運転手はラジオをニュースに合わせた。
「ただいま、政府が緊急警報を発令しました。詳しい情報は入り次第お伝えします」
 ラジオ局も混乱しているようで、アナウンサーは何回も同じことを繰り返している。
「ただいま、速報が入りました」
 ガサガサという音声が聞こえる。メモを読んでいるのだろう。
「えー、先ほどからお伝えしてますように、今日の午前7時ごろ、本郷怜人衆議院議員が国会議事堂を占拠しようと議場を襲撃しました。警視庁に移送されていたのですが、つい先ほど、本郷議員の議員宿舎から、女性の遺体が発見されたとのことです」

 美晴は息を止めた。

 ――女性? 女性の遺体って、どういうこと?

 急いでスマホを取り出す。
 動画でニュースサイトを見ると、議員宿舎の入り口が映し出された。そこから白い布をかけられてタンカにのせられた人が運び出されてくる。一斉にカメラのフラッシュが焚かれる。
 布に覆われていて、顔も性別も分からないが、腕がダランとタンカから垂れ下がっている。その手首には、赤いミサンガ。

 ――真希さん!

 美晴は叫び声をあげそうになるのを、何とかこらえた。

「なんですかね、この本郷って議員、人を殺してたってことなんですかね。とんでもないやつですね、国会を襲撃して、人を殺したなんて」
「違うっ、そんなんじゃないから!」
 美晴は思わず否定する。
 運転手はバックミラー越しに、「お客さん、関係者ですか?」といぶかしげな視線を投げかける。
「その……支援者で」

「ああ、そうですか。じゃあ、ガッカリしたでしょ。オレもね、ひそかに応援してたんですよ、本郷怜人はこの国をよくしてくれるんじゃないかって思って。選挙法案だって、あんなのが通っちゃったら、日本はおしまいでしょ? だから何とか食い止めてくれるんじゃないかって思ってたんだけど。衆議院は通っちゃうしねえ。だからって国会を占拠するなんて、無謀すぎるし。もうちょっと考えて行動する人だと思ってたんだけど。こんな騒動起こしたって、何の得にもならないのにねえ」

 ――違う。違うの。もう占拠するしか食い止める方法はなかったんだから。怜人は本気でこの国を守ろうとしたんだから。

 美晴はそう伝えようとしたが、涙がこみあげてきて、言葉が出ない。
 声を上げて泣き出した美晴を見て、「そんなに熱心なファンだったんですか。そりゃあショックでしょ、こんな暴動起こしちゃって」と運転手は気の毒そうに言う。

 ――違う。そうじゃない。そうじゃないの。

 打ち消そうと思えば思うほど、嗚咽は止まらなくなるのだ。

 ――誰よりも正義を信じて貫こうとしてたのに。もう、こんな風にしか人には記憶されないんだ。そんなの哀しい。哀しすぎる。

 美晴の肌に怜人の体温が蘇る。
 屈託なく笑った顔。汗交じりの肌の匂い。「愛している」と、囁く声。抱きしめてくれた時の、意外とたくましい腕。美晴をいとおしそうに見つめる瞳。
 すべてすべて、なくなってしまった。怜人には二度と会えないのだ。

 ――あの手を、離さなければよかった。

 美晴はもう、堪えきれなくなっていた。

 ――ずっと一緒にいようって言ったじゃない。二人で暮らそうって、約束したじゃない。一人で先に逝っちゃうなんて。ひどい。ひどいよ、怜人。もう、夢なんて見られない。あなたと一緒じゃないと、あなたがそばにいないと、もう何もできないよ。もっと一緒に笑っていたかったのに。もっと一緒に語り合いたかったのに。もっともっと、抱きしめてほしかったのに。

「お客さん、大丈夫ですか?」
 運転手が心配そうに聞くが、美晴に答える余裕はない。
 胸を刺すような悲痛な泣き声だけが、車内に響く。


 その場所に着いたのは、夕方になっていた。
 真っ赤な夕焼けが空を焼き尽くすように広がっている。
 美晴はスマホの写真に写っている家と、目の前の家を見比べた。それは怜人に送ってもらった家族の集合写真だ。
 タクシーに最寄駅まで送ってもらい、さらにそこでタクシーを乗り換えて、本郷家に着いた。
 タクシーが走り去り、美晴は改めてその家を見上げた。話に聞いていた通り、大きな家だ。

 ここに来るまでの数時間、カーラジオを聞いていたが、たいした情報を流さないまま、「緊急警報が発令された」と繰り返すだけだった。インタビューに応じた有識者も困惑しながら、「何が起きているのかさっぱり分かりません」と答えていた。

 やがて、怜人が留置所で首を吊って亡くなったと報道された。
 女性を殺害したことが発覚するのではないかと恐れて、自ら命を絶ったのではないかと、何人もの専門家がもっともらしく分析していた。
 そして、本郷家に着く直前、選挙法の改正案が参議院で可決されたと、つけたしのように報道された。

 ――怜人が命を賭けて止めようとしたのに……。結局、何も、何も変えられなかった。

 美晴の目から、また涙がこぼれ落ちた。

 ――怜人、怜人。せめて、最期は一緒にいたかった。

 その時、一人の老人が家から出て来た。
「お父さん、こんな日に散歩をしなくてもいいじゃないですか」
 呼び止める声が聞こえる。
「いいや、こんな日だからこそ、いつも通りに過ごさなきゃいかん」
 老人は大きな犬を連れている――写真に写っていた、怜人の祖父だ。
 美晴は涙をぬぐい、老人の前に立ち、「あの」と声をかけた。


「あの」
 美晴の呼びかけに、老人は目を見張った。
 美晴の頭のてっぺんから爪先まで、無遠慮にジロジロと眺める。
「ああ――驚いた。君、美晴さんか?」
「ハイ」
「生きていたのか」
「ハイ、何とか。お久しぶりです」
 美晴は頭を下げた。

「ずいぶん、変わり果てて……。何年ぶりだ?」
「13年ぐらいです」
「そうか、そんなに経つのか。突然姿を消したから、どうしたのかと思ったよ。方々を探したんだ」
「すみません、皆さんには迷惑をかけたくなくて」
「今まで、どこにいたのか……。とりあえず、お風呂に入って、汚れを落としたほうがいいな。話はそれからゆっくり聞こう」
「ありがとうございます」

 老人の足元には小型犬がいた。大型犬は寿命が来たのだろう。
 そして、老人は杖を突いている。かなり足元がおぼつかないようだ。

「それにしても、君が来たということは、時が来たということかな」
「ハイ。今こそ、怜人さんの無念を晴らそうと思ってます」
 美晴は老人の目をまっすぐとらえた。茶色の瞳。怜人と同じだ。
「そうか。分かった。この13年間、ずっとその時が来るのを待っていたよ」

 空には13年前のあの日と同じ、夕焼けが広がっている。空を焼き尽くすような、鮮紅色の雲が空を覆っていた。