片田は執務室で書類の山に目を通していた。
 その日はさすがに残りの応援演説はすべてキャンセルして、官邸にこもることにしたのだ。
 しかし、書類の内容は一向に頭に入ってこない。デスクの電話やスマホがひっきりなしに鳴っているが、出る気になれずにずっと無視している。
 ノックの音がして、すっかり疲れ果てた様子の三橋が部屋に入って来た。
「総理……アメリカの大統領から、来週の訪日はとりやめたいと連絡がありまして」
「え? ずいぶん急だね。理由は?」
「……総理に会う気がなくなったという理由です」
「はあ? ずいぶん失礼だな。この間も、大量に戦闘機を買ってあげたばかりなのに」
「後、フランスの大統領から、来月の会談は延期したいと申し出が」
「理由は?」
「殺人者と会うつもりはないと……」
「あ~、うるさいうるさいうるさい!」

 片田はテーブルを強く叩く。三橋はビクッとした。
「それぐらい、適当に対処できるだろうが!」
「ハ、ハイ、すみません。それで、官房長官と幹事長が、総理にお会いしたいと、ずっと待っていらして」
「どうせ、今すぐ辞任しろって言うんだろ? 明日の選挙で大敗するぞって」
「さ、さあ、ど、どうなんでしょう」
「どうせみんな、自分のことしか考えてないんだから」
 片田は書類を投げ出した。

「どうしますか? 具合が悪くて面会できないとお伝えしますか?」
「そうしてくれる?」
「ハイ」
 三橋が部屋を出ようとすると、「それと、全国に通達を出しておいてよ」と呼び止めた。
「ハイ?」
「明日の投票は中止だって、全国の自治体に通達を出しておいて」
 三橋は目をパチクリさせた。
「い、いくらなんでも、それはどうなんでしょう」
「投票がなければ、大敗することはないんだから。これは民自党のための決断だって、官房長官と幹事長に伝えといて」
「……」
 三橋はもう何も言うことはできず、黙って部屋を出た。

 ――ヤバイヤバイ、ヤバいぞ。総理、完全に壊れてるじゃないか!

 片田に長く仕えて来たスタッフも、片田の父親の手術のことや、本郷怜人の一件は知らなかった。側近で知っているのは白石だけかもしれない。
 政治はそもそもキレイごとではない。それは分かっていても、殺人に手を染めているとは思わなかった。
 三橋は、急に片田という人物が恐ろしくなった。自分も、何らかの理由で追い込まれるかもしれない。そうなる前に逃げたほうがいいのではないか――。
 そんな迷いが生まれていた。足が鉛のように重い。


 深夜の歌舞伎町。
 一人の酔っ払いがキャバクラから放り出された。
「なんだよっ、金ならあるんだぞ!?」
 男は路上に座り込んで、ボーイに向かって抗議する。
「なら、売春婦でも買って遊べよ。その辺で客引きしてるんだからさ。うちの店の女の子たちに触りまくるんじゃないよ。二度とここには来るな!」
 ボーイは荒々しくドアを閉めた。
「なんだよっ」
 男はブツブツ文句を言いながら、立ち上がる。お酒の飲みすぎで、まっすぐに立てない。
 右にフラフラ、左にフラフラしながら歩いていると、「やっぱりここか」と誰かが前に立ちはだかった。見上げると、ジンが仁王立ちしていた。

「なんだ、ジンか」
「なんだじゃねえよ。お前、アミを売ったな?」
「なんのことか、さーっぱり」
「誤魔化すんじゃねえよ。こんな高級キャバクラで遊ぶだけのお金を、お前が持ってるはずないだろ? 誰かに大金をもらったんだろ?」
 ヒロは何も答えずに、右に左に揺れている。
「おい、アミはどこに行った?」
「知らねえ、よ。アミ、なんて」
「おいっ、お前の娘だろうが!」
 ジンはヒロの胸倉をつかんだ。

「なんで売ったんだ? あいつらに何されるか分かんねえんだぞ?」
「知らない、なんのことだか」
「なんでお前、たった一人の家族に対して、そこまで非情になれるんだよ。アミは、お前みたいな父親でも慕ってんのに。お前だって、分かってるだろ?」
「知らねえよっ、んなことっ。離せ、離せよっ」
 ジンが手を離すと、ヒロはへたりこんだ。
「オレ、オレなんかのそばにいないほうがいいんだよっ」
「……おい、何て言われたんだ?」
 ジンはしゃがんで、ヒロの顔を睨みつける。

「アミを売ったヤツに、何て言われたんだ?」
「アミを引き取りたい夫婦がいるって。子供がいない金持ちの夫婦で、小さな娘を欲しがってるんだって。アミはしゃべれないって言ったら、しゃべれるようになる手術をさせるんだってさ」
「お前……」
 ジンはガックリと頭を垂れる。
「それは大ウソだぞ……ウソだって分かってたんじゃねえか?」
「分かんねえよ、なあんにも。何でもいいよ、あいつがちゃんとしたとこに引き取られるんならさ」
「西園寺の夫婦が面倒見てくれてるじゃねえか!」
「どうせ、一生じゃないだろ? レイナだっていつかあの家から出てくだろ? そしたら、アミも用なしだ」
「用なしとか、そんなレベルでアミやレイナのことを考えてねえよ、あの夫婦は!」
 ヒロはフンと鼻で笑った。
「どうだか。金持ちの考えてることなんて、オレには分かんねえよ」
「いいか、アミを買いたいって言ってきたヤツは、足を引きずってたか?」
「まあ、そうかな」

「そいつは片田の秘書だ。総理大臣のな。片田はレイナの父親を殺したらしい。美晴さんの夫をな。美晴さんは、片田と闘ってるんだよ、今。だから、美晴さんのまわりにいるレイナやアミにまで危害が及んでるんだ。美晴さんを止めるために、アミに何をするか分からんぞ? 殺されるかもしれない」

 だが、ヒロはジンの言葉を聞いても、何の感情の変化も見せない。ポツリと「喉、乾いた」とつぶやいた。
「お前っ……」
 ジンは胸倉をつかんだが、殴るのはかろうじて堪えた。
「じゃあ、アミがどこに連れてかれたか、知ってるか?」
 ヒロはゆっくりと横に首を振る。
「もういいっ」
 ジンは舌打ちして立ち去ろうとした。

「あいつに言ってくれ」
 ヒロはつぶやくように言う。
「アミに、オレを忘れろって。二度と戻ってくんなって言ってくれ。オレはもう死んだんだ。とっくの昔に死んでるんだ」
 ヒロの背中は小刻みに震えている。
 ジンはしばらくヒロを見つめていたが、それ以上、何も言わずに立ち去った。