「美晴ちゃん、今日のワンピース、いいね」
 白石がいきなり耳元でささやいてきた。
「今日は演説が終わってから早く帰れそうなんだけど……どこかに飲みに行かない?」
 美晴は一呼吸おいてから、「千鶴さん達と約束があるんで。ごめんなさい」と微笑んだ。
 白石はみるみる不機嫌な表情になっていく。
 元々、怜人の支援者だった白石は、秘書になってから怜人と一緒に政策を練り、隈なくサポートをする有能な右腕だ。
 だが、どこか高飛車な雰囲気が漂い、スタッフには上から目線であれこれ命令をしている。演説を見に集まった支援者を邪険に扱うこともあり、怜人から時折注意されていた。

 美晴は、白石はスタッフの女性の何人かに手を出していることに気づいていた。どうやら、ゆずもその一人のようで、ゆずが白石に送る視線は、単なるファン以上の熱がこもっている。

 ――ゴタゴタに巻き込まれるなんて、イヤだし。
 
 美晴は白石とは距離を取るようにしていた。
 白石は怒ったような表情で音響を確認しに行った。
 ふと背中に視線を感じて振り向くと、ゆずが険しい表情でこちらを見ていた。美晴はとっさに、笑顔で手を振る。
 ゆずも一瞬顔をゆがめてから、笑顔を繕って手を振った。 

 ――私、白石さんのことは何とも思ってないからね。誤解しないでね、ゆずちゃん。
 心の中で訴えかける。

「――お待たせいたしました。本郷怜人の演説を始めさせていただきます」
 白石はステージに上がり、簡単に説明をした。
「それでは、革命のアイドル、影山美晴さんの登場です!」

 ――革命のアイドルって呼ばないでって言ったのに。  

 美晴は苦笑しながらステージに登る。今日の観客はざっと500人ぐらいか。平日の夕方の割には多い。夜になったら、もっと増えるだろう。

 美晴はマイクを握り、「皆さん、こんにちは! 革命のアイドルなんて紹介されましたが、もう30歳なので、アイドルって呼ぶにはちょっと賞味期限が過ぎてると思います」と言った。観客はどっとウケる。
 熱心な怜人の支援者は、毎回のように演説を最前列で聞いているので、顔ぶれを美晴も覚えてしまった。

「実は、ここで演説をするようになって、友達の何人かが離れていきました。そういう政治的な活動をするのって、ヤバイよって言われたんです。『何がヤバイの?』って聞いたら、次の仕事が見つからないよ、って。政府から目をつけられるって。でも、『そうやって怯えて何もしないで何も考えないで生きてるほうがヤバくない?』って言い返したら、キレられました。ヤバいぐらいに」
 あちこちで笑いが起きる。

「私、ここに最初に立った時に言いました。無関心をやめるって。無関心が一番怖いんです。自分が知らない間に、国が国民に不利なことを決めてるのに、それに対して何も感じなくなったら、完全に国に洗脳されてるようなもんです。その結果、企業で安い賃金でこき使われるようになる。それは自分が選んでいるようなもので」
「やめろ、やめろ、うっせーぞ!」
 突然、怒鳴り声と共に、客席からビール缶が弧を描いて飛んで来た。美晴はよけきれず、胸元に缶が当たった。中にはビールが入っていて、美晴の青いワンピースを濡らした。
「おいっ、今投げたのは誰だ⁉」
 怜人がステージを駆け上り、美晴の前に立ちふさがる。
「女性に暴力振るうなんて、卑怯じゃないか!」
 白石が男に向かって走っていく姿が見えた。男は逃げようとしたが、周りの人達に取り押さえられる。

「おいっ、警官、こいつをつかまえろよ!」
「この人、傷害罪じゃないの?」
 観客が演説を遠巻きに見ている警官たちに呼びかけても、警官はへらへら笑っているだけで動こうとしない。
「美晴さん、大丈夫?」 
 怜人は心配そうに振り返った。
「ええ、何とか」
「ステージから降りたほうがいい」
 怜人は美晴の腕をつかむと、階段のところまで引っ張っていった。
「美晴さんを頼む」
 千鶴に頼むと、自分は戻ってマイクを握る。

「皆さん、落ち着いて! 落ち着いてください」
 怜人は必死に呼びかける。
「美晴さん、大丈夫⁉」
 ゆずと陸が駆け寄って来た。
「うん、ビールがかかっただけだから」
「きれいなワンピースだったのに。とれるかしら」
 千鶴は濡れたおしぼりで懸命にふき取ってくれる。

 ゆずは、「こんなところを撮影しないで!」と、まわりに集まって来た見物人から見えないようにかばってくれた。陸はうるんだ目で美晴を見ている。
 こんな時だが、美晴はこんなにも自分を守ってくれる人たちがいることに、泣きそうになっていた。
 3人に囲まれるようにして、ワゴン車に乗り込んだ。

「ちょっと、今ビールを投げた、あなた!」
 怜人の声が響く。
「あなた、どうして、こんなことをしたんですか? 僕に何か不満があるんですか? だったら、直接僕に文句を言ってくださいよ」
 怜人はそばにいたスタッフに、「あの人にマイクを持って行って」と指示を出す。美晴は、怜人は何をするのだろうと、ワゴン車のサンルーフを開けて顔を出した。
 白石たちに身体をつかまれている男は、マイクを向けられて怪訝な顔をしている。

「僕は、ぜひあなたの話を聞きたい。なんで、美晴さんにビール缶を投げつけたんですか?」
「んなの、どうだっていいだろ⁉」
 男は吐き捨てるように言う。
「でも、何か理由があるから、人にビールを投げつけたんですよね」
「っせえな、ガーガーピーピーうるさいから、投げただけだよっ」
「僕は暴力は許せません。だけど、何も理由もなく暴力を振るう人はいない。その理由を聞かせてもらえませんか」

 ――暴力を振るった相手とも、対話しようとしてるんだ。

 美晴はこぶしをギュッと握りしめた。広場に集まっている観衆も、そのやりとりを見守っている。

「なんでお前にそんなのを教えなきゃいけないんだよ」
「じゃあ、美晴さんだって、なんであなたにビールを投げられなきゃいけないんだよって話です」
 軽い笑いが起きる。
「っさいな、むしゃくしゃしてたから、投げただけだよ。理由なんてねえよ」
「むしゃくしゃしてるってのは、立派な理由ですよ。どうしてむしゃくしゃしてたんですか?」
「どうしてって、そりゃ……」
 男は言いよどんだ。
「偉そうにあれこれ言ってるのが許せなくて」
「偉そうにって言うのは、どんなところですか?」
「そりゃあ……」
 男は言葉に詰まる。
「むしゃくしゃしてるのは、オレだって同じだよっ」
「そうそう、私も!」
 あちこちから声がかかる。

「いいですね、むしゃくしゃしてる人が、ストレスを発散するために、僕らの話を聞きに来てる。それで僕らに罵声を浴びせてスッとするんなら、僕は全然構いませんよ。ストレス解消に僕らにヤジを飛ばせばいい。でも、暴力だけはやめてほしい。とくに女性には。だって、男のほうが力は強いんだから、卑怯でしょ? そう思いませんか?」
「そうだ、そうだ」と観客が拍手する。
「美晴さん、彼をどうしますか? 警察に引き渡しますか?」
 ステージから怜人は美晴に問いかける。美晴は大きく首を横に振った。
 男はバツの悪そうな表情になり、白石の手を振りほどくと足早に去って行った。
 そこから先は、怜人は普段通りに演説をした。

「美晴さん、大丈夫ですか? ケガは?」
 演説が終わると、怜人は真っ先に美晴のところに来た。
「大丈夫です。服が濡れただけですから」
「そうですか。よかった」
 怜人は心から安堵した表情になった。
「怜人さんみたいな人が、国のトップに立てばいいのに。そうしたら、日本はもっとまともな国になるのに」
 美晴の言葉に、怜人はちょっと驚いた顔になった。
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しい。まあ、トップになるまでには、後一山も二山も越えなきゃいけないけど」
 照れくさそうな笑顔になる。

「怜人さん、支援者の方が相談があるって」
 ゆずが呼びに来て、「それじゃ、今日は送って行くので、ここで待っててもらえますか」と怜人は去りかけた。
「えっ、大丈夫ですよ、一人で帰れます」
「他に、どんなやつらが襲ってくるか分からないから、一人で帰せませんよ」
 怜人のその言葉に、美晴は胸が熱くなっていくのを感じた。