翌日から、予定していた演説はすべてキャンセルになってしまった。
 自治体側が騒ぎになるのを嫌がり、場所を貸せないと言ってきたのだ。怜人は昨日捕まった人たちを釈放させるために、弁護士と一緒に青梅に向かった。
 美晴は、事務所で千鶴やゆずと一緒に対応に追われていた。あちこちの支援者から「うちの工場で集会してもいいですよ」「うちのスーパーの駐車場でよければ」と場所を提供したいとの申し出があったのだ。
 美晴が電話に出ると、「もしかして、美晴さん⁉ 昨日の動画、見ました! ケガしてる女性をかばって、感動しました」と言われた。自分の身の上を話し出す人もいた。
 自分の行動がわずかでも人の心を動かしてる。そのことに美晴は励まされた。

 夕方ごろ、「あのー……」と、一人の女性が事務所に入ってきた。
「ハイ、なんでしょう?」
 千鶴が用件を聞きに行くと、「影山さんにご相談したいことがあって……」とか細い声で女性は言う。
 大きめの眼鏡をかけ、長い髪は顔を隠そうとしているかのようだ。着ている洋服はかなりくたびれていて、生活が苦しい様子がにじみ出ている。
「どういったご相談でしょう?」
 美晴は、事務所の隅のソファに女性を誘導した。
「あの……あまり他の人には聞かれたくなくて」
 女性は周りのスタッフを気にかけているので、「それじゃ、どこかカフェで話しましょうか」と提案した。

 美晴は事務所の近くのカフェに女性を案内した。
「怜人さんの支援者の方ですか?」
「はい……」
「もしかして、動画を見てくださったとか?」
「ハイ、まあ……」
 最初は緊張しているのかと思っていたが、受け答えがあまりにもあいまいだ。美晴は怪訝に思いながらも、女性と隅の席に座った。

 注文しようとすると、女性はやけにソワソワしている。
「周りに人はいないから、大丈夫だと思いますよ」
「はあ……」
 そのとき、一人の男がカフェに入ってきた。女性はその男を見て、「あっ」と腰を浮かした。
「お知り合いですか?」
 女性は答えずに、足早に男のところに向かった。二人は短く会話をし、女性は逃げるように店を出て行ってしまった。
 男がこちらに来る。

 ――何、なんなの?

 美晴は嫌な予感がして、立ち上がった。
「まあまあ、影山さん、どうぞお座りください」
 男はにこやかに美晴の前に立つ。

 ――この人、どこかで見たことがある……。

「あっ」
 美晴は声を上げた。
 その男は、民自党の官房長官の片田義則だった。片田は美晴の前の席に座る。
 窓の外では、先ほどの女性がスーツ姿の男と話しながら、封筒らしきものを受け取っている。女性は何度も頭を下げて去って行った。

「どういうことですか?」
「まあ、とりあえず、何か注文しましょうか。コーヒーでよろしいですか?」
 片田は笑みを崩さない。ウェイターにコーヒーを2つ注文した。
「こんなだまし討ちのような方法をとって呼び出して、申し訳ない」
 片田は深々と頭を下げた。
「さっきの女性は何ですか?」
「ああ、僕も知らない人です」
「知らないって」
「あなたを呼び出すために、手伝ってもらったんですよ」
「もしかして、お金が困ってる人に頼んだんですか?」
「まあ、いいじゃないですか。あの人にとって、ちょっとした収入になったんですから」
 片田は悪びれずにおしぼりで手を拭く。

「私、帰ります」
 美晴が立ち上がると、「まあまあ、落ち着いて。とりあえず、話を聞くだけ聞いてもらえませんか?」と、片田は穏やかな声で言う。
 テレビで記者会見をしているときとは声音が違う。自分を取り込もうとしているのだな、と美晴は悟った。
「話なら、怜人さんと一緒に聞きます」
 片田は苦笑して、「本郷君は僕と冷静に話せないから、あなたと直接話すことにしたんですよ」と言う。
「昨日の演説で警察につかまった支援者がいるでしょう? 私なら、その人たちを釈放できますよ」
「どうしてそれを?」
「動画であれだけ拡散されてたら、イヤでも情報は耳に入りますよ。それで、どうします?」
 片田はスマホを取り出した。

 ――そんなの、実際に指示を出すかどうか、分からないじゃない。

 美晴は何も答えない。その様子を見て、片田はおもむろに、どこかに電話をかけた。
「もしもし……ああ、ハイ、どうも。例の件、演説で捕まってる支援者が12人いたでしょ? その人たちをすぐに釈放してもらえませんか? ええ、助かります。お礼は改めて」
 短く指示を出すと、電話を切った。

「まあ、すぐに本郷君から電話がかかってくるでしょ。とりあえず、それまでの間、私の話を聞いてもらえませんか」
 美晴はしぶしぶ腰を下ろした。
 ちょうどコーヒーが運ばれてきて、片田は「どうぞ」と美晴に飲むように促して、自分もブラックのまま飲んだ。

「単刀直入に言います。今度の選挙で民自党から立候補しませんか?」
「はい?」
 美晴は思いっきり眉根にしわを寄せてしまった。
「まあ、不審に思うのは分かります。でも、あなたの演説を聞いていて、ひたむきに国を変えたいって思っているその姿に心動かされましてね。うちの若手議員にもあなたの爪の垢を煎じて飲んでもらいたいもんですよ。 

 長く与党でいたから、すっかり緊張感がなくなって、政策を何も考えない議員が大勢いますからね。恥ずかしながら、高給をもらうことで満足している議員が多いのは、否定できません。

 本郷君も言っているように、日本の景気はコロナショックの後にどんどん悪化していて、何とか打開策を考えなくてはならない。でも、官僚は自分たちの利権を絶対手放そうとしないんですよ。そこで、本郷君とあなたがうちの党に入れば、風穴を開けられるんじゃないかと思いましてね」

「怜人さんもですか?」
「ええ。あなたと本郷君の二人で、多くの若者の心をつかんでいるでしょう。これからは、あなたたちのような若者が活躍する時代にならないと、日本は国際社会からますます置いて行かれるだけですからね」

 ――よく言う。国を本気で変えたいなら、とっくに変えてるでしょうに。今の政権になって、もう8年になるじゃない。

 美晴はコーヒーを飲んで気持ちを落ち着かせた。

 ――官房長官レベルになったら人を取り込むなんて簡単だろうから、気をつけないと。
  
 そのとき、美晴のスマホが鳴った。怜人からだ。
「もしもし」
「あ、美晴さん? 昨日警察に捕まった人たちが、今釈放になりました!」
 怜人の声が弾んでいる。美晴は思わず片田の顔を見た。
「そうですか、よかったです。ええ、ええ。はい、分かりました。それじゃ、お疲れさまでした」
 美晴は電話を切る。
「釈放していただいて、ありがとうございます」
 片田に頭を下げる。
「いえいえ、これぐらいのこと」
「でも、私は民自党に入ろうとは思いません。怜人さんもそうだと思います。せっかく釈放していただいたのに、申し訳ないですけど」

「まあ、今すぐに決めていただきたいとは思っていませんから。とりあえず、こちらはそういう気持ちがあると伝えるために、今日は来たようなもんです」
「でも、なんで怜人さんと話さないんですか? 私よりも先に話すべきなんじゃないですか?」
「本郷君には、すでに打診してますよ。でも、『総理大臣になれるのなら移ります』なんて真顔で言われたらね」
 片田は苦笑しながら伝票をつかんで立ち上がった。
「私、怜人さんは総理大臣になれると思ってます」
 美晴の言葉に、片田は「まあ、なれるでしょう。でも、それは今ではない」と抑揚のない声で言った。

 美晴は片田の後姿を見送った。
 ――つまり、外堀から埋めようってことか。私を落としたら、怜人さんの気持ちも変わるんじゃないかって考えてるってこと?
 小さくため息をつく。
「変なことに巻き込まれちゃったな」


 怜人が事務所に戻って来てから、片田に会ったことを話した。怜人はみるみる顔色を変える。
「それで? 美晴さん、片田さんに何て答えたの?」
「私は民自党に入るつもりはありません、って。怜人さんもそのつもりだと思うって」
「それならよかった」
 怜人は安堵したように息をついた。

「確かに、急に釈放になったのはおかしいって思ってたけど、片田さんが動いてたなんてね。あの人はテレビの記者会見では、いつもニコリともしないでしょ。だけど普段会うときはにこやかだから、余計にいい人そうに見えるんだよね。本当は怖い人だから、また何か言ってきても、聞き流してほしい」
 美晴は「もちろん、そのつもりです」とうなずいた。
「あの、片田さんは、怜人さんにも打診したって」
「されました。でも、民自党に入りたいなら、最初から入ってるし。民自党には任せておけないから野党に入ったわけで。政権交代しない限り、この国は変えられないって分かってるから、自分の党を立ち上げたんだし」
「そうですよね」
「でも、話してくれてよかった。ありがとう」
 怜人は微笑む。
「この話は、ほかの人には聞かせないほうがいいかもしれない。二人だけの秘密ってことでお願いします」
 
 ――二人だけの秘密。

 ときめいている場合ではないのに、美晴はその言葉を何度も心の中で繰り返した。