その日もレイナは、日課であるベルの散歩に出かけた。
 ゴミ捨て場の住人が近くに越してきてからは、団地に立ち寄ってクロやマサじいさんに挨拶するのも、朝の日課の一つになった。
 最初は、ベルはクロを怖がって吠えまくっていたが、今では仲良しになり、一緒に庭を駆けまわっている。

「どうした? 元気ないじゃないか」
 マサじいさんは相変わらず庭につくった畑仕事に精を出している。
 犬が遊んでいるのを膝を抱えて見ているレイナの表情が暗いことに、すぐに気づく。 
「うん……あのね、二枚目のアルバムが来年出ることになってたの」
「先生がいい曲をたくさんつくってくれたんだろう?」
「うん。それを出せなくなったの。一枚目のアルバムも、もうファンの人が買えなくなっちゃうんだって」
「そりゃ、なんでまた」
「私のことを邪魔する人がいるんだって。総理大臣が私のことをよく思ってないって言ってた」

 マサじいさんは顔を上げた。
「片田か? ゴミ捨て場の住人を排除しようとして、この間もすったもんだあったばかりじゃないか」
「うん。なんかね、私がゴミ捨て場で歌ってるのが気に入らないみたい。私が総理の言うことを聞かないのも気に入らないんだって」
「そんなことぐらいで、レイナの歌を出せないようにしたのか? 心が狭いと言うか何と言うか、一国のリーダーがそんなちっぽけな人間なんてなあ」
 マサじいさんはあきれ顔だ。

「何を恐れてるんだかなあ」
「恐れてる?」
「そりゃそうさ。そこまで圧力をかけてくるってことは、レイナの何かが怖いんだろう」
 レイナは首をかしげる。
「まあ、すぐには意味が分からないだろうけど。でも、先生たちが何とかしてくれるんじゃないか?」
「うん。スティーブに相談して、海外で出せるようにしてみるって言ってた」
「そうか」
 マサじいさんはレイナの肩をポンポンと叩く。
「まあ、なるようになるさ。人生、悪いことばかりじゃない」


 団地を出て西園寺家に戻ろうと、レイナはベルの後をついて歩いていた。ベルはちょこまかとせわしなく走る。

 ――海外で出せるなら、日本のファンも買えるって言ってたから、何とかなるよね。裕先生も笑里さんも落ち込んでるみたいだから、私ばっか落ち込んでられない。

 いつの間にか、レイナの背後に黒塗りの車が音もなく忍び寄っていた。軽くクラクションを鳴らされ、レイナは飛び上がる。
 端に寄ってよけると、車はレイナを追い越すかと思いきや、ゆっくりと止まった。
 ウィンドウが開き、「やあ、おはよう」と男が顔を出した――片田だった。レイナは目を見開く。
「朝早くから、犬の散歩ですか。偉いですね」
 にこやかな笑顔を浮かべているが、目はまったく笑っていない。レイナは生まれて初めて、「恐怖で鳥肌が立つ」という経験をしていた。

「色々と大変みたいだね。アルバムを出せなくなったって、聞いたよ」
 レイナはリードを握りしめた。ベルが心配そうな目でレイナを見上げる。
「あなたが……あなたがそうさせたって聞いた」
「おや、何のことだろう」
「官邸ってところが、レコード会社に私の曲を出すなって言ったって。官邸って、おじさんがいるところでしょ?」

 片田はおじさんと呼ばれて苦笑する。
「人聞きが悪いなあ。私がそんなことをするひどい人間に見えますか?」
 レイナは大きくうなずく。
「うん。見える。ママが言ってたの。言葉遣いは丁寧でも、目が笑ってない人には注意しろって」
 片田の笑顔が凍りつく。

「なんで? なんでこんなことをするの?」
「私が指示を出しているわけではないですよ。勘違いしないでいただきたい」
 片田は真顔になる。 
「まあ、原因は君にあるんでしょ。君がいるだけで、君の大切な人たちが傷つくんだから」
「どういうこと?」
「おや、聞いてないのかな。君の大切な西園寺先生や笑里さんの仕事がなくなったってことを」
「え?」

「西園寺先生は、君の他にも、いろんな人に歌をつくってたでしょう。その歌は全部出せなくなったんですよ。笑里さんって人は、音大で教えてたでしょ、確か。その仕事も打ち切られたって聞いてます」
 レイナは絶句した。
「ウソ、そんな……そんな話、先生たちしてないよ」
「君を傷つけたくなくて話してないんでしょう。美しい話だ」
 片田は鼻でフンと笑う。

「だけどね、このままだと先生たちはずっと仕事がないままですよ。今の家にも住めなくなるだろうし、そんな犬を飼ってる余裕もなくなるんじゃないかな」
 片田はベルを顎で指す。ベルは何かを感じたのか、低い唸り声をあげる。 
「じゃあ、どうすればいいの?」
 レイナはかすれた声を上げる。
「ゴミ捨て場では二度と歌わないこと。ゴミ捨て場の人たちと交流を持たないこと。それを守ってくれるなら、君はアルバムを出せるし、先生たちも仕事をまたできるでしょうね」
「……」
「まあ、考えときなさい。君が意地を張ってる限り、周りの人は不幸になるだけですよ」

 スルスルと窓が閉まり、車は走り去った。
 レイナは車が見えなくなっても、しばらく動けなかった。ベルが心配そうにレイナに向かって、「ワン」と吠える。