「ねえ、この曲、何て言うの?」
 レイナはこっそりと裕に聞いた。
「『トゥーランドット』っていうオペラの、『誰も寝てはならぬ』っていう曲だよ」
 裕も小声で答える。
「ふうん。変わった名前の曲」
 レイナはつぶやくように言う。
「でも、すごいいい曲」

 目の前で、笑里がバイオリンに合わせて高らかにアリアを歌いあげている。その迫力に、ゴミ捨て場の住人は瞬きをするのも忘れて見入っている。
 笑里の提案で、月に一回、ゴミ捨て場でコンサートを行うことになった。今日はその第一回目だ。
 笑里の提案に賛同した音楽家仲間が、毎回協力してくれることになったらしい。
 今日、演奏してくれるバイオリニストは白髪が混じった、大ベテランという風情の男性だ。
 メロディアスな音を奏でるバイオリンの音に合わせて、笑里は情感豊かに歌う。まるで、ここが大きなコンサートホールであるかのように。

 歌い終わると、みんな惜しみなく拍手を送った。レイナもアミと一緒に手が痛くなるぐらい、大きな拍手をした。
 マサじいさんは「生きているうちに、またこんな音楽を聞けるなんて」と、声を震わせている。ジンも紅潮した顔で拍手をし、その足元ではクロが嬉しそうに尻尾を振っている。
 笑里は嬉しそうに挨拶をして、歌の解説を始めた。

「笑里さんが歌うの、初めて聞いた。いつも、発声練習ぐらいしか聞いたことないから」
「ああ。この間ここに来たとき、僕も久しぶりに聞いた。7年ぶりぐらいかな」
 裕の言葉にレイナが目を丸くすると、「花音が亡くなってから、笑里は人前で歌えなくなったんだ」と話してくれた。

「花音は重い病気に……白血病という病気にかかってね。何度も入院していたんだ。笑里が海外で舞台に出演することになって、笑里は花音のために行くのをやめようとしたんだ。それを、僕が、行くように勧めた。海外の有名なオーケストラとの共演で、笑里にとってチャンスだったからね。そのときは花音も元気だったから、一週間ぐらいいなくても大丈夫だと思ったんだ。でも、急変した。笑里が舞台に出ていた夜に。どうしようもなかった」

 レイナは裕の横顔を黙って見つめていた。花音が亡くなったときの話を聞くのは、これが初めてだった。
「笑里は飛んで帰って来たけど、間に合わなくて……花音の遺体にしがみついて、何時間も泣き続けていたんだ。その後、笑里は舞台には出なくなった。僕のせいだ。あのとき、舞台に出るのを勧めなかったら」
 裕はそこで言葉を切った。瞳には涙が浮かんでいる。

「ねえ、花音ちゃんって、何歳で亡くなったの?」
 レイナはそっと尋ねる。
「6歳だ」
 裕は目の縁の涙を、指で拭った。
「生きていたら、君と同じ年齢だ。レイナ」
 レイナは何も言えなくなった。

 次の曲が始まった。次は『フィガロの結婚』の『恋とはどんなものかしら』だ。二人はうっとりと笑里の声に聞き入る。
 曲が終わると、ふいに「ねえ、私、このまま先生たちと一緒にいていいの?」とレイナは尋ねた。
「どういうこと?」
「だって、私がいると、いっぱい迷惑かけてるから。ヒカリさんのことだって……」
「ああ、いいんだ、あれは。遅かれ早かれ、ヒカリとは決別してただろう」

 裕はレイナの目をまっすぐ見た。
「迷惑なんてとんでもない。君は、私たちにいろんなものを与えてくれた。君が考えているより、ずっとね」
 レイナは唇をキュッと結ぶと、「ねえ、私、決めた」と切り出した。

「スティーブのライブでお金をたくさんもらえるって言ってたでしょ? そのお金を貯めて、ここのみんなのための家を建てるの」
「そうか。それはいいね」
「ね。そうしたら、みんな安全に暮らせるし。それに、みんなでずっと一緒に暮らせるし」
「そうだね」
 裕は寂しそうな表情になった。

「うちのそばに、そんな家を建てられないかなあ。そしたら、私もうちから毎日通えるもん」
 裕は驚いたような顔でレイナを見た。それから顔を紅潮させて、「ああ。そうだね。うちのそばで、家を建てられそうな場所を探してみよう」と興奮した口調で言う。
「うん。お願いね」
 レイナは裕の肩に頭をもたせかけた。