タクマが指差した先には、黒いアップライトピアノが横たわっていた。
「ピアノ?」
「そういう名前の楽器のこと。僕、幼稚園のころに習ってたんだ」
 タクマはレイナの手を取って、ピアノの脇に連れて行った。しゃがんでピアノのフタを開ける。

「これが鍵盤」
 タクマが鍵盤を押すと、ポーンと音が鳴り響いた。
「ちゃんと音が鳴る、これ」
 タクマは珍しく興奮した様子で、両手で短い曲を弾いた。

「すごい、お兄ちゃん。何て歌?」
「猫ふんじゃった」
「猫ふんじゃった? かわいい曲」

 タクマは嬉しそうに鍵盤を一つ一つ鳴らしていく。
「ちょっと音が悪いのもあるけど、これなら使えるな」

「おー、ピアノかあ。タクマ、ピアノ弾けるんだな」
 いつの間にかジンが来て、二人の背後からのぞき込んだ。
 ジンの飼い犬のクロも一緒だ。クロはドーベルマンで、子犬のときにゴミ捨て場に捨てられていたのをジンが世話してから、なつくようになったのだ。

「これ、下に運ぶか?」
「えっ、いいの? いいの? 重いよ、これ」
「いいよ、いいよ。タクマはいつも、いいゴミを見つけてくれるんだから。みんなで運ぶよ」
「ありがとう」
 タクマが喜びで顔を紅潮させたとき、「嫌だ、これはオレのだ!」とトムの怒鳴り声が聞こえた。

 ソファのところに戻ると、トムがソファにしがみついている。
 その脇で、一人の女性が腕を組んでトムを見下ろしている。クロは、なぜかソファのまわりをグルグル回りながら吠えだした。

「どうする? ルミさん。トムが先に取っていたみたいだけど」
 ソファを運ぼうとしていた男二人が、困ったようにルミと呼ばれた女性を見る。

 ルミは長い髪をカールし、毛皮のコートを着て、こんな場所でもハイヒールを履いている。
 ゴミ捨て場の住人だとはとても思えない風貌だが、ここに住んでもう10年になる。
 元々ナンバー1ホステスだったらしく、いかにいい思いをしてきたのかを、しょっちゅうレイナたちに話して聞かせていた。散財癖があり、借金を返せなくなって夜逃げしたらしい。

「トムぅ。あんたには、このソファは贅沢すぎるわよお」
 ルミはトムの顔をのぞき込む。
「んなの関係ねえだろ? トムが先に見つけて取ってたんだから、それはトムのものだろ」
 ジンが言うと、ルミはムッとした表情になる。

「トムがこんな贅沢なものを使っても、すぐに汚しちゃうじゃない。これは上等なベルベットなんだから。手入れの仕方を知っている私が持つべきなの」
「こんな場所で上等とか手入れとか、アホか。どんな気取ったこと言ってても、人のものを横取りするような人間は上等じゃねえよ」
 ジンの言葉に、ルミはみるみる顔を赤らめていく。

 眉を吊り上げたままコートのポケットからボロボロのシャネルの財布を出すと、「じゃあ、これで売って」とお札を1枚トムに差し出した。

「えー、それっぽっち?」
 トムがごねると、ルミは渋々もう2枚追加した。
「しょうがないなあ。譲ってあげるよ」

 トムは大げさにため息をつき、お札を受け取ると、すぐにポケットにしまう。ルミは男たちにソファを運ばせて、自分は転びそうになりながら山を下りて行った。

「いいのか?」
 ジンが聞くと、「うん。あのソファ、猫のおしっこ臭かった。だから捨てたんだと思う」とトムはあっけらかんと答えた。ジンは豪快に笑った。
「それでクロが吠えたわけか。そりゃ、後であのおばはん、怒りまくるかもしれないな」

「このお金でさ、ご馳走を買おうよ。だって、今日はさ」
「トム、しーっ」
 タクマが慌てて唇に指を立てる。

「えっ、何? 今日、何かあったっけ?」
 レイナが聞くと、「あ、えーと、マサじいさんに栄養のあるものを食べさせてあげようって、みんなで言ってて」と、タクマはうろたえながら答える。

「そうなの? 何作る?」
「レイナは昨日も今朝も作ったんでしょ? 僕らで作るから、いいよ」
 タクマの言葉に、「ふうん?」とレイナは首を傾げた。

「あのおばはん、鏡台も持っていくのか。あんな大きな鏡台、どこに置くつもりなんだか」
 ジンが呆れたように言う。見ると、ルミはオフホワイトのドレッサーも男たちに運ばせていた。

「運ぶのはピアノだけでいいか? レイナとアミは、欲しいものはないのか?」
 ジンに聞かれて、レイナとアミは再びゴミを見て回ることにした。
 クロもその後を、あちこちの臭いを嗅ぎながらついてくる。

「今晩は曇りかな」
 タクマが空を見ながら、ポツリと言う。レイナも空を見上げる。鈍い灰色の空が広がっている。
「雪でも降ればいいのに」
 レイナもつぶやいた。