「仇の子など、産むつもりはない!」
「仇なぁ……」
ようやく混乱から脱し、翠蘭は美帆――いや、憂炎を睨めつけながらそう断言した。だが、憂炎は首を傾げ、まったく心当たりのないという顔をしている。
そんな彼女、いや彼に向かって、翠蘭は歯ぎしりして詰め寄った。
「楊皓宇の名に聞き覚えはないのか、おまえの母親のために死んだ……私の、弟の名だ……!」
「いや、そうは言うが……」
ふむ、と顎をさすり、憂炎は記憶を探るように遠くを見る目をした。その瞳の奥に、少しだけ哀しみの影を見つけ、翠蘭の心がきゅっと音を立てる。
その影に、自分と同じ色を見つけたからだ。
(違う……私の方が、ずっとずっと……苦しかった……)
だからこそ、復讐を決意して生きてきた。それなのに、それが今、揺らぎを見せ始めている。
気弱な気持ちを振り払うように頭を振って、翠蘭は目に力を込めた。
「思い出せたか……!?」
「いや……母が伏せってからは俺がずっと傍に付いていたが……年齢は、おまえと同じなんだよな?」
「ああ、双子の弟だからな」
翠蘭が頷くと、憂炎はやはり、というように首を横に振った。
「いや、やはり該当の人物は記憶にないな……そもそも母は、病を得てから急速に病状が悪化して、半年も経たぬうちに亡くなった」
「そんなはずは……だって、皓宇が連れて行かれたのは、先帝が亡くなる一年も前で……」
ふむ、ともう一度顎をさすり、憂炎が呟く。
「では、こうしよう……おまえの言う、弟のこと。それを俺が調べてやる。そうすれば俺を信用して、俺の子を産んでくれるな?」
「は、はあ!?」
どうしてそうなるのか全く分からない。翠蘭は首を振ったが、憂炎はとりあわなかった。
「なんだ、では皇帝を害しようとした罪で、なにもわからないまま死罪になる方が良いのか?」
「そ、そんなことをしたら、おまえが本当は男だとばらすぞ……!」
「皇帝である俺の言葉と、一回の宮官であるおまえの言葉、どちらが信じられると思う?」
にやりと笑った憂炎の言葉に、翠蘭はぐっと言葉を呑み込んだ。当然、それは憂炎の言葉に決まっている。
くそ、と小さく呟くと、彼は勝ち誇ったようにこう告げた。
「決まりだな。それじゃあ……えっと……おまえ、名はなんと言うんだ」
「名……?」
「ああ、いつまでも弟の名で呼ぶのもおかしいだろう。名は何という」
「……翠蘭。楊翠蘭だ」
「翠蘭、か。よい名前だな」
そこで初めて、憂炎はにこりと微笑みを浮かべて見せた。初めて見せた邪気のないその表情に、胸がどきんと大きな音を立てる。
(び、美人の笑顔は……心臓に悪いな……)
大きく息を吸い込んで、吐いて。なんとか鼓動を落ち着けようとする翠蘭に向かって、憂炎はその笑顔のまま言った。
「では翠蘭、明日から毎晩俺の部屋に来るように」
翌日、翠蘭は寝不足の目をこすりながら尚食局へと向かった。
皇帝の寵を受けたからと言って、今日から「夫でござい」という顔ができるわけではない。仕事は仕事、やらなければならないのだ。
(だから、夜あいつのところに行くなんて……)
小さくため息をついて、眉根を寄せる。
行かないとつっぱねることはできるだろうが、皇帝の意向に逆らえば刑罰を受けることになる。悪くすれば冷宮送りになって、死んでしまうかも知れない。
(そうなったら、皓宇のことを知ることができない……)
それは嫌だ――翠蘭は強くそう思った。自分さえ彼の言うことを聞けば、皓宇の、父と母の本当の仇がみつかるかもしれない。そうであるならば、彼に従うのが得策だろう。
――内心では、それが言い訳に過ぎないことはわかっている。
(だって……)
小さく胸の中で呟いて、翠蘭はふるふると首を横に振った。彼の目の奥にあった哀しみの色――それがどうにも気になってしまう。
けれど、それを認めることは、今の翠蘭にはできなかった。
「おはようございます」
「おは……おやおや、これはこれは……皓宇さまじゃありませんか」
尚食の扉をあけると、そこにいたのは周子涵という名の青年だった。位は翠蘭の一つ上、才人に除されている。
尚食の担当ではあるが、これまでに一度として尚食局を訪れたことなどない人物だ。
慌てて翠蘭が礼を取ると、彼は嫌な笑みを浮かべながらこう言った。
「陛下の閨に侍った夫なのですから、今日はお休みになっていても良いのでは?それとも、役立たずで追い出されたのですか?」
「は、はあ……?」
あまりにも下世話な内容に、翠蘭の脳が理解を拒んだようだった。何を言われているのか分からず怪訝そうな顔をしてしまったが、それが子涵には自分を馬鹿にしているように見えたらしい。
きっと眦をつり上げると、忌々しそうに吐き捨てた。
「はん……皇帝の寵をかさにきて、俺などとはまともに会話する気もないと言うことか?偉そうに……!」
「そ、そのようなことは……」
なにか分からないが、なんだか嫌みっぽい物言いをしたかと思えば今度は怒り出す。なにがどうなっているのか分からないが、とりあえず宥めようと手を伸ばすと、それをぱしりとはたかれた。
「調子に乗っているんじゃないぞ……!」
「い、いえ、ですから……」
なにも調子になど乗っていない。そう続けようとしたところで、間に割って入った声があった。
「なんです、どうしました、周才人?楊がなにかしましたか」
「……天佑」
声の主は、同じ尚食の同僚、天佑であった。その姿を見た途端、子涵は忌々しげに舌打ちし、荒い足音を立てて尚食局を出て行った。
後ろ姿を見送った天佑が、はあ、と大きなため息を漏らす。
「悪い、なんか……助かった」
「いや、いいってことよ……これからは、ああいうのが増えるかもしれん。気をつけろよ」
天佑の言葉に、翠蘭はこくりと頷いた。昨夜から衝撃続きですっかり頭から抜け落ちてしまっていたが、ここは男後宮――女帝のための、夫候補たちの集まりだ。
誰もが皇帝の閨に侍り、その寵愛を我が物にしたいと願っている場所。
その中で、自分はかれらより頭一つ飛び抜けた存在となった。
(もう……!)
望んだ地位ではないが、目的のためには必要なこと。そう思い、我慢するしかない。
幸い、周囲には敵ばかりではなく、天佑のように味方をしてくれる者もいるようだ。ほっと息を吐き出して、翠蘭は「ありがとう」と答えた。
「仇なぁ……」
ようやく混乱から脱し、翠蘭は美帆――いや、憂炎を睨めつけながらそう断言した。だが、憂炎は首を傾げ、まったく心当たりのないという顔をしている。
そんな彼女、いや彼に向かって、翠蘭は歯ぎしりして詰め寄った。
「楊皓宇の名に聞き覚えはないのか、おまえの母親のために死んだ……私の、弟の名だ……!」
「いや、そうは言うが……」
ふむ、と顎をさすり、憂炎は記憶を探るように遠くを見る目をした。その瞳の奥に、少しだけ哀しみの影を見つけ、翠蘭の心がきゅっと音を立てる。
その影に、自分と同じ色を見つけたからだ。
(違う……私の方が、ずっとずっと……苦しかった……)
だからこそ、復讐を決意して生きてきた。それなのに、それが今、揺らぎを見せ始めている。
気弱な気持ちを振り払うように頭を振って、翠蘭は目に力を込めた。
「思い出せたか……!?」
「いや……母が伏せってからは俺がずっと傍に付いていたが……年齢は、おまえと同じなんだよな?」
「ああ、双子の弟だからな」
翠蘭が頷くと、憂炎はやはり、というように首を横に振った。
「いや、やはり該当の人物は記憶にないな……そもそも母は、病を得てから急速に病状が悪化して、半年も経たぬうちに亡くなった」
「そんなはずは……だって、皓宇が連れて行かれたのは、先帝が亡くなる一年も前で……」
ふむ、ともう一度顎をさすり、憂炎が呟く。
「では、こうしよう……おまえの言う、弟のこと。それを俺が調べてやる。そうすれば俺を信用して、俺の子を産んでくれるな?」
「は、はあ!?」
どうしてそうなるのか全く分からない。翠蘭は首を振ったが、憂炎はとりあわなかった。
「なんだ、では皇帝を害しようとした罪で、なにもわからないまま死罪になる方が良いのか?」
「そ、そんなことをしたら、おまえが本当は男だとばらすぞ……!」
「皇帝である俺の言葉と、一回の宮官であるおまえの言葉、どちらが信じられると思う?」
にやりと笑った憂炎の言葉に、翠蘭はぐっと言葉を呑み込んだ。当然、それは憂炎の言葉に決まっている。
くそ、と小さく呟くと、彼は勝ち誇ったようにこう告げた。
「決まりだな。それじゃあ……えっと……おまえ、名はなんと言うんだ」
「名……?」
「ああ、いつまでも弟の名で呼ぶのもおかしいだろう。名は何という」
「……翠蘭。楊翠蘭だ」
「翠蘭、か。よい名前だな」
そこで初めて、憂炎はにこりと微笑みを浮かべて見せた。初めて見せた邪気のないその表情に、胸がどきんと大きな音を立てる。
(び、美人の笑顔は……心臓に悪いな……)
大きく息を吸い込んで、吐いて。なんとか鼓動を落ち着けようとする翠蘭に向かって、憂炎はその笑顔のまま言った。
「では翠蘭、明日から毎晩俺の部屋に来るように」
翌日、翠蘭は寝不足の目をこすりながら尚食局へと向かった。
皇帝の寵を受けたからと言って、今日から「夫でござい」という顔ができるわけではない。仕事は仕事、やらなければならないのだ。
(だから、夜あいつのところに行くなんて……)
小さくため息をついて、眉根を寄せる。
行かないとつっぱねることはできるだろうが、皇帝の意向に逆らえば刑罰を受けることになる。悪くすれば冷宮送りになって、死んでしまうかも知れない。
(そうなったら、皓宇のことを知ることができない……)
それは嫌だ――翠蘭は強くそう思った。自分さえ彼の言うことを聞けば、皓宇の、父と母の本当の仇がみつかるかもしれない。そうであるならば、彼に従うのが得策だろう。
――内心では、それが言い訳に過ぎないことはわかっている。
(だって……)
小さく胸の中で呟いて、翠蘭はふるふると首を横に振った。彼の目の奥にあった哀しみの色――それがどうにも気になってしまう。
けれど、それを認めることは、今の翠蘭にはできなかった。
「おはようございます」
「おは……おやおや、これはこれは……皓宇さまじゃありませんか」
尚食の扉をあけると、そこにいたのは周子涵という名の青年だった。位は翠蘭の一つ上、才人に除されている。
尚食の担当ではあるが、これまでに一度として尚食局を訪れたことなどない人物だ。
慌てて翠蘭が礼を取ると、彼は嫌な笑みを浮かべながらこう言った。
「陛下の閨に侍った夫なのですから、今日はお休みになっていても良いのでは?それとも、役立たずで追い出されたのですか?」
「は、はあ……?」
あまりにも下世話な内容に、翠蘭の脳が理解を拒んだようだった。何を言われているのか分からず怪訝そうな顔をしてしまったが、それが子涵には自分を馬鹿にしているように見えたらしい。
きっと眦をつり上げると、忌々しそうに吐き捨てた。
「はん……皇帝の寵をかさにきて、俺などとはまともに会話する気もないと言うことか?偉そうに……!」
「そ、そのようなことは……」
なにか分からないが、なんだか嫌みっぽい物言いをしたかと思えば今度は怒り出す。なにがどうなっているのか分からないが、とりあえず宥めようと手を伸ばすと、それをぱしりとはたかれた。
「調子に乗っているんじゃないぞ……!」
「い、いえ、ですから……」
なにも調子になど乗っていない。そう続けようとしたところで、間に割って入った声があった。
「なんです、どうしました、周才人?楊がなにかしましたか」
「……天佑」
声の主は、同じ尚食の同僚、天佑であった。その姿を見た途端、子涵は忌々しげに舌打ちし、荒い足音を立てて尚食局を出て行った。
後ろ姿を見送った天佑が、はあ、と大きなため息を漏らす。
「悪い、なんか……助かった」
「いや、いいってことよ……これからは、ああいうのが増えるかもしれん。気をつけろよ」
天佑の言葉に、翠蘭はこくりと頷いた。昨夜から衝撃続きですっかり頭から抜け落ちてしまっていたが、ここは男後宮――女帝のための、夫候補たちの集まりだ。
誰もが皇帝の閨に侍り、その寵愛を我が物にしたいと願っている場所。
その中で、自分はかれらより頭一つ飛び抜けた存在となった。
(もう……!)
望んだ地位ではないが、目的のためには必要なこと。そう思い、我慢するしかない。
幸い、周囲には敵ばかりではなく、天佑のように味方をしてくれる者もいるようだ。ほっと息を吐き出して、翠蘭は「ありがとう」と答えた。