「今、先方から連絡があって、予定通り、進めてほしいって言われたんで」
「先方ってどこですか?」
「さあ、区役所なんじゃないですか。僕も、細かいことは聞いてないんで」
「だったら、区役所の担当者が、これから来ますって。ちゃんと確かめてからのほうがいいんじゃないんですか?」
「じゃあ、その人に聞いてみたらどうですか?」

 そのタイミングで、裕のスマホが震える。画面の表示を見ると、小田沼からだった。
「もしもし?」
「あ、西園寺さん、今、か、かく、確認したんですけど」
 小田沼はあきらかに取り乱している。
「僕も、よく分かんなくて……なんか、その団地を国が買い取ったらしくて」
「え? どういうことですか?」
「それが、僕も分かんなくて……西園寺さんを通さずに売買なんて、できるわけないし」
「そうですよね」

「今、上の人が国に確認してるんですが……そこの団地は再開発のために取り壊すことが決定したって言われたらしくて。とりあえず、事情が分かるまで工事を止めてほしいって言ってるんですけど、全然聞く耳を持たないらしいんです」
「そんな」
 裕は絶句した。
 誰がそんなことをしたのか。聞かなくても分かる。
「とり、とりあえず、何かわかったら、また連絡します。でも、その解体は止められないかもしれなくて……力不足で、申し訳ないというか」
「そうですか……ご尽力、感謝します」
 裕はスマホを切った。裕のその表情を見て、現場監督は「ほら見たことか」という顔をしている。

「とりあえず、荷物を運び出すまでは待ちますよ。だから、とっとと運び出してください」
 住人に言い放つと、作業員に指示を出しに行ってしまった。
「え、どういうこと?」
「壊されるのを止められないの?」
 住人はみな、裕の顔をすがるような目で見る。
「国がこの団地を買い取ったようなんです。僕も今初めて聞いて」
「どういうことだよ? じゃあ、俺ら、これからどこに住めばいいんだよ?」
 裕はその一言にハッとした。
 
 ――そうだ。ここがなくなったら、今日から住む場所がなくなるんだ。

「それは区役所に相談してみます」
「なんだよ、もう」
「いきなり住む場所を奪われて、どうしろって言うんだよ」
 レイナはみんなのやりとりを、オロオロしながら見ているしかなかった。

「あんたのせいよ」
 ふいに、背後から声をかけられる。振り向くと、ルミが眉を吊り上げて立っている。寝ているところを叩き起こされたのか、ナイトガウン姿だ。
「あんたが、ここに住めばみんなつらい生活から抜け出せるって言うから、ここに来たんじゃない。でも、こんな風に追い出されるなら、あのままゴミ捨て場にいたほうがよかったわよ。みんなの人生をめちゃくちゃにしてっ」
「そうだそうだ」「ゴミ捨て場に戻してよ!」と、他の住民も同調する。レイナは後ずさった。

「やめなさいっ」
 マサじいさんが一喝する。
「レイナは何も悪くない。悪いのは、国だ。あいつらは、いつもいつも、オレの大事なもんを奪っていくっ」
 怒りで震えるマサじいさんの姿を、レイナは初めて見た。
「お前らもそうじゃないのかっ。大事なもんを奪われて、ゴミ捨て場に来たんじゃないのか? タクマだって、ゴミ捨て場に住んでなかったら、あんな死に方をしなずに済んだ。他の子供たちもだっ。お前らは、それを忘れたのか? この国に何をされたのか、忘れたのか?」
 住人は、マサじいさんの迫力に気圧されている。

 マサじいさんは荒い息を整えると、ふっと表情を緩めて、「レイナ、ジンの部屋に行って、荷物を運び出してくれないかな」と言った。
 レイナは黙ってうなずく。
「オレのは何か残ってるかな……」
 マサじいさんがよろめきながら歩き出すのを、レイナは支えた。
「レイナ、僕も一緒に行こう」
 裕は駆けつけた笑里と森口を呼んで、手短に状況を説明する。
「すみません、とにかく区役所に相談するので、それまではうちに来てください」
 みな、トボトボと自分の部屋に荷物を取りに戻って行った。

 アミは、ヒロが離れたところにぼんやりと座り込んでいるのを見つけた。
「パ……パ」
 近寄ると、酒臭い。アミの顔を見ようともしない。
「い、い、行こ」
 アミはヒロの腕を引っ張って、西園寺家に行こうと誘う。だが、その手をヒロは振り払った。
「今さら、構うのはやめなさいよ。自分の父親を捨てたくせに」
 ルミがヒロの後ろに立ち、アミを見下ろす。
「……⁉ ち、ちあう」

「違わないわよ。あんたはゴミ捨て場でヒロさんと一緒にいることより、あの先生の家で暮らすことを選んだんじゃない。それは父親を捨てたってことになるでしょ」
「ち、ちあう! ちあ」
 アミは必死に否定するが、ヒロの耳には何も届かないようだ。
「行きましょ」
 ルミに促されて、ヒロはノロノロと立ち上がり、西園寺家とは反対方向に歩き出した。
「パ……パァ」
 アミはつぶやくように呼びかけるが、ヒロはついに一度もアミを見ることはなかった。