「あれは、誰かに雇われたんじゃないかな」
 白石が運転しながら言った。
 結局、その日は千鶴の家に泊めてもらうことになった。陸は美晴の隣で嬉しそうにしている。
「俺らを妨害するために民自党が雇ってやらせたんじゃないかって思うんだけど」
「とにかく、美晴さんの演説の時は、危険が及ばないように何か考えないとね」
 白石と怜人が前の座席で会話しているのを、美晴は身を乗り出して聞いていた。

「美晴さん、そのワンピース、弁償させてください」
 怜人の言葉に、「いえ、いいです、いいです。随分前に買ったものだし」と美晴は断った。
「でも、演説中に危険な目に遭ったんですから、事務所で弁償しますよ」
「いえいえ、ホント、大丈夫ですから」
「美晴ちゃん、そのワンピース似合ってるから、もったいないよね」
 白石の一言に、美晴はイラッとした。
「お前、よくそんなことをサラッと言えるよなあ」
 怜人は呆れたように言う。
「お前だって、優梨愛ちゃんにはそういうことを言ってるくせに」
 ――ゆりあちゃん?
 美晴は白石の言葉に、一瞬息を止めた。
 その後は、明日からの演説をどうしようかという話題になり、それきり、その名前は出てこなかった。


 気がつくと、陸は寝息を立てていた。その隣で聞き耳を立てていた千鶴もすっかり眠っている。
 美晴は『モモ』を閉じた。
 最近、陸に読み聞かせをしてあげている本だ。陸は気に入っているようで、千鶴のところに来た時は、美晴に「読んで」と本を差し出してせがむのだ。
 美晴も明かりを消して布団に横たわった。
 だが、どうしても眠れない。白石が話していた女性が誰なのかをスマホで検索してしまった。
 怜人にはアメリカで知り合った婚約者がいると、ウィキペディアには出ている。

 ――ウィキペディアの情報を信じるのも何だけど。恋人がいないなんてこと、あり得ないよね。
 美晴はため息をついてスマホを消した。
 ――私、何してるんだろ。恋愛をしたくて、この活動に参加したわけじゃないのに。自分がすべきことに集中しなきゃ。


 次の日から、ステージと客席との距離を取ることになった。
 ネットではすでに昨日のことは話題になっていて、「美晴さん、大丈夫?」「頑張って」と大勢の聴衆に声をかけられた。
 怜人から「しばらく演説をやめてもいいんだけど」と言われたが、美晴は続けることにした。
 ――今の私にできることは、これしかないんだ。

「美晴ちゃん、今日は濡れないのお? 昨日は色っぽかったよ」
 美晴がステージに上がると、いきなり野次が飛ぶ。
「いっそ水着でやればあ?」
「いいね、それ。革命のアイドルだしな」
 見ると、4、5人の中年男性がニヤニヤしながら野次を飛ばしている。白石が注意しているが、意に介さない。

 ――誰かに雇われてるって、本当かも。
 美晴は大きく息を吸い込んだ。留学している時は、道を歩いているとよく差別的な言葉を投げかけられた。
 ――こんなのを気にしてたら、何もできない。

「皆さん、こんにちは。今そこの方達にご紹介していただいたように、革命のアイドルの影山美晴です。もう自分でアイドルって言ってしまうことにしました。昨日はビールをかけられましたが、いきなり今日は野次を浴びせかけられました。これがアイドルの宿命なんだなって、今、噛みしめてます」
 あちこちで笑いが起きた。
 よし。これなら場の雰囲気を悪くしないで済む。美晴が安堵しかけた時。

「美晴ちゃーん。患者を見殺しにしたって本当?」
 中年男性のグループが野次を飛ばした。美晴は固まった。
「お前のせいで植物状態になってる患者がいるんだろ? 人殺しいっ」
「こんなところで演説してていいのかよ?」
 観客がざわつく。美晴はとっさに怜人を見た。ステージの袖で怜人は戸惑った表情を浮かべている。自分がステージに出て行くべきかどうかで迷っているのだろう。
 その様子を見て、却って美晴の心は決まった。

 ――これは、私の問題だ。私が自分で何とかしないと。

 大きく息を吸い込む。
「今、患者さんを見殺しにしたんじゃないかって言われましたが……それは本当の話です」
 袖で怜人が息を呑むのが伝わってきた。観客がシンと静まり返る。

「以前、私はある病院でカウンセリングをしていました。そこに来ていた10代の女性がいて、その患者さんはずっとリストカットをして、睡眠薬を服用していました。でも、この先もずっとリストカットをして、薬を飲み続けて生きていくのはツラすぎますよね。
 
 だから、私は根本的な治療をしたくて、彼女と何カ月も対話しました。それで、薬の量を少しずつ減らしていったんです。治療は、一度はうまくいったんです。薬を飲まない日が続いてたんですけど、ある時、親御さんと激しく衝突したらしくて、彼女はすごく動揺してました。それで、薬をほしいって言われて……」

 声が震えてきた。気づくと、マイクを持つ手も震えている。
 こんなことを大勢の前で話すのは怖い。話し終わったら怒号が飛び交うかもしれない。
 それでも、最後まで話すしかない。そうでなければ、自分がしたことと向き合えないのだから。

「私は拒みました。ここで薬を処方したら、また薬漬けになるだろうって思ったからです。彼女を何とか説得して、分かってもらえたと思いました。でも、彼女は闇サイトで安価な睡眠薬を手に入れて、飲んでしまったんです。
 
 それは怪しげな薬で、彼女は意識を失って病院に運び込まれました。吐しゃ物が喉に詰まって、長時間酸欠状態になってたみたいで……それで、植物状態になったんです。今も彼女は入院しています。意識はあって、私が手を握ったら、握り返してくれます。でも、元の生活には、たぶん戻れなくて」

 美晴はそこで言葉を切り、泣きそうになるのを必死でこらえた。
 ――泣いちゃダメだ。私は被害者じゃないんだから。

「周りの人からは、なぜ薬を処方しなかったんだって言われました。正規の薬を処方していれば、彼女は怪しい薬には手を出さなかったのにって。たとえ薬漬けになったとしても、また治療すればいいじゃないかって。
 
 だから、私がその患者さんを見殺しにしたってことは事実です。私は彼女を救えなかった。彼女と、彼女のご家族の人生をめちゃくちゃにしてしまった。だから、こんな私が、ここで話すべきではないのかもしれません」

 そこまで話して、観客を見渡した。暗くなってきたので、みんながどんな表情で聞いているのかは分からない。
「そうだそうだ、帰れ帰れ!」
「やっぱり人殺しじゃねえかよ」
 さっきまで野次を飛ばしていた男たちが、また罵声を浴びせかける。
 すると、「うるさい!」「お前ら、静かにしろ!」と、まわりの観客がその集団を制する。
「美晴ちゃんは悪くないだろ!」
「全然、人殺しじゃないじゃない!」
「お前らが帰れ!」
 その勢いに、野次を飛ばしていた集団は気圧されたようだ。
「続けて、美晴ちゃん!」
「頑張れ。美晴ちゃん」
 観客は次々に声をかけてくれる。