その日、レイナは生まれて初めて「車」という乗り物に乗った。
 裕の車がゴミ捨て場の入り口に止められているのを見て、作業員たちは「あれってベンツじゃね?」「なんで、こんなところに」と口々に言っている。
 知らせを受けて管理会社の幹部が飛んできた。
「ここに何か御用ですか? 間違って捨ててしまったものがあるんでしょうか?」 
 裕に尋ねると、「いえ、人を迎えに来たんです」と柔和な笑みで返した。
「人? 誰ですか?」
 その問いに裕は答えなかった。
 ゴミ捨て場から出てきたレイナが裕に挨拶したのを見て、作業員たちはポカンとした表情になった。

 裕はドアを開けて、レイナに助手席に乗るよう促す。レイナはおっかなびっくり、車に乗り込んだ。
 ミハルは「西園寺さんの言うことをちゃんと聞いてね」と窓越しに声をかける。トムとアミも一緒に見送ってくれた。
 トムが「オレも街に行きたい」とごねるのを、ミハルは「また今度ね」となだめていた。アミは不安そうな表情で窓に貼りついている。
「大丈夫、夜には帰って来るから」と声をかけても、アミは涙を浮かべながら「あー、あー」とレイナに訴えかける。

 レイナはミハルも一緒に行くものだと思っていたが、「私は行かないほうがいい」と裕に託したのだ。
 レイナは心細くて行くのをやめようかと思ったが、ミハルは「レイナは街に行くべきだから」と強く勧めた。
 レイナは不安そうに、窓越しにミハルの顔を見つめる。
「大丈夫よ、レイナなら一人でも大丈夫」とミハルは励ました。
「西園寺さん、レイナをよろしくお願いします」
 ミハルの言葉に、裕は大きくうなずいた。
 
 車が走りはじめると、レイナは遠ざかって行くミハルと仲間に手を振った。
 裕が窓を開けてくれる。レイナが身を乗り出すと、トムが全速力で追いかけて来た。
「夜までには戻って来るからあ」と大声で呼びかけると、トムは足を止めて、大きく手を振った。
「あんまり身を乗り出すと、落ちるから」
 裕がレイナの服を引っ張る。
「シートベルトを締めて」
「シート……?」
「ああ、そうか」
 裕は車を止めて、レイナのシートベルトを締めてあげた。裕からは、今まで嗅いだことのないいい香りがする。
「きつくないかな?」
 レイナはコックリとする。
「君は、みんなから愛されてるんだね」
 裕はフワッと笑い、車を発進させた。



「――いいのか?」
 クロをつれたジンが背後から声をかけた。ミハルは、いつまでもレイナが去ったほうを見て立ち尽くしていた。
「レイナはいつかここから出ていくべきだけど。一緒に行かないつもりなのか?」
 ミハルは何も答えず、「さあ、お昼の用意をしよっか」とアミに話しかけた。
「レイナは、あんたまで失ったら、やっていけないぞ?」
 ミハルはフッと寂しそうな笑みを浮かべた。
 トムが「レイナ、本当に帰って来るんだよね?」と駆けて戻ってきたので、「心配しなくて大丈夫よ」とミハルは言い聞かせる。
 トムとアミと手をつないで小屋に戻っていくミハルの後姿を、ジンは見守っていた。



「ここが、僕の家」
 裕が車を止めても、レイナは窓から外を見るだけで動けなかった。

 ――家? 絵本で見た家とは全然違うけれど……。

 レイナは、今までゴミ捨て場の小屋しか見たことがない。絵本で、普通の人が住む「家」というものは見ているが、本物を見るのは初めてだ。
 ここに来るまでも、レイナにとっては見たことのないものばかりで、「あれは何?」「あれは?」と裕に何十回も尋ねた。
「あれは信号って言うんだ。青は進め、黄色は注意、赤は止まれっていう意味で、青になるまでここで待たないといけないんだ」
「あれはガードレール。車や人がはみださないようにしてるんだ」
 裕は嫌がることなく教えてくれる。
 街に入ると、行きかう人々がゴミ捨て場の住人とはまったく違う格好をしていることに気づいた。
 とくに女の子たちは色とりどりの服に身を包み、髪をキレイに整え、メイクをして、キラキラと輝いて見える。
 楽しそうにおしゃべりしながら歩いている女の子たちの姿を見ているうちに、レイナは急に自分の格好が恥ずかしくなった。
 古びて黒ずんでいるセーターに、ジーパン。あちこちにつぎをあてている。ミハルが丁寧に繕ってくれて、今まで大事に着てきた服だ。
 そんなつぎはぎだらけの服を着ている子は、一人もいない。レイナは、自分は来てはいけないところに来てしまったのではないかと、不安になった。

 髪に手をやる。そこにはタクマからもらったバレッタをつけていた。ミハルが髪をとかして、綺麗に見える位置につけてくれたのだ。

 ――大丈夫。きっと、お兄ちゃんが見守っていてくれる。
 
 裕が助手席のドアを開けて、シートベルトを外してくれた。
「さあ、どうぞ」
 促されて外に出るが、レイナは家の大きさに圧倒されていた。
 裕の家は、一目で付近の家よりも大きいことが分かる。庭も広々としていて、駆けまわって遊べそうだ。

 ――こんな大きな家の中に、何があるの?

 レイナは怖くなって、踵を返そうとすると、玄関のドアが開いた。
「レイナちゃん? いらっしゃい」 
 小太りの女性が、笑顔で声をかける。茶色の髪はカールがかかり、街行く女性と同じようにメイクをしている。裕に促されて、レイナは恐る恐る玄関に入る。
「こんにちは」
 蚊が鳴くような声で挨拶すると、
「こんにちは、私は裕の妻の笑里です。よろしくね」
と、朗らかな声で答えた。

 その足元には、茶色くて毛がフサフサした生き物がレイナを見上げている。
「それは、にゃんこ? わんこ?」
「ああ、この子はね、わんこよ。トイプードルの女の子。ベルって言うの。オペラの神様のヴェルディから名前を取ったの」
「ベル……」
 レイナはしゃがんで、ベルの目を見た。
「こんにちは、ベル」
 手を差し出すと、ベルはぺろぺろと掌をなめた。
「くすぐった~い」
「あら、もうお友達になれたのね。長時間、車に乗ってたから、疲れたでしょ? まずはお茶でも飲みましょ」

 笑里からもいい香りがする。レイナは汚い格好をした自分が家に入るわけにはいかないと、玄関でモジモジしていた。
「さあ、こっちへどうぞ」
 笑里は手を差し伸べてくれた。促されるまま、レイナはスリッパを履く。
 そのスリッパはフカフカの感触で、レイナはとっさに足を引っ込めた。
 そんなスリッパを今まで履いたことがない。
 ゴミ捨て場に捨てられているスリッパは、布地がペラペラになったものや、プラスチックでできているものばかりだ。
「それは君のスリッパだから、履いていいんだよ」
 裕に言われて、恐る恐る足を入れた。温かい。レイナは2、3歩歩いてみる。
「うちはカーペットを敷いてないからね。スリッパを履いてないと、足が冷たいんだ」

 裕は洗面所に案内して、手を洗うようにすすめた。裕が蛇口の下に手を差し出すと、水が自動で出たのでレイナは目を丸くした。

 ――お兄ちゃんが、魔法のような家があるって言ってたけど、これのこと?

 レイナは何回か手を差し出して、引っ込めてみた。
 そのつど、水が出たり止まったりするので、「すごい、すごーい!」とはしゃぐ。裕はその様子を苦笑しながら見つめていた。