タクマの小屋に向かうと、ピアノの音が聞こえてきた。
 ピアノを手に入れてから、タクマは毎日、暇さえあればピアノを弾いている。元トレーダーの住人に頼んで、タブレットでピアノの弾き方の動画を見せてもらっているらしい。
 レイナが今まで聞いたこともないような曲を、タクマは次々と演奏している。
「小さいころに習った、バイエルの曲なんだ」「これはブルグミュラー」と言われても、レイナにはチンプンカンプンだ。
 ただ、世の中には美しい曲がたくさんあるのだけは分かる。そして、そんな曲を聴いている間は、レイナにとっても至福のひとときなのだ。

「お兄ちゃーん!」
 ピアノは小屋には入らないので、外に置いてある。ピアノに雨がかからないよう、ジンが簡単な雨除けをつくってくれた。
 タクマはレイナに気づくと、演奏を止めた。
「今日は、鉄くず、売れた?」
「うん。廃品回収のおじさんが年末だからってちょっと奮発してくれた。それでお正月にはお雑煮を食べようって母さんと話してたんだ」
「お雑煮?」
 レイナは首を傾げる。
「レイナの分も作るから、お正月においでよ」
「うん、分かった」

 レイナはタクマの横に腰かけた。ピアノの長椅子も一緒に捨てられていて、ゴミの山から持って来たのだ。
「今日は何の曲弾いてるの?」
「エーデルワイスって曲」
 タクマはつたないながらも、エーデルワイスを両手で弾いた。
 両手で別々のメロディーを奏でられるのが不思議で、レイナは魔法を見ているように、いつもタクマの指使いに見入るのだ。
「エーデルワイスっていう花があるんだって。白い花だって歌にあるんだよ」
「ふうん、かわいい曲だね」

 レイナは鼻歌で、今聞いた曲を歌った。タクマは目を丸くする。
「レイナ、一回しか聞いてないのに、もう覚えたの? 耳がいいんだね」
「たぶん、覚えやすい曲なんだと思う」
「それでも、普通は一回では覚えられないよ」
 タクマは、ピアノを弾きながらエーデルワイスを歌った。か細い声で、途中で何度も指が止まる。それでもレイナはじっと耳を傾けた。
 何回か聴いているうちに、レイナはすっかり歌詞を覚えて、ピアノに合わせて歌った。

 二人だけの、小さな小さなコンサート。タクマは嬉しそうに「もう一回歌って、レイナ!」とリクエストする。
 ひとしきり歌った後、喉が渇いたので、お茶を入れて二人で飲んだ。すっかり体は温まっていて、むしろ冷気が心地よい。
 ふいに、「僕、歌を作ったんだ」とタクマは言った。
「えっ、お兄ちゃん、歌を作れるの?」
「簡単な歌ならね。昔、ピアノのレッスンで曲の作り方を習ったんだ」
「へえ、どんなの、どんなの?」
 タクマは簡単な前奏を弾き、大きく息を吸いこんで、ピアノを弾きながら歌いだした。

♪ 君に一つの花をあげよう
それは勇気という名の花で
君の胸の奥で
決して枯れることなく
咲き続けていくだろう

君と一つの山を越えよう
高く険しく
果てしなく見える山だけど
君と一緒なら
乗り越えることができるんだ

君に一つの声を聞かせよう
たった今 
僕の胸の中に生まれた声を
君に伝えるために
僕はここにいるのだと思うんだ ♪

 か細い声で、しっかりと音程をとらえて歌う。ミディアムテンポのバラードだ。
 レイナはすっかりタクマの姿に見入っていた。
 タクマは顔を真っ赤にして、懸命に歌い続ける。ピアノが最後の音を奏でた後、しばらく静寂が漂う。
「すごい、お兄ちゃん……」
 レイナは夢から醒めたような表情になった。
「すごい、すごいよ、こんな歌を作れるなんて!」
 タクマに大きな拍手を送る。
「単純なメロディを組み合わせただけだから」
 タクマは照れくさそうに頭をかく。

「これ、何て曲?」
「うーんとね、『小さな勇気の唄』って名前をつけた」
「小さな、勇気の唄……」
 レイナはタクマの腕をつかんだ。
「お兄ちゃん、もう一回歌って。もう一回!」

 タクマは顔をほころばせた。
 レイナのリクエストを受けて、もう一度ピアノを弾きながら歌う。
「もう一回!」
 もう一度ピアノを弾きはじめると、レイナも一緒に「君に一つの花をあげよう」と歌いだした。タクマは目を見張る。
 最初は軽く合わせて歌っていたが、途中で椅子から降りて、全身を使って声を出した。タクマのピアノの演奏も大きくなる。
「そうだレイナ、もっと大きな声で!」
 タクマの一声に、さらに声を張り上げる。
「ダンプカーの音に負けないように!」
 空に向かって、身体の底から声を出す。

 歌い終わったとき、拍手が鳴り響いた。タクマの母親のマヤが、いつの間にか小屋の窓から顔をのぞかせていた。
「ごめん、おばさん、起こしちゃった?」
 マヤは病弱で、しょっちゅう寝込んでいる。今も風邪が長引いていて、外には出られない状態だという。
 マヤは青白い顔をしながら、弱々しい微笑みを浮かべた。
「レイナちゃんの歌声を聞いてると、何か元気が出てくるの。ホント、いい声」
「ありがとう。この歌、お兄ちゃんが作ったんだよ」
「そう。いい歌ね。心に染みる歌」

 それからマヤは、「いつか二人で、世界中を回れるといいわね。タクマがピアノを弾いて、レイナちゃんが歌って」と言い、咳をしながら窓を閉めた。
 ――二人で、世界を回る。
 レイナとタクマは顔を見合わせた。
「行こうよ、レイナ。二人で、世界中を旅しよう」
 タクマは強い光を帯びた目でレイナを見つめる。レイナはコクリとした。