リビングに足を踏み入れると、その広さに圧倒された。
「絵本で見たお城みたい」
 レイナがつぶやくと、笑里はソプラノの声でコロコロと笑った。
「ありがとう。住んでいるのはお姫様と王子様には程遠いけどね」
 笑里と裕はソファに座り、レイナにも座るように勧めた。
 青い皮でできた、大きなソファー。レイナはためらった。

「どうしたの?」
「私が座ったら、汚しちゃうかもしれない」
「そんなこと、気にしなくていいの! このソファ、ベルがかじってあちこち穴が開いてるでしょ? 私も食べ物をこぼすことがあるから、そんなにキレイじゃないのよ」
 レイナはおずおずと端っこに座った。
 テーブルには紅茶のセットとクッキーが並べてある。
「紅茶を入れたんだけど……飲めるかしら?」
「砂糖とミルクを入れたほうがいいんじゃないかな」
 笑里は紅茶に砂糖とミルクを入れて、レイナに差し出した。

「お昼はレッスンの後で食べましょうね。このクッキー、おいしいから食べてみて」
 笑里にバスケットを差し出されて、レイナは1枚取って食べてみた。
「――おいしい!」
 こんなにおいしいお菓子は初めて食べた。思わず2、3枚続けて食べると、「そうそう、好きなだけ食べてね」と笑里は微笑む。

 ミルクティーも甘さが程よく、体にじんわりと染み渡る。
「こんなおいしいの、初めて」というと、お代わりを入れてくれる。
「このクッキー、ママにもあげたいな」
 つぶやくと、「それなら、お土産に持って帰って。たくさんあるから、みんなにもあげてね」と笑里は言った。
 ベルはおとなしく、笑里の足元で寝転んでいる。
「その髪留め、きれいね」
 褒められて、レイナはバレッタに手をやる。
「お母さんに買ってもらったの?」
「ううん、タクマお兄ちゃんに誕生日にもらったの」
 タクマという人物が亡くなっているということを、裕から聞いているのだろう。
 笑里は「そう、きれいね。あなたの髪の色に似合ってる」と言い、それ以上詮索しなかった。
 
 笑里は自分がオペラ歌手をしていること、海外に留学していたこと、音大で生徒に教えていることなどを話してくれた。
「オペラって聞いても、分からないわよね」
 レイナがうなずくと、「そう思って、私が歌っている映像を用意しておいたの」と、笑里はテレビをつけた。
 ローボードの上にあるテレビをつけたとき、レイナは驚いて目を見張った。
「あれ、何?」
「ああ、テレビを観るのは初めてかな」
「あれもテレビなの? ゴミ捨て場の食堂で見たことあるけど、こんなに大きくなかったよ」
「食堂?」
「働いてる人たちが食べる場所」
「ああ、なるほどね。食堂だったら、小さなテレビしかないだろうね」
 自分の顔よりも大きい人が映っているので、レイナは釘付けになった。

 画面が切り替わり、どこかのホールが映し出された。
 ステージの真ん中で歌っているのは、笑里のようだ。髪をアップにし、真っ赤なドレスに身を包んで、ホール中に響き渡る声で歌っている。
「これは20年前の映像だから、若いんだけどね」
「今よりも痩せてるしな」
「そういうことは言わないように。お互い様でしょ、おじさん」
 二人が軽口を叩いている横で、レイナは真剣に映像に見入っていた。

 ――すごい、こんなに声が出るんだ。

 軽やかで透明感のある高音。同時に力強い声でもある。
 歌詞の意味はまったく分からないが、胸に迫るものがあった。歌に導かれるように、オーケストラも熱演している。
「オペラは日本語じゃないから、意味が分からないかもしれないけど」
 笑里は話しかけながら、レイナが熱心に見ている姿を見て、口をつぐんだ。裕もレイナの表情をじっと見つめる。
 曲が終わり、観客が拍手を送ると、レイナも思わず拍手した。
「すごい、すごいっ、あんなに高くて、キレイな声を出せるなんて」
 レイナが興奮していると、二人は嬉しそうに顔を見合わせた。
「もっと見てみる?」
 笑里が問うと、レイナは大きくうなずいた。
 それから30分ぐらい、レイナは笑里の動画を堪能した。
「あんな風に声を出せたら、気持ちいいだろうな」
 レイナはうっとりした様子で、ため息を漏らした。
「あなただって、あんな風に歌えるようになるのよ。レッスンすればね」