「レイナさん、本番10分前です」
 スタッフの声に、レイナは顔を上げた。
「はあい、よろしくお願いします!」
 目の前の鏡には、ステージ用に着飾った自分が映っている。
 日産スタジアムの控室。一年前は、スティーブのライブのゲストとして招かれたステージに、今度は自分一人で立つことになった。

「本日は影山レイナファーストツアー『REINA』にご来場いただき、ありがとうございます。間もなく開演となります」
 会場にアナウンスが流れる。
 レイナは鏡に映る自分をまじまじと見た。
 一年前より背が伸び、ぐっと女性っぽくなったスタイル。胸が隠れる長さになった髪は、アンソニーがキレイにアップしてくれた。そこには、タクマからもらったバレッタが留めてある。

 この一年間は、あっという間だった。
 スティーブのワールドツアーに参加し、10か国を回った。裕や笑里、トムやアミも一緒だったので、その間は楽しく過ごせた。
 今までゴミ捨て場と裕の家の周辺ぐらいしか知らなかったのに、いきなり海外に出たのだ。
 見るもの聞くもの、すべてが初めてのことだらけで、レイナは興奮しすぎて何回か熱を出して寝込んでしまった。そのたびに笑里が夜も眠らずに懸命に看病するので、レイナははしゃぎすぎないように気を付けるようになった。

 帰国してからは、すぐにレコーディングに入った。裕のプロデュースで本格的にデビューすることになり、ファーストアルバム「REINA」は世界中で1000万枚を売り上げたのだ。
 今は街を歩くと、ビルの上にはレイナのアルバムの広告が掲げられ、いたるところからレイナの歌声が聞こえてくる。レイナのスケジュールは連日テレビやネットの出演でビッシリ埋められ、休む間もない。ファーストツアーは日本全国で行われることになった。
 今日は、その最終日。客席にはゴミ捨て場の仲間もいるはずだ。

 今は、ゴミ捨て場にいた時よりも、ずっと多くの仲間に囲まれ、日々いろんな人に出会っている。
 何もかも、順調だ。だが、時折レイナは無性に寂しくなる。

 ――ママ。私、14歳になったよ。

 美晴は、一年前に楽屋に電話してきて以来、音沙汰がない。

 ――早くママに会いたい。どこかで見てるのなら、声だけでも聴かせて、ママ。

 レイナはいつも、そう祈り続けている。

 楽屋のドアを開けると、客席の高揚感が通路にまで伝わってくる。
「さあ、お姫様、準備はいい?」
 アンソニーの言葉に、レイナは「もちろん!」と返す。裕はいつも通り、ゆったりと微笑んでいる。その顔は、一年前に比べると小皺が多くなった。
 ステージの袖に来ると、最初の曲の前奏が始まった。客席から一斉に歓声が上がる。
「レイナ、レイナ、レイナ、レイナ」と、みんなが声を合わせてレイナを手拍子で呼ぶ。
「さあ、出番だ」
 裕が背中を軽く押す。レイナは一呼吸おいて、光の渦の中に飛び出した。そのとたん、爆発したような歓声が空に響き渡る。


「お疲れ様でしたあ」
 スタッフに挨拶をしてから、レイナは裕と一緒に楽屋を出た。
 レイナはまだ未成年なので、最終日でも飲み会はできない。楽屋で、みんなで簡単に打ち上げをして、ツアーは終了となった。3カ月間一緒に過ごしてきた仲間なので、別れるのが名残惜しい。一人一人と握手をして、「また会おうね」と約束して、別れた。

「レイナさん、お久しぶりです!」
 森口が紅潮した顔で車のそばに立っている。
「森口さん、久しぶり!」
 レイナは駆け寄る。
「元気だった?」

「ええ、元気ですとも。私も、今日は芳野さんとゴミ捨て場の皆さんと一緒に、ライブを拝見していたんです。いやもう、すごい熱狂でした。私たちは席に座りっぱなしだったけど、まわりのみんなは歌に合わせて飛んだり跳ねたり、汗だくで。そういえば、マサさんでしたっけ、あの方は、若いころはライブハウスに入り浸っていたって、しきりに言ってましたよ。こういう雰囲気は懐かしいって。ジンさんは『こういう場には慣れない』って腕組みして、ずっと座って聴いていたけど、ラストでは泣いてましたね。それを見て、私ももらい泣きしてしまって」

 森口は興奮のあまり、話が止まらなくなっているようだ。裕は苦笑して、「森口さん、帰りましょうか」と声をかけた。
「ああ、失礼しました」
 たくさんの差し入れをトランクに入れて、車は緩やかに発進する。
「芳野さんにも、早く会いたいな。芳野さんのオムレツ、早く食べたい」
「ええ、ええ。芳野さんは先に帰って、きっとオムレツを作って待っててくれてますよ」
「ホントに? やったあ」
 森口とひとしきり会話をしてから、レイナは窓の外の光景を眺めた。心地よい疲労感が体を包んでいる。

 街を行きかう少女たちの髪には、赤いバレッタが飾られている。
 ファンの間で、レイナが将来を約束した大切な人からもらったバレッタだという話は広まっていた。ヒカリに踏みつけられ、ボロボロになったバレッタを大事につけている姿に、ファンはまた心打たれるのだ。

 今は赤いバレッタをつけるのがブームになっている。少女たちは、赤いバレッタをつけた自撮り画像を嬉しそうにインスタやツイッターにアップしている。
 いくつも類似商品が生まれて、レイナのもとにも送られてきた。だが、タクマからもらったバレッタ以外をつける気にはなれない。

 今でも、13歳の誕生日の夜を、昨日のことのように思い出す。タクマのはにかんだ笑顔、真剣な目、手のぬくもり――。
 思い出すたび、胸がキュッと締めつけられる。

 ――お兄ちゃん。私、今は街で暮らしてるんだよ。本当は一緒に街に来たかったのに。お兄ちゃんと一緒だったら、きっともっと幸せだった。

 レイナは赤いバレッタをつけて楽しそうに笑っている少女たちを見ながら、寂しそうに微笑む。


「ただいまあ」
 家のドアを開けると、アミとベルが駆け寄って、レイナに飛びついた。
「おか……り」
 アミは一生懸命、覚えた言葉を話す。
 アミは今、ろう学校に通っている。手話と聴覚口話法を学び、多少は話せるようになった。
 この一年間でアミは同年齢の子に近い体格になってきた。身体から傷やあざも消え、ゴミ捨て場にいたころとは見違えるような健康児になった。笑顔も多くなり、懸命にしゃべろうとしている姿を見ると、レイナはジンとする。

 ベルに「ただいま」と頭をなでてあげると、しっぽを嬉しそうに振る。
「お帰りなさい。また大人っぽくなって」
 笑里も笑顔で出迎えてくれた。笑里は大学の講義があるので、国内のツアーには同行していなかった。旅に出ている時は、毎晩、スカイプで笑里やアミと話をしていた。
 芳野もキッチンから出て来る。
「お帰りなさい。レイナちゃんの大好きなオムレツを作っておきましたよ」
「ありがとう! 芳野さんのお土産も買ってきたからね」
 家中にいい香りが漂っている。アミに手を引っ張られながら、レイナはダイニングに向かった。
 幸せなひと時。
 ここが今は、紛れもないレイナの我が家だった。