの話を聞きたいって思っている人がいるんだな」
 怜人がつぶやく。
 そうだ。この間の演説会で警察に捕まった観客がいたことは、みな動画で見ているだろう。それでも演説を聞こうとしているのだ。

 ――それだけ、今の世の中を変えたいって熱望している人がいるってことなんだ。

 美晴は身が引き締まる思いになった。
 美晴はふと、片田に引き会わせた女性を思い出した。彼女もお金のために、したくもないことを引き受けたのだろう。そこまで生活に困っているということだ。

 ――彼女を責められない。きっとあの人も、必死で生きようとしてるんだから。

 その日の演説会は熱狂した。駐車場に入りきれないほどの人が詰めかけ、スーパーに買い物に来た人は何事かと驚いている。
 美晴がステージに上がると、大きな拍手と歓声が夜空に響く。
「今日は警官が見守ってくれていないので、ちょっと物足りない感じですね」
 美晴の自虐ネタに笑い声が起きる。
 企業でカウンセリングをしていたときのことを話していると、パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。それも何台も。

 ――どこかで事件が起きたのかな。

 そう思いながら話し続けていると、パトカーは駐車場の前で止まった。
「おいっ、こんなところに集まっていたら、邪魔だ! 今すぐ解散しろ!」
 パトカーから降りてきた警官が、観客に向かって怒鳴り散らす。観客からはブーイングが起きた。怜人が慌ててステージに上がり、マイクを握る。
「どういうことですか? 僕ら、ちゃんとこのスーパーには許可をもらってやってますよ」
「そうだ、そうだ」と観客も声を上げる。
「スーパーは私有地でも、歩道は公道だから、警察の許可が必要になるんだ。許可はもらっているのか?」
 警官の一人が拡声器で応じる。

「じゃあ、スーパーの敷地内だったらいいってことか?」
「みんな、詰めろ詰めろ!」 
 道にあふれていた聴衆がフェンスを乗り越えて駐車場に次々と入る。警察もそこまでは止められない。
「その通り。皆さん、もっと詰めあって全員が敷地に入れるようにご協力ください!」
 怜人が呼びかけると、「屋上に行ってもいいよ!」とスーパーの経営者が声をかけた。大勢がスーパーに走って行く。
 さすがに警官は何も注意できず、拡声器を持ったまま立ち尽くしている。

「皆さん、演説を続けてもいいですか?」
 怜人が問いかけると、数百人の観客は一斉に「おー!」「いえーい」「待ってましたー」と沸き立つ。その圧倒的な声量に地響きが起きる。美晴は思わず鳥肌が立った。

 ――みんな、そうまでして、私たちの話を聞きたいんだ。

 高揚している観客の表情を見ているうちに、美晴は泣けてきた。

 ――変えられる気がする。この世の中を。絶望的なこの国を。私たちの手で。


 翌日、前の晩の余韻がまだ体に残ったまま、美晴は事務所に出向いた。
「えっ、どういうことですか?」
 電話に出ていた千鶴が緊迫した声を上げている。
「ハイ、ハイ……ええ、分かりました。至急、怜人さんに連絡します」
 電話を切り、美晴のほうを向く。
「昨日、駐車場を貸してくれたスーパーの方が、朝から保健所が立ち入って大変なことになってるって、電話してきて」
「えっ、どういうことですか?」
「あの店で食中毒が出たって、保健所に通報があったって……そんな話が広まったら、スーパーにお客さんが来なくなるって、すごくうろたえていて」

 美晴の背中に冷たいものが走った。
「もしかして、それって、警察が手を回したってことですか?」
「それか、民自党がってことでしょうね。とにかく、怜人さんに連絡しないと」
 美晴は足先が冷たくなっていくのを感じた。
 自分が対峙しているのは、想像以上に巨大な権力なのだと、初めて肌身で感じたのだ。
 そのとき、スマホが鳴った。見ると、知らない電話番号だ。

「もしもし?」
「ああ、こんにちは、影山さん。片田です。今、ちょっとお時間よろしいですか?」
 美晴は息をのんだ。慌てて事務所を出る。
「この番号をどこで知ったんですか?」
「まあ、それはいいじゃないですか」
 これだけの権力を持っているなら、個人の番号を調べるなど、朝飯前だろう。

「先日の件、考えていただけましたか?」
 片田は穏やかな声音で話す。
「あの話はお断りしたはずです」
「そうおっしゃらずに。もう少し詳しいお話をさせていただきたいんですが」
「いえ、結構です」
 片田はフウ、と小さく息をついた。
「いいですか。前回警察に捕まった人を釈放したように、毎回助けてあげられるわけではないんですよ。自分の行動について、よく考えたほうがいい」
 美晴は言葉を失う。

 ――この人が手を回したんだ。

「……ずいぶん、卑怯なことをしますね」
 ようやく絞りだした声は震えていた。
「心外ですね。何をもって卑怯とおっしゃっているのか」
「昨日のスーパーで食中毒が起きたって、保健所を入らせたんでしょ? そちらで仕組んだんじゃないんですか?」
「人聞きが悪い。食中毒を起こせるわけじゃないし。たまたま偶然が重なっただけでしょう。私は、保健所に伝手があるから、検査の手を緩めるようにお願いするぐらいのことはできますよ、って伝えたかっただけです。まあ、それも確実に助けてあげられるかどうかは、分かりませんがね」 

 美晴は何か言いたくても、どう返せばいいのか分からない。
「それで、一度お時間を取っていただけますか?」

 ――どうしよう。

 スマホを握りしめる。
 昨日のスーパーの経営者を巻き込むわけにはいかない。だが、片田と会ったら、この間のようにタダでは帰してはもらえないだろう。
 怜人の「あの人は怖い人だ」という言葉が頭をよぎる。
「スーパーの人を助けてもらえるんですか?」
「まあ、それは、そちらの態度次第でしょうね」
「それじゃまるで、脅迫じゃないですか」
「またまた、人聞きが悪い。こちらは」

 突然、スマホを取り上げられた。
「もしもし、本郷です」
 怜人だった。

「あなた、片田さんでしょ? 僕らに協力してくれた人を窮地に追い込んで、ずいぶんひどいことをしてくれますね。民自党から見たら、僕らなんてちっぽけな存在でしょ? なんで、そこまでするんですか?」
 怜人の眼は真っ赤に充血している。相当怒っているのだろう。

「今更、しらを切らないでくださいよ。それと、美晴さんにはもう連絡をしないでください。僕らの大切な仲間なんで。僕は美晴さんを手放すつもりはないし、民自党に入る気もありませんから」
 それだけ言うと、怜人は電話を切ってしまった。
「美晴さん、こんなことに巻き込んでしまって申し訳ない」
 怜人は頭を下げる。
「いえ、そんな、悪いのは向こうだし」
「僕、今から昨日のスーパーに行って来ます。どんな状況なのか、行ってみないと」
「じゃあ、私も」

「いや、美晴さんは、ほかの支援者から連絡が来たら対応してもらえませんか。ほかにも何人か、場所を提供するって申し出てくれている人がいるんだけど、こんな状況じゃ、お願いできないし。しばらく様子を見たいって伝えてくれませんか」
「分かりました」
 怜人はタクシーをつかまえて、あっという間に去っていった。

 ――美晴さんを手放すつもりはない。

 怜人の言葉を反芻する。

 ――バカだな、私。こんなことで喜んでる場合じゃないのに。

 事務所に戻ろうとすると、再び電話が鳴った。さっきと同じ番号だ。
 電話に出ると、片田が「どうも」と短く言う。
「あの、もう、電話はしないでもらえませんか?」
「ええ、こちらからすることは、もうありません。ただ、最後に一つだけお伝えしておきたくてね。私の申し出を断ったら、これからあなたたちが痛い目にあいますよ」
「どういうことですか?」
「さあ、そこまで教える気はありません」
 冷たく言い放つと、電話は切れた。
 美晴は怜人に連絡しようかと思ったが、やめておいた。

 ――今は支援者さんのことで頭がいっぱいだもんね。今度会ったときにでも話そう。