電話の呼び出し音は、やがて留守電メッセージに変わった。
「ハイ、ヒカリです。今は電話に出られませーん。ご用がある方は、メッセージを」
 明るい声でメッセージが流れる。西園寺(ゆたか)は、最後まで聞かずに電話を切った。

「ったく、これで何回目だ?」
 スマホをソファに放り出して天井を仰ぐ。
「ヒカリちゃん、また来ないの?」
 妻の笑里が紅茶を入れて持って来てくれた。
「ああ。とうとう、来られないっていう連絡すらよこさなくなったよ」
 裕は大げさに肩をすくめてみせた。笑里も隣に座って紅茶を飲む。

「ボイストレーニングしないと、声が出なくなるって言ってるのに」
「忙しいんじゃないの? 今は全国ツアーの真っ最中でしょ?」
「だからこそ、だよ。この間のライブを観に行ったら、最後の方は声が出なくなってたから、レッスンをしたほうがいいって言ったのに」
「まあねえ。そういうのは自分で危機感を抱かない限り、やろうって思わないからねえ。音大時代も、うまいのに練習で手を抜いてる人がいたし。天性の才能を持っている人って、できなくなったらどうしようって思わないんじゃないの?」
「もう既に声が出なくなってるから、充分危機感を持たなきゃいけない領域に来てるんだけどね」
「まわりがチヤホヤしちゃってるからねえ。それに、私のレッスンには不満みたいよ。ポップス専門のトレーナーがいいのにって、よく言ってるし」
「そのトレーナーたちと衝突して、さじを投げられたから、笑里に教えてもらおうってことになったのに。笑里だって、ポップスのボイトレを習得してるんだって何度も言ってるんだけどね」

 裕はため息をつき、気を紛らわせるためにテレビをつけた。
 大画面に、ワイドショーの男性アナウンサーの姿が映し出される。
「次は、今ネットで話題になっている動画です。一週間で再生回数が1億回を超え、世界中で絶賛の嵐が起きています」
 画面が切り替わり、河原が映し出された。どうやら、橋の上から誰かがスマホで撮影した動画のようだ。
 河原の一角に人だかりができ、その中央では何かを燃やしている。
 ――たき火をしているのか?
 裕が思ったとき、声が聞こえた。

「君に一つの花をあげよう それは勇気という名の花で 君の胸の奥で 決して枯れることなく 咲き続けていくだろう」

 少女の歌声だ。最初はやっと聞き取れるぐらいだったが、徐々に大きくなる。
「悲愴の第2楽章?」
 笑里がつぶやく。
「いや、似てるけど、違うな。オリジナルのようだ」
 撮影者は、途中でズームアップした。大人の姿に交じって、子供の姿も見える。
 ――顔を写せないってことは……橋からどれぐらい、離れたところで歌ってるんだ?
 裕は、いつの間にか身を乗り出していた。

「君と一つの山を越えよう 高く険しく 果てしなく見える山だけど 君と一緒なら 乗り越えることができるんだ」

 パワフルで、透明な声。しかも、無邪気な子供の声ではない。喜びも悲しみもすべて知り尽くしたような、深みのある声だ。

 画面がスタジオに切り替わる。アナウンサーが「どうです、今の動画、何か分かります?」とコメンテーターたちに問いかけた。
「見ただけではわからないかもしれませんが、かなり離れたところから撮影してるんですね。最初は、投稿した人も、『河原でバーベキューでもしてるのかな』って見てたらしいんです。でも、夜明けにバーベキューをしてるわけないだろうと。で、撮影していると、少女の歌声が聞こえてきて、その声量に驚いた、ということなんです」
「どれぐらい離れてたんですか?」
「100メートルぐらいは離れてたんじゃないかということです」
「えー!? それはあり得ないでしょう。50メートルぐらいじゃないですか?」
「それでもすごいですよ。子供なんですから」
「そもそも、この人たち、何なんですか?」
「近くのゴミ捨て場の住人じゃないかってことです。服装がかなりボロボロだったらしいので」

 スタジオでやりとりをしている最中に、画面はまた動画に切り替わる。歌声が流れたので、裕は全身で集中してその声を聴いた。
「この声の子、本当なら、すごいわね」
 笑里も感嘆の息を漏らす。
 笑里はプロのオペラ歌手だ。ソプラノ歌手で、今は音大で教える傍ら、自宅でボイストレーニングの教室を開いている。
「ああ――この声の子は」
 裕は両手を強く握りしめた。
「生まれながらの歌姫かもしれない」