――それから半月後。
夜、いつものように宦官に導かれ、翠蘭は憂炎の部屋への路を歩いていた。迎えに来るのは、いつも同じ宦官だ。本人はほとんど口をきかないし、名乗りもしないのだが、憂炎が呼んでいたので名前だけはかろうじて知っている。肖燗流という名の青年で、年の頃はおそらく憂炎と同じくらいと推察された。
どうやら、彼は憂炎の信頼厚い宦官らしい。従者として常に傍にいるらしく、こうして翠蘭を迎えに行かされるのは少々不服のようだ。
今夜もまた無言のままの彼の後を追いながら、翠蘭は肩をすくめた。
「で?なにか進展は?」
「おまえは、毎晩そればかりだな……」
部屋に入るなりそう問いかけた翠蘭に、憂炎はわざとらしいため息をついた。そんなに直ぐには調べはつかん、と肩をすくめながら、寝そべっていた榻から半身を起こす。
ここに座れ、と手招きされて、翠蘭は仕方なく近寄ると、そこに腰を下ろした。で、と口を開いたところに、彼が手にしていたものを押し込まれる。
「む、ぐ……っ」
憂炎の元へ来るようになってから、時折彼はこういった悪戯じみた態度をとることがある。ただ、これまでにおかしなものを口に入れられたことはないので、おそらくこれも大丈夫だろう。
だが、それでも突然のことに翠蘭は眉間に皺を寄せると、念のため恐る恐る舌の上に載せた。なんだか甘酸っぱい味がする。ゆっくりと歯を立てると、少し弾力がありつつも、すぐにつぶせるほど柔らかい。続いてぷちぷちとした感覚があり、翠蘭は初めての感触に目を瞬かせた。
「なんです、これ……」
「無花果、食べたことないのか?」
そう言った彼の手元には、翠蘭の口に放り込んだのと同じ実がある。それを少し指先で弄んでから、彼はおもむろにその実を割って見せた。外から見たのとは違い、中は赤く熟していて、なんだか少し気味が悪い。
そう感じたのが顔に出たのか、憂炎はくすりと笑うと指で摘まんだそれを、今度は自分
の口に放り込んだ。
「なかなか、甘みが良く出ていてうまいな」
目を細め、満足げに頷いた憂炎がもう半分を口に入れる。その指先をなんとなく見つめていた翠蘭は、その後彼が浮かべた笑みにどきりとして、慌ててそこから目を逸らした。
どうにもいけない。ここのところ、こうしてうやむやのうちに二人でただゆっくりと過ごすだけの日々が続いている。
(なんで、毎日来いなんて……)
よく考えれば、意味の無い行動だ。けれど、迎えが来れば翠蘭は大人しく彼の元へ来てしまう。
それは、彼の目に自分と同じ家族を亡くした哀しみを見てしまったせいかもしれない。
「翠蘭?」
ぼんやりとしていたせいだろう。気付けば憂炎が、ほんのわずか心配そうな色を滲ませてこちらを見ている。
こんなに他人に感情を悟られやすくて、よくぞ皇帝などという地位にいられるものだ。きっと昼間は相当気を張っているのだろう。
そう思って苦笑を浮かべると、彼はむっとしたように唇をとがらせ、手を伸ばして翠蘭の頭をぐしゃぐしゃにした。
「おい、やめろ……っ」
「ふん、俺といるというのに何を考えていた?」
口先ではまるで暴君じみたことをいいながら、その実彼の行動は気を惹きたい子どものそれと変わらないような気がする。
(これが、彼の本来の姿なんだろうな……)
ふと憂炎の姿に弟の姿が重なって、翠蘭は自然と手を伸ばし彼の髪に触れた。さらさらとした手触りのそれは、少し冷たくて、滑らかで心地が良い。
「なにをする……」
そう言いながらも、憂炎は翠蘭の手をはね除けることなく受け入れた。それがなんだか可愛く思えて、思わず唇に笑みが浮かぶ。
その様子を見た憂炎が、一瞬目を見張ったことには気付かなかった。
その晩は、まだ早いうちに彼の元を辞し、翠蘭は与えられた部屋に戻った。部屋の前で送ってくれた宦官の肖と別れ、扉を押して中へとはいる。
その途端、なんともいえない異臭が鼻をついた。
「またか……」
はあ、とため息をつくと、翠蘭は慣れた様子で掃除用具を取り出し、床を綺麗に清めていく。それから窓を開け、空気を入れ替えた。
こうした、異臭を放つ何かを部屋にぶちまけられるのは、これが初めてではない。むしろ、これは嫌がらせとしては初歩の初歩、といったところだ。
憂炎に貰った衣が引き裂かれていたこともあれば、直接足をかけて転ばされたこともある。そういった地味な嫌がらせは、ここ半月の間にかなりの頻度で起きていた。
「今日は早く戻ったから、ないかと思っていたんだけれど……」
窓枠に手をついてぼんやりと外を眺めながら、翠蘭はそう独りごちた。どうやら今日の相手は、ずいぶんと早いうちに仕込みをしていったらしい。
いまだ手狭な室住まいの翠蘭であるから、隣にも人が住んでいるというのに大胆なことだ。しかもその隣人である天佑は、表立って翠蘭をかばってくれる数少ない人間でもある。
体格も良く、顔の広い彼は周囲から一目置かれている。おまけに、翠蘭は詳しくないのだが彼はもっと位の高い夫候補のなかに親戚がいるらしい。
その天佑に見つかれば、いかに翠蘭相手の嫌がらせであっても、宮正による懲罰を受ける可能性はあった。
「よくやるよ……」
はあ、とため息をこぼし、翠蘭は窓を閉めようと手を伸ばした。と、そこへ扉を叩く音がする。
こんな夜も更けた時刻に、ひとの室を訪ねてくるとは珍しい。もしかしたら、ほかに嫌がらせをしようとしている者だろうか。
警戒し、息を詰めた翠蘭の耳に、外から少し小声で名前を呼ぶ男の声が聞こえてきた。
夜、いつものように宦官に導かれ、翠蘭は憂炎の部屋への路を歩いていた。迎えに来るのは、いつも同じ宦官だ。本人はほとんど口をきかないし、名乗りもしないのだが、憂炎が呼んでいたので名前だけはかろうじて知っている。肖燗流という名の青年で、年の頃はおそらく憂炎と同じくらいと推察された。
どうやら、彼は憂炎の信頼厚い宦官らしい。従者として常に傍にいるらしく、こうして翠蘭を迎えに行かされるのは少々不服のようだ。
今夜もまた無言のままの彼の後を追いながら、翠蘭は肩をすくめた。
「で?なにか進展は?」
「おまえは、毎晩そればかりだな……」
部屋に入るなりそう問いかけた翠蘭に、憂炎はわざとらしいため息をついた。そんなに直ぐには調べはつかん、と肩をすくめながら、寝そべっていた榻から半身を起こす。
ここに座れ、と手招きされて、翠蘭は仕方なく近寄ると、そこに腰を下ろした。で、と口を開いたところに、彼が手にしていたものを押し込まれる。
「む、ぐ……っ」
憂炎の元へ来るようになってから、時折彼はこういった悪戯じみた態度をとることがある。ただ、これまでにおかしなものを口に入れられたことはないので、おそらくこれも大丈夫だろう。
だが、それでも突然のことに翠蘭は眉間に皺を寄せると、念のため恐る恐る舌の上に載せた。なんだか甘酸っぱい味がする。ゆっくりと歯を立てると、少し弾力がありつつも、すぐにつぶせるほど柔らかい。続いてぷちぷちとした感覚があり、翠蘭は初めての感触に目を瞬かせた。
「なんです、これ……」
「無花果、食べたことないのか?」
そう言った彼の手元には、翠蘭の口に放り込んだのと同じ実がある。それを少し指先で弄んでから、彼はおもむろにその実を割って見せた。外から見たのとは違い、中は赤く熟していて、なんだか少し気味が悪い。
そう感じたのが顔に出たのか、憂炎はくすりと笑うと指で摘まんだそれを、今度は自分
の口に放り込んだ。
「なかなか、甘みが良く出ていてうまいな」
目を細め、満足げに頷いた憂炎がもう半分を口に入れる。その指先をなんとなく見つめていた翠蘭は、その後彼が浮かべた笑みにどきりとして、慌ててそこから目を逸らした。
どうにもいけない。ここのところ、こうしてうやむやのうちに二人でただゆっくりと過ごすだけの日々が続いている。
(なんで、毎日来いなんて……)
よく考えれば、意味の無い行動だ。けれど、迎えが来れば翠蘭は大人しく彼の元へ来てしまう。
それは、彼の目に自分と同じ家族を亡くした哀しみを見てしまったせいかもしれない。
「翠蘭?」
ぼんやりとしていたせいだろう。気付けば憂炎が、ほんのわずか心配そうな色を滲ませてこちらを見ている。
こんなに他人に感情を悟られやすくて、よくぞ皇帝などという地位にいられるものだ。きっと昼間は相当気を張っているのだろう。
そう思って苦笑を浮かべると、彼はむっとしたように唇をとがらせ、手を伸ばして翠蘭の頭をぐしゃぐしゃにした。
「おい、やめろ……っ」
「ふん、俺といるというのに何を考えていた?」
口先ではまるで暴君じみたことをいいながら、その実彼の行動は気を惹きたい子どものそれと変わらないような気がする。
(これが、彼の本来の姿なんだろうな……)
ふと憂炎の姿に弟の姿が重なって、翠蘭は自然と手を伸ばし彼の髪に触れた。さらさらとした手触りのそれは、少し冷たくて、滑らかで心地が良い。
「なにをする……」
そう言いながらも、憂炎は翠蘭の手をはね除けることなく受け入れた。それがなんだか可愛く思えて、思わず唇に笑みが浮かぶ。
その様子を見た憂炎が、一瞬目を見張ったことには気付かなかった。
その晩は、まだ早いうちに彼の元を辞し、翠蘭は与えられた部屋に戻った。部屋の前で送ってくれた宦官の肖と別れ、扉を押して中へとはいる。
その途端、なんともいえない異臭が鼻をついた。
「またか……」
はあ、とため息をつくと、翠蘭は慣れた様子で掃除用具を取り出し、床を綺麗に清めていく。それから窓を開け、空気を入れ替えた。
こうした、異臭を放つ何かを部屋にぶちまけられるのは、これが初めてではない。むしろ、これは嫌がらせとしては初歩の初歩、といったところだ。
憂炎に貰った衣が引き裂かれていたこともあれば、直接足をかけて転ばされたこともある。そういった地味な嫌がらせは、ここ半月の間にかなりの頻度で起きていた。
「今日は早く戻ったから、ないかと思っていたんだけれど……」
窓枠に手をついてぼんやりと外を眺めながら、翠蘭はそう独りごちた。どうやら今日の相手は、ずいぶんと早いうちに仕込みをしていったらしい。
いまだ手狭な室住まいの翠蘭であるから、隣にも人が住んでいるというのに大胆なことだ。しかもその隣人である天佑は、表立って翠蘭をかばってくれる数少ない人間でもある。
体格も良く、顔の広い彼は周囲から一目置かれている。おまけに、翠蘭は詳しくないのだが彼はもっと位の高い夫候補のなかに親戚がいるらしい。
その天佑に見つかれば、いかに翠蘭相手の嫌がらせであっても、宮正による懲罰を受ける可能性はあった。
「よくやるよ……」
はあ、とため息をこぼし、翠蘭は窓を閉めようと手を伸ばした。と、そこへ扉を叩く音がする。
こんな夜も更けた時刻に、ひとの室を訪ねてくるとは珍しい。もしかしたら、ほかに嫌がらせをしようとしている者だろうか。
警戒し、息を詰めた翠蘭の耳に、外から少し小声で名前を呼ぶ男の声が聞こえてきた。