「私、片田義則は、本日をもって内閣総理大臣を辞任いたします。15年間、総理大臣の任に当たってきましたが、今回の投票中止に伴って内閣が機能不全となってしまい、責任を取って辞任することにいたしました。なお、期日前投票も十分にできなかったという意見もあり、投票は本日から3日間にわたって行うことにいたしました」

 記者会見で、片田の顔は無数のフラッシュに照らし出されていた。
 寝不足と心労で目は真っ赤に充血し、髪は乱れて、目の下にはクマがくっきりと出ている。
 だが、その表情はどこか穏やかでもあった。ようやくすべてのことから解放され、肩の荷が下りたかのように。

 副総理大臣にすべての業務を引き継ぐことを説明すると、頭を下げて、その場を立ち去ろうとした。
 そのとき、どおっと官邸が揺れた。
 外にいる国民が大歓声を上げたのだ。
 片田は一瞬顔を上げたが、唇を噛みしめると、俯いて会見室を出て行った。

「待ってください、総理! 本郷怜人議員の殺人について、関与されていたんですか?」
「臓器移植の件についての説明は?」
「昨日はデモ隊への発砲がありましたよね。あれは総理の命令だと聞いてますが。真実の党の影山美晴さんを狙ったんですか?」
 記者が一斉に質問しても足を止めないので、記者たちは「待ってください!」と追いかけた。
 もう守ってくれるSPもいない。すぐに記者たちにもみくちゃにされるだろう。

「片田は、政治亡命を求めてるらしいよ」
 病院のロビーでテレビを観ている美晴に、岳人が教えた。
「そうなの? もしかして、陸君たちが官邸に入ってから今まで、ずっとそれを画策してたとか? 陸君から連絡が来たのは、日付が変わる前だったでしょ?」
「まず自分の身の安全を確保しようって動くのは、あいつなら当然だろうね」
「呆れた。どこに逃げる気かしら」
「さあ、アメリカかヨーロッパか」
「受け入れてもらえるの?」
「難しいだろうね。ロシアか中国辺りなら、受け入れてもらえるかもしれないけど。でも、その前に検察が逮捕して国外に出さないんじゃないか? 警察は美晴さんを銃撃するのに手を貸しちゃったから、逮捕しないかもしれないけどね」
「意外と、検察も国外に逃亡してくれたほうが、面倒がなくなっていいと思ってたりして」
「それはあり得るね。これだけの罪を裁くのは膨大な時間も労力もかかるだろうし」

 テレビの画面は、ヘリコプターに乗って上空から中継するアナウンサーの映像に変わった。
 官邸には、一晩で100万人を超す国民が集まった。官邸を取り囲んでいる人波は、国会議事堂や議員会館までも包み込んでいる。投票の再開と、片田の退陣を求めるシュプレヒコールは、片田が辞任を表明するまで続いていたのだ。
 その熱気が画面越しに伝わって来るようだ。アナウンサーも興奮しながら中継している。

 官邸前の映像に切り替わると、一人の男性がメディアに囲まれていた。
 陸は高揚した面持ちで、数十本のマイクに向かって熱弁を振るっている。
「僕らが総理大臣を動かしたんじゃありません。皆さん一人一人が立ち上がって、声を上げたから、高い高い鉄壁を壊すことができたんです」
 陸は感極まって、言葉を詰まらせる。頭には包帯を巻き、顔のあちこちにバンソウコウを貼っている姿から、夕べの激闘が伺われる。
「ぼくっ……僕を動かしたのは、国民の皆さんです。この選挙期間中、僕はずっとずっと、皆さんの声に励まされてきました。僕一人じゃ何もできなかった。これは、皆さんが勝ち取った勝利なんです!」
 陸のまわりで、わあっと歓声が上がる。
「新しいヒーローの誕生だな」
 岳人は感慨深げにつぶやく。

 今、歓喜に満ちた人々は、勝利に酔いしれている。抱き合って泣いたり、肩を組んで「小さな勇気の唄」を歌う人々の姿が映し出された。
 朝陽に照らされて、みなまばゆいばかりに輝いている。
 
 ――今、そこにいる一人一人が主人公なんだ。

 美晴は思わず涙ぐむ。

 ――怜人、見てる? あなたが見たかった世界が、ようやく、ようやく、実現したの。ホントは、あなたと一緒に、この光景を見たかった。

 美晴は窓の外を見る。
 新しい門出の朝にふさわしく、雲一つない青空が広がっている。

    
 各地の投票所は、開場時間のずいぶん前から行列ができていた。
「片田、とうとう辞めるってな」
「あれだけ悪いことをしたんだから、当然だよ」
「昨日の官邸前のデモ、感動した!」
「オレもホントは行きたかったんだけど、仕事があって」
 みな、興奮がおさまらない。その顔は、昨日までとは見違えるように、明るく生気に満ちている。

「あれ、もしかして、あなたたち、40歳未満ですか?」
 列を整理していた会場のスタッフが、若者が混ざっていることに気づいた。大勢の若者が、紙を握りしめて並んでいる。
「ハイ」
「投票できるのは40歳以上ですよ。投票したい気持ちは分かるけれど、今回はまだ法律が」
「無効になってもいいんです!」
 若者の一人が、必死な顔で懇願する。
「無効票になってもいいから、僕たち、投票したいんです」
「そう言われても……投票用紙には限りがあるので」
「だから、僕たち、自分で投票用紙を作ってきました!」
 若者は、手に持っていた紙を見せる。
「はあ。自作の投票用紙ですか……」

「今、ネットで、投票に行こうって若者が盛り上がってるんですよ。自分たちの意思を示すために、投票用紙を作って持って行こうって」
 近くにいた中年男性が教えてくれる。
「開票作業は大変になるかもしれないけど、僕としても、ぜひ投票させてあげてほしい。これが国民みんなの気持ちなんだって、国に知ってもらうために」
「うーん、そう言われても……」
「お願いします。もう黙って見てるだけなんて、嫌なんです。僕たちの声を国に届けたいんです!」
 若者も、中高年も、お年寄りも。みんなが、みんなで投票することを望んでいた。
 その熱意に押されて、スタッフは何も言えなくなる。
「……投票箱を増やさないと」
 そう言いながら、立ち去った。その目には、涙が光っていた。


「ママ―!」
 自動ドアが開き、ロビーに美晴の姿が見えると、レイナはまっしぐらに駆け寄った。つんのめりそうになりながらも、走る、走る、走る。
「レイナ!」
 美晴も駆け寄ろうとするが、走れない。ジンと一緒に倒れ込んだとき、足首をひねってしまったのだ。レイナに向かって、大きく腕を広げる。

「レイナ!」
「ママ!」
 レイナは美晴の胸に飛び込む。
「ママ、ママあ。会い、会いたかっ……」
 人目をはばからず、ワンワンと泣き出す。
「ごめんね、ごめんね。急にいなくなってごめんね。そばにいてあげられなくて、ごめんなさい」
 美晴も抱きしめながら、涙で震える。
「大きくなったわね、レイナ。大きくなって、歌もずっとうまくなった。レイナの歌、ずっと聞いてたの。私もずっとずっと、会いたかった……」
 レイナは涙に濡れた瞳で見上げる。
「これからは、ずっと、ずっと、一緒でしょ?」
「もちろんよ。もう絶対、絶対、離れたりしないから」
 美晴は再び、レイナをギュッと抱きしめる。

 美晴は、裕と笑里が、アミとトムをつれて立っているのに気づいた。笑里もクシャクシャの泣き顔になっている。
「この2年間、レイナを守ってくださって、ありがとうございます。アミも引き取ってくださったって聞きました」
 美晴は二人に深々と頭を下げた。トムとアミは、「美晴さん、お帰り~!」「みある!」と美晴に抱きつく。

「いえ、僕らがレイナを守ったんじゃなく、レイナが僕らを守ってくれたんですよ」
「え? 私、先生たちを守ってなんかないよ? 力ないし、片田のおじさんから、嫌なこといっぱいされちゃったし」
 レイナは袖口で涙を拭きながら、不思議そうな顔をする。
「君は、僕らの大切にしてるものを守ってくれたんだ。信念とか、勇気とかね。これだけ大変だった時期に僕らが自分を見失わないでいられたのは、君がいてくれたからなんだよ、レイナ」
 裕は愛おしいものを見るまなざしで、微笑みかける。
「僕らにレイナを任せてくださって、ありがとうございます」
「レイナちゃん、ありがとう」
 笑里はレイナを抱き寄せる。
「あなたと一緒にいられて、どれだけ幸せな時間を過ごせたか……」
 レイナは「先生と笑里さんとは、これからも一緒にお仕事するでしょ?」と戸惑う。
「もちろん! これからも、仕事のパートナーとして、ずっと一緒よ」
「そうだよね!」
 レイナは安心して笑里の背中に腕を回す。

 ひとしきり、感謝の言葉をお互いに述べて、美晴はレイナの手を取った。
「ジンさんに会うでしょ?」
「会う、会う!」
 美晴は「それでは、また、改めて」と裕と笑里に頭を下げて、子供たちをつれて病室に向かった。
「いつか、この日が来ることは分かっていたけど……」
「ああ」
 裕と笑里は身体を寄せ合って、寂しそうに見送っていた。


 ジンはたくさんの管につながれてベッドに横たわっていた。人工呼吸器からは、絶え間なくシュコーシュコーという音がしている。
「ジーン!」
 トムはベッドに身を乗り出して、顔を覗き込んだ。ジンはうっすらと目を開ける。
「ジンおじさん、大丈夫なの?」
「ええ。急所は外れてたから、何とかね。手術に5時間もかかったのよ」
「そうなんだ……」
 ジンは苦しそうに目を閉じる。寝間着の胸元からは、白い包帯がのぞいている。

「ジン、オレ、アミとレイナを守ったんだよ! ジンのくれたナイフで。ジン、大切な人を守るときは使っていいって言ったでしょ? だから、犯人の足を思いっきり刺してやった! アミとレイナが爆弾で吹き飛ばされるのを、防いだんだよ」

 トムは誇らしげに言う。
 ジンはトムのほうに、かすかに顔を向ける。右手をゆっくりと動かし、親指を立てた。その目は笑っていた。


「ねえ、ママは総理大臣になるの?」
 ロビーに出ると、トムは「喉乾いたー」と自動販売機に走って行った。アミも後を追う。
 そうやって子供たちが走り回る姿を見ていると、ゴミ捨て場を思い出す。
 あの、つらくても、愛おしい日々を――。
 美晴はレイナの手をしっかりと握る。
「それはまだ、どうなるか分からない」
「森口さんが言ってたの。選挙で真実の党が勝ったら、ママが総理大臣になるって」
「さあ、どうかしらね。たとえ、何になるんだとしても、私は変わらない。レイナとずっと一緒ってこともね」
「アミはどうなるの?」
「そうね。私たちと一緒に住んでもいいし、今まで通り、西園寺先生のところで暮らしてもいいし。それはアミが決めればいいと思う」
「そっか」

 美晴は、「そうだ。大切なことを忘れてた!」と立ち止まった。
「お誕生日おめでとう、レイナ。あなたに、素敵な誕生日プレゼントをあげる」
「え? 何、何?」
 スマホを取り出すと、美晴はある動画をレイナに見せた。
 一人の男性が、緊張した面持ちでカメラに向かって座っている。

「えー、はじめまして、こんにちは。僕の名前は、本郷怜人と言います。僕は、政治家で、真実の党っていう政党をつくって、党首をやってます」

 そこまで言うと、美晴の笑い声と、「街頭演説みたいになってるよ」と茶化す声が入る。
「うーん、何を話せばいいんだろ。政治について語るのは得意なんだけど」
 そこに映っていたのは怜人だ。35歳の怜人はTシャツ姿で、袖から出ている腕はたくましい。


 あの日。国会議事堂を占拠する前日の夜。
 美晴と怜人は、どんな世の中にしたいのか、未来の自分たちはどんな人生を送っていたいのか、夜更けまで語り合った。
「ねえ、何かメッセージを残しとく?」
 美晴はふと、思いついた。
「メッセージ?」
「突撃する前の夜に、決意を語った動画を残しておくってこと」
「それって、四十七士が討ち入り前に遺書を残したようなもの?」
「そんな言い方すると、縁起でもないけど……」
 怜人はしばらく思案して、「でも、100パー成功するわけじゃないしな。一生、塀の外に出て来られない可能性もなくはないし」とつぶやく。
「そんなこと言わないで」
「いや、それも考えとかないと。そうだな。悲壮な感じじゃなくて、明るいメッセージがいいな」
「それなら、未来の、私たちの子供にメッセージを残しとくってのは、どう?」
「いいね、それ!」
 怜人は勢いよく起き上がった。

 
 画面の中の怜人は照れながら頭をかく。
「いざやってみると、何を話せばいいか分からないもんだなあ」
「難しく考えずに、思ってることを、そのまま伝えればいいんじゃない?」
 30歳の美晴が、画面に顔を出す。
「こんにちはー、私たちのかわいいベイビー! 見てるぅ?」
 画面に向かってウィンクして、指で画面を「バキュン」と撃ち抜く仕草をする。
「こんな感じで」
「いやいや、ベイビーとかバキュンとか、そんなこっぱずかしいこと、言えないから!」
 怜人は楽しそうに笑う。その瞳。美晴を心から愛していることが一目で分かる。
 しばらく考えてから、真顔になってカメラを向く。

「僕は、まだ君に会ってません。だから、君が女の子なのか、男の子なのか、分からない。けど、きっと、女の子だったら美晴に似て美人で、男の子だったら、僕に似ていい男なんだと思います。それ、大事」
 美晴は爆笑する。
「そう、その調子!」
 美晴は画面から消えた。

「僕は、明日、大切な闘いをします。それは君が大人になったときに、この国で幸せに暮らせるようになるための闘いです。僕と美晴、つまり君のパパとママがすることを、笑う人もいるでしょう。非難する人も、きっと大勢いる。でも、僕はこの道を選んだことを後悔してません。
 この国をよくしたくて、全力で最後まで闘ったことを、僕は自分でも誇りに思うし、君にも誇りに思ってほしい。本郷怜人と影山美晴の子供だって胸を張って生きてほしい。
 僕は、明日の闘いで命を落とすかもしれない。だけど、生き抜いて、君に会えるだろうって信じてます。もし、もしも、君に生きて会えなかったときのために、このメッセージを送ります。
 僕はこの世にいなくても、君をずっと見守ってます。君のママのことも。君には生き抜いてほしい。たとえ、どんなにつらいことがあっても」

 怜人はそこで言葉を切ると、うつむいた。
「ダメだ、なんか、泣けて来た。止めて、止めて」
 泣き笑いの顔になり、スマホに手を伸ばしたところで、映像は終わった。

「これって……」
 レイナの声は震える。
「パパ?」
「そう。あなたのパパ。亡くなる前の日に、二人で撮ったの。いつか自分たちの子供が生まれたときのために、メッセージを残しておこうって思って」
「初めて見た、パパの顔」
「そうね。カッコいいでしょ?」
 レイナは涙を流しながら、何度もコクコクする。美晴はレイナの額に頬を寄せた。

「やあ、その子か」
 背後から声がして、振り向くと、車椅子に乗った老爺と、車椅子を押す50代ぐらいの男性がいた。
「レイナ、怜人の……パパのおじいさんと、お兄さんよ」
 美晴が紹介すると、レイナは目を丸くした。

「君の昨日の歌は最高だったよ。官邸前のデモ隊は、『小さな勇気の唄』を繰り返し聞いて、みんなで歌ってたんだ。君の歌が、みんなを励ましたんだよ」
 岳人がレイナに笑いかける。怜人と同じ、茶色の瞳。
「君が、怜人の忘れ形見か……」
 博人が車椅子から身を乗り出して、レイナをじっと見る。その瞳も、レイナと怜人と同じ、茶色の瞳だ。
「これからよろしく、怜奈」
 博人が手を差し出す。怜奈はそっとその手を握り返した。


 ロビーにはトムとアミの笑い声が響いている。
 ゴミ捨て場で暮らしていたとき、いつもみんなで走り回っていた。今は、そこにタクマの姿はない。
 けれども、目を閉じると、タクマの息吹を近くに感じる。

 ――あのゴミ捨て場には、たぶんもう、戻らない。だけど、お兄ちゃん、私は歌うよ、これからもずっと。見ててね、タクマお兄ちゃん。ずっと、ずっと、そばにいてね。

 美晴がふわりと背後からレイナを包んだ。
「笑って、玲奈」

 今、世界は、やわらかな光に包まれていた。
 喜びと、希望と、愛に満ちた光で――。

       【完】