「レイナちゃん、総理大臣って、誰か分かるかな? 日本で一番偉い人だよ」
 白石がレイナに言う。
「違うよ、一番偉い人じゃないよ」
 レイナは笑顔で否定する。
「世の中で一番偉いのは、汗水たらして働いてる人だって、ママもマサじいさんも言ってたもん。工事してる人とか、街を掃除してる人とか、農家さんとか漁師さんとかが偉いって、いつも言ってたよ」
 レイナの言葉に、片田と白石は固まる。
「え、ちょっとちょっと、お宅ではこんな基本的なことも教えてないんですか?」
 白石が皮肉な笑みを浮かべながら裕を見ると、「白石君、やめなさい」と片田が制した。

「レイナさんの言うとおりだ。一番偉いのは、汗水たらして朝から晩まで働いてる人だ。私は、そういう人たちのお陰で、こんな生活をできてる。大切なことを教えてくれたね」
 片田は笑顔になったが、その目はまったく笑っていない。
「総理、ちょっと」
 他の側近が呼びに来て、片田は「今日の歌、楽しみにしてますよ」と去って行った。
 白石も面白くなさそうに部屋を出て行く。

「私、今、一瞬ヒヤッとしちゃった」
 笑里はそっと裕に耳打ちする。
「ああ。レイナは相手が誰でも自分を変えないところがすごいな」
「何も知らないからだろうけど」
「それなりに分かってるよ、きっと。レイナに聞かれて、総理大臣は何をする人なのかを教えたからね。それでも変えない。レイナは、僕らが思っている以上に芯が強いんじゃないかな」

 
「私が総理大臣になったのは14年前、56歳の時でした。あの時は国会議事堂を占拠しようとした輩がいて、国内が大混乱に陥った時期でした。皆さんもご記憶ではないでしょうか」
 片田が招待客の前でマイクを手に話している。
 大ホールでは円卓を囲んで100人ぐらいの招待客が、片田の話にうなずきながら聞き入っている。タキシードを着た給仕が、次々と料理をテーブルに運んでいる。
 レイナたちは会場の外で待機していた。
「レイナ、ここの会場で食事をしている人に向かって歌うんじゃなくて、料理を作ってる人や、運んでる人に向かって歌うんだ」
 裕はそっとレイナに耳打ちする。
「その人たちが、汗を流して働いているんだ。総理大臣より偉いんだよ」
「後、外にいる警備員さんもね」
 笑里が付け加えた。
 レイナは目を輝かせる。

 片田の話はダラダラと30分ほど続いた。待ちくたびれたころに、「それでは、ここで、影山レイナさんにご登場いただきます」と女性司会者の声が聞こえて来た。
「レイナさんは皆様もご存じかもしれませんが、ゴミ捨て場で生まれ育ち、そこで歌っている様子を撮影した動画が世界中で話題になり、今や日本を代表するシンガーとしてご活躍されています。皆様、拍手でお迎えください!」
「さあ、行こうか」
 裕と二人でホールに入ると、拍手がパラパラと起きる。みな片田の話が終わるのと同時に一斉に食事を始めて、レイナに興味がないのは明らかだ。
 
 二人は顔を見合わせる。裕は「気にしない、気にしない」とそっと言う。
 歌うのは部屋の隅。そのことからも、あまり歓迎されてないのが分かる。
 裕は黒いアップライトピアノの前に座った。
 司会者の女性がレイナの経歴をメモを見ながら説明しているが、招待客はおしゃべりに興じている。

「えー、それでは、最初の曲は『はじまりの明日』ですね。レイナさん、よろしくお願いします」
 司会者がレイナにマイクを渡そうとするが、「マイクは大丈夫」とレイナは断った。
 裕が静かに伴奏を奏でる。レイナは目を閉じ、深呼吸をしてから歌いだす。
 最初は、やさしく、やわらかに。サビに向けて、徐々に声量が上がっていく。
 何人かの客が手を止めてレイナを見る。
 サビでレイナは全開で歌う。
 キッチンにいる料理人に聞こえるように。建物の外にいる警備員に歌が届くように。
 ゴミ捨て場の時と同じぐらいの声量で、全身を楽器にして声を出す。
 ホールの壁がビリビリと震える。
 招待客はみな、呆気に取られてレイナを見る。あまりの声の大きさに、耳を覆う人もいた。
 
 建物中にレイナの歌声が響き渡る。 
 食事を運んでいた給仕係が、階段で足を止めた。地下のキッチンでは料理人たちが、「ウソ、これ、レイナの歌?」「すごい、ここまで聞こえるなんて」と手を止める。
 建物のあちこちにいる警備員は、驚き戸惑いながら、どこから歌声が聞こえてくるのかとキョロキョロしていた。
「なんて、キレイな声」
 目を閉じて聞きほれる者もいれば、口ずさんでいる者もいる。


 森口は今日もレイナや裕たちを送迎するために来ていた。
 駐車場には、そんな運転手が何人もいた。みな車の外に出て、時間をつぶしている。
 森口は軽く体操をしていた。近くにいた警備員が不審な目で見ているので、「年を取ると、ずっと座っているのがつらくてね」と森口は説明する。

 そこに、レイナの歌声が聞こえてくる。
「ほう、今日もいい声だ」
 うっとりと耳を傾けていると、ほかの運転手や警備員たちは「歌?」「どこから聞こえてくるんだ?」とあたりを見回している。
 やがて、みな歌声に耳を澄ませる。夜空に染み渡るような、切ない歌声。
 歌が終わると、森口は拍手をした。他の運転手たちも、大きな拍手をしている。目頭を拭っている者もいた。
 見上げると、星がチラチラ瞬く、満月の夜空。
「いい夜だ」
 森口はつぶやいた。