マサじいさんは裕と笑里にコーヒーを入れてくれた。
裕は「いただきます」と普通に飲んだが、笑里はカップを受け取っても飲もうとしなかった。マサじいさんはじっと笑里を見つめる。
笑里はあわてて、「ごめんなさい、私、オペラ歌手なので、コーヒーは飲まないようにしてるんです」と釈明した。
「オペラって何?」
トムが無邪気に尋ねる。
「大きな会場で、歌いながら劇をするの」
「へえー」
トムの目は好奇心で輝いた。
「どんな歌なの? 歌ってみて」
「え? ここで?」
笑里は戸惑う。
「でも、伴奏がないし」と逃げようとすると、「ピアノならあるよ。タクマが弾いてたピアノ」とトムは駆け出した。
「こっち、こっち!」
トムに手招きされて、笑里と裕は顔を見合わせた。
「私、こんなところで歌うなんて……」
「まあ、いいじゃないか。簡単な曲でも歌ってみたらいいんじゃないかな」
「そんなことを言われても」
笑里は、腕をつかまれて振り返った。
見ると、アミが「あー」とニコニコ笑っている。
「ピアノのところに行こうって言ってるんじゃないかな」
笑里は観念して、アミに引っ張られるようにピアノの置いてある場所に向かった。
ピアノには青いビニールシートがかぶせてある。
「タクマがいなくなってから、誰も弾かなくなったからさ、シートをかぶせといたんだ」
トムがシートをとるのをジンが手伝う。
「タクマってもしかして」
笑里がつぶやくと、「ああ。レイナの大切な人だ」とジンが言う。
「二人は、よくこのピアノを弾きながら歌ってたんだ」
「タクマは死んじゃったんだ。トラックに轢かれて」
トムが指差した。
「あっちのほうで。レイナも見てたんだよ。レイナの目の前で轢かれたんだ」
笑里は息を呑む。
「トム、それ以上、余計なことを言うな!」
ジンが制する。
「だって、知らないのかなって思って」
「レイナから聞いてたけど……目の前で亡くなったという話は、初耳で」
笑里は動揺したように口を手で覆った。
「そう……あの子はそんな辛い目に」
裕はピアノの蓋を開けた。
「レイナと初めて会ったのも、このピアノの前だったな」
鍵盤の上の赤いフェルトのカバーをとると、椅子に座った。簡単に鍵盤を端から端まで弾いてみる。
「出ない音もあるけれど、意外に悪くない音だな」
「へ~、先生、ピアノ弾けるんだ」
「一応、作曲家だからね」
「すげえ。先生って、やっぱすげえなあ」
トムは感嘆する。
「笑里、発声練習をするか?」
裕に声をかけられ、笑里は我に返った。
「そ・そうね。お願い」
裕がドミソミドを弾くと、笑里はそれに合わせて歌いはじめた。
アミとトムは嬉しそうに笑里が歌う様子を見ている。
ただ発声練習をしているだけなのに、終わると二人は拍手をしてくれた。笑里は照れくさくなった。
喉が温まると、裕は「何を歌う?」と聞いた。
「そうね」
笑里は考え込んだ。
「……椿姫で」
笑里の言葉に、裕は目を見開いた。
「いいのかい?」
「ええ。歌ってみる」
「そうか。分かった」
裕は一呼吸を置いて、軽やかに椿姫の『乾杯の歌』の前奏を弾き出した。
笑里は大きく深呼吸をしてから、歌い出す。
アミとトムは笑里の高い声に目を丸くする。
時々、調子が外れるピアノ。笑里は、最初は抑え気味に歌っていたが、二人が食い入るように笑里を見ているので、段々声量を上げていった。
アミとトムは楽しそうに曲に合わせて体を揺すっている。その姿を見たとたん、笑里は涙がこみあげてきて歌えなくなってしまった。
裕が驚いて笑里の顔を見る。
「どうしたの?」
トムが心配そうに尋ねる。
「ううん、なんでもない」
笑里は急いで涙を拭き、裕に伴奏を促して再び歌いはじめた。
歌い終えると、トムとアミは一生懸命、大きな拍手を送ってくれる。
背後からも拍手が聞こえてきた。
振り返ると、いつの間にか住人が集まって来て、笑里の声に聞き入っていたのだ。
拍手を送りながら、「ブラボー!」と叫ぶ住人もいる。
「こんな曲聴くの、何十年ぶりだろう」と涙を拭く住人もいた。ルミですら、木の陰で鼻を赤くしている。
笑里は涙をこらえながら、カーテンコールのように深々とお辞儀をした。
「おばさん、歌うまいね。レイナと同じぐらい、うまいよ」
トムが興奮して笑里の足に飛びついた。
「ありがとう」
「でも、何て言ってるのか、分かんなかった」
「イタリア語だからね」
「へえ~、そんな難しい言葉、話せるんだ」
アミも嬉しそうに「あー、あー」と腕にしがみつく。
「すっかり子供たちに気に入られたみたいだねえ」
マサじいさんは言った。
「こんなにすぐに子供たちに受け入れられる大人は珍しいよ。あんたたちになら、この二人を任せても大丈夫そうだ」
笑里は「ありがとうございます」と目の縁を拭った。
「そうだ、レイナからメッセージを預かって来たんでしょ?」
「そうよ。読みましょうか?」
「読んで、読んで!」
トムとアミに手を引かれて、笑里はマサじいさんの小屋に戻った。
裕はピアノにフェルトをかけ、蓋を閉めた。
「レイナは元気か?」
振り向くと、ジンが木にもたれながら裕を鋭い目で見ている。
「ええ。レイナは、あなたのこともよく話してますよ」
「オレのことはいいよ、別に。突然ミハルさんがいなくなったからさ」
「ああ……確かに、ミハルさんがいなくなったショックからは完全に立ち直れてません」
「そうだろうな。ミハルさんから連絡は」
「何も。私たちも、ずっと待ってるんですが」
「そうか」
ジンは大きなため息をついた。
「いきなり、いなくなっちゃったんだもんな。何かあったのなら、言ってくれればよかったのに」
裕はピアノをやさしくなでた。
「このピアノ、レイナにとっても大切なピアノなんですよね」
「ああ。だから、いつかレイナに持って行ってくれないか? ここに置いといても、朽ち果てていくだけだからさ」
「そうですね」
裕がブルーシートをかぶせていると、ジンも手伝った。
「ミハルさんはあんたを信頼してレイナを託したんだ。だから、レイナを傷つけるようなことは絶対にするなよ?」
裕は「もちろんです。誰かがレイナを傷つけるようなことがあったら、私も絶対に許さない」と強い口調で返した。
ジンは裕の目をジッと見てから、「そうか。よろしく頼む」とクロと一緒に去って行った。
裕はその後ろ姿を見つめていた。
裕は「いただきます」と普通に飲んだが、笑里はカップを受け取っても飲もうとしなかった。マサじいさんはじっと笑里を見つめる。
笑里はあわてて、「ごめんなさい、私、オペラ歌手なので、コーヒーは飲まないようにしてるんです」と釈明した。
「オペラって何?」
トムが無邪気に尋ねる。
「大きな会場で、歌いながら劇をするの」
「へえー」
トムの目は好奇心で輝いた。
「どんな歌なの? 歌ってみて」
「え? ここで?」
笑里は戸惑う。
「でも、伴奏がないし」と逃げようとすると、「ピアノならあるよ。タクマが弾いてたピアノ」とトムは駆け出した。
「こっち、こっち!」
トムに手招きされて、笑里と裕は顔を見合わせた。
「私、こんなところで歌うなんて……」
「まあ、いいじゃないか。簡単な曲でも歌ってみたらいいんじゃないかな」
「そんなことを言われても」
笑里は、腕をつかまれて振り返った。
見ると、アミが「あー」とニコニコ笑っている。
「ピアノのところに行こうって言ってるんじゃないかな」
笑里は観念して、アミに引っ張られるようにピアノの置いてある場所に向かった。
ピアノには青いビニールシートがかぶせてある。
「タクマがいなくなってから、誰も弾かなくなったからさ、シートをかぶせといたんだ」
トムがシートをとるのをジンが手伝う。
「タクマってもしかして」
笑里がつぶやくと、「ああ。レイナの大切な人だ」とジンが言う。
「二人は、よくこのピアノを弾きながら歌ってたんだ」
「タクマは死んじゃったんだ。トラックに轢かれて」
トムが指差した。
「あっちのほうで。レイナも見てたんだよ。レイナの目の前で轢かれたんだ」
笑里は息を呑む。
「トム、それ以上、余計なことを言うな!」
ジンが制する。
「だって、知らないのかなって思って」
「レイナから聞いてたけど……目の前で亡くなったという話は、初耳で」
笑里は動揺したように口を手で覆った。
「そう……あの子はそんな辛い目に」
裕はピアノの蓋を開けた。
「レイナと初めて会ったのも、このピアノの前だったな」
鍵盤の上の赤いフェルトのカバーをとると、椅子に座った。簡単に鍵盤を端から端まで弾いてみる。
「出ない音もあるけれど、意外に悪くない音だな」
「へ~、先生、ピアノ弾けるんだ」
「一応、作曲家だからね」
「すげえ。先生って、やっぱすげえなあ」
トムは感嘆する。
「笑里、発声練習をするか?」
裕に声をかけられ、笑里は我に返った。
「そ・そうね。お願い」
裕がドミソミドを弾くと、笑里はそれに合わせて歌いはじめた。
アミとトムは嬉しそうに笑里が歌う様子を見ている。
ただ発声練習をしているだけなのに、終わると二人は拍手をしてくれた。笑里は照れくさくなった。
喉が温まると、裕は「何を歌う?」と聞いた。
「そうね」
笑里は考え込んだ。
「……椿姫で」
笑里の言葉に、裕は目を見開いた。
「いいのかい?」
「ええ。歌ってみる」
「そうか。分かった」
裕は一呼吸を置いて、軽やかに椿姫の『乾杯の歌』の前奏を弾き出した。
笑里は大きく深呼吸をしてから、歌い出す。
アミとトムは笑里の高い声に目を丸くする。
時々、調子が外れるピアノ。笑里は、最初は抑え気味に歌っていたが、二人が食い入るように笑里を見ているので、段々声量を上げていった。
アミとトムは楽しそうに曲に合わせて体を揺すっている。その姿を見たとたん、笑里は涙がこみあげてきて歌えなくなってしまった。
裕が驚いて笑里の顔を見る。
「どうしたの?」
トムが心配そうに尋ねる。
「ううん、なんでもない」
笑里は急いで涙を拭き、裕に伴奏を促して再び歌いはじめた。
歌い終えると、トムとアミは一生懸命、大きな拍手を送ってくれる。
背後からも拍手が聞こえてきた。
振り返ると、いつの間にか住人が集まって来て、笑里の声に聞き入っていたのだ。
拍手を送りながら、「ブラボー!」と叫ぶ住人もいる。
「こんな曲聴くの、何十年ぶりだろう」と涙を拭く住人もいた。ルミですら、木の陰で鼻を赤くしている。
笑里は涙をこらえながら、カーテンコールのように深々とお辞儀をした。
「おばさん、歌うまいね。レイナと同じぐらい、うまいよ」
トムが興奮して笑里の足に飛びついた。
「ありがとう」
「でも、何て言ってるのか、分かんなかった」
「イタリア語だからね」
「へえ~、そんな難しい言葉、話せるんだ」
アミも嬉しそうに「あー、あー」と腕にしがみつく。
「すっかり子供たちに気に入られたみたいだねえ」
マサじいさんは言った。
「こんなにすぐに子供たちに受け入れられる大人は珍しいよ。あんたたちになら、この二人を任せても大丈夫そうだ」
笑里は「ありがとうございます」と目の縁を拭った。
「そうだ、レイナからメッセージを預かって来たんでしょ?」
「そうよ。読みましょうか?」
「読んで、読んで!」
トムとアミに手を引かれて、笑里はマサじいさんの小屋に戻った。
裕はピアノにフェルトをかけ、蓋を閉めた。
「レイナは元気か?」
振り向くと、ジンが木にもたれながら裕を鋭い目で見ている。
「ええ。レイナは、あなたのこともよく話してますよ」
「オレのことはいいよ、別に。突然ミハルさんがいなくなったからさ」
「ああ……確かに、ミハルさんがいなくなったショックからは完全に立ち直れてません」
「そうだろうな。ミハルさんから連絡は」
「何も。私たちも、ずっと待ってるんですが」
「そうか」
ジンは大きなため息をついた。
「いきなり、いなくなっちゃったんだもんな。何かあったのなら、言ってくれればよかったのに」
裕はピアノをやさしくなでた。
「このピアノ、レイナにとっても大切なピアノなんですよね」
「ああ。だから、いつかレイナに持って行ってくれないか? ここに置いといても、朽ち果てていくだけだからさ」
「そうですね」
裕がブルーシートをかぶせていると、ジンも手伝った。
「ミハルさんはあんたを信頼してレイナを託したんだ。だから、レイナを傷つけるようなことは絶対にするなよ?」
裕は「もちろんです。誰かがレイナを傷つけるようなことがあったら、私も絶対に許さない」と強い口調で返した。
ジンは裕の目をジッと見てから、「そうか。よろしく頼む」とクロと一緒に去って行った。
裕はその後ろ姿を見つめていた。