さて、本来女の身である翠蘭は、後宮の中に設けられた大風呂を使うことができない。仕方なしに、目立たぬ場所にある井戸で水を汲み、身体を拭き清めていた。
 この日もいつもと同じように井戸で身を清めようと、夜半過ぎの夜闇に紛れて部屋を抜け出す。
 こうして夜出歩くようになって、衛士が巡回する時間もルートもばっちり把握済みだ。
 水を汲み、衣を脱いで裸になった翠蘭は、濡らした手ぬぐいで身体を拭き始めた。今はまだ暖かいからこうしていても平気だが、寒くなってきたら対策を考えなければならない。
 いや、それまでに復讐を遂げてここから出て行かなければ……。
(このまま陛下の閨に誰も呼ばれないのなら、いっそ襲いに行くのもアリか……?)
 しかし、相手は皇帝だ。きっと警備も厳重だろう。忍び込むのはたやすくない。
 どうしたらいい――そう思考に没頭していたせいだろうか。
 ぱきりと木の枝を踏む音がして、はっと気付いて振り返ったときには遅かった。視線の先には、夜の闇のせいではっきりとは見えないが男のものらしき人影がある。

「きゃ……むぐ」

 悲鳴を上げそうになって、翠蘭はすんでの所で自分の口に蓋をした。こんなところで叫び声を上げて、万が一にも他の男たちが集まってきたら大変だ。
 性別詐称がばれて追い出されるならばまだしも、皇帝を謀った罪で死罪になりかねない。
(こっちから顔が見えないのだから、あちらからも見えていない、はずっ……!)
 今ならまだ間に合う。

「お、おい――」

 背後で翠蘭を呼び止める男の声がする。
 けれど、脱いだ衣を半端に引っかけ、おけと手ぬぐいを持つと――翠蘭は脱兎のごとく逃げ出した。
 一目散に自分の室へと逃げ込むと、ぜえはあと大きく息を吐く。それから耳を澄ませて外の様子を窺ってみたが、どうやら追いかけられてはいないようだ。

「はあ……っ、よかっ……た……」

 ずるずると扉に寄りかかり、へたり込むようにして床の上にお尻をつく。
(きっと……大丈夫よね……?)

 これからは注意しよう、そう心に決めて、翠蘭はぐっと拳を握りしめた。

 翌日、翠蘭は不安を押し殺しながら尚食の仕事場へと向かった。夜半に井戸の前で女が水を浴びていた、という噂が出回っていやしないか、それが翠蘭だとわかってしまうような情報がないか、神経を尖らせる。
 だが、昼を過ぎた頃になっても――いや、夕方になっても、それらしき噂が出回っている様子はなかった。同僚の天佑はそういった噂話を聞きつけてくるのが早い。その彼の口からもまったく話題に上らないところを見ると、おそらく大丈夫だったのだろう。
(だって暗かったし……きっと身体までは見えなかったのよね……)
しかし、そう翠蘭がほっと胸を撫でろ下野もつかの間だった。彼女をを――いや、後宮中を仰天させるような出来事が起きたのだ。
 なんと、翠蘭に皇帝から突然お召しがあったのである。
 これには周囲も色めき立ったが、一番張り切ったのは翠蘭本人であった。なにしろ、これで堂々と皇帝の部屋へと入り、うまくすれば二人きりになることができるのだ。
(でも、突然どうして……?)
 当然抱くべき疑問だが、翠蘭はそれを心の中で打ち消した。どんな理由があるにせよ、美帆は今夜、翠蘭の手にかかるのだ。
 昨晩のことなどすっかり忘れ、翠蘭は準備を整えると、最後に短刀を懐に忍ばせて迎えの宦官の後をついていった。
 しばらく歩くうち、だんだんと緊張が身体を支配する。震える指をそっと握り合わせ、翠蘭は必死になって自分に言い聞かせた。
(大丈夫、大丈夫……とうさまも、かあさまも、皓宇だってきっと……)
 早鐘を打つ心臓を押さえ、ごくりとつばを飲み込む。緊張のせいかからからに渇く唇をそっと舐め、翠蘭は一度大きく息を吐き出すと宦官の背をじっと見つめた。

大家(ターチャ)、お連れいたしました」
「ん……入れ」

 扉の前から、宦官がひざまずき頭を下げながら言うと、中からは女性にしてはやや低めの声が答えた。偉そうな物言いから察するに、これが皇帝――美帆の声なのだろう。
 皇帝が直接声を発したことにも驚いたが、さらに驚くことに宦官は「ほら」と翠蘭に視線を送り、自分で扉を開けて入るように促した。

「え、ええっ……?」

 翠蘭の緊張は、いよいよ最高潮を迎えた。かちんこちんに固まった身体をどうにか動かし、ぎこちない仕草で扉に手をかける。だが、どうしてもそれを押すことができない。
 背後から宦官が「はようせぬか」と小声でせっつくが、翠蘭はそれに「うるさい」と心の中でだけ威勢良く返事をして、ぐっと指先に力を込めた。
 その時だ。
 中から勢いよく扉が開いたかと思うと、艶やかな襦裙の袖を翻し、長い腕が翠蘭の手を掴む。え、と思った時にはもう遅く、翠蘭はその手によって室内へと引っ張り込まれる。

「わっ……!」
「遅い、ぐずぐずするな」

 たたらを踏んだ翠蘭に向かって、容赦のない声が浴びせかけられる。そっと視線をあげれば、そこに立っているのは、長く艶のある髪を流しっぱなしにし、艶やかな襦裙に身を包んだ絶世の美女だ。
 思わず息を呑むと、彼女はふっと鼻先で笑い、身を翻すとすたすたと歩いて行き、豪奢な造りの榻へと腰を下ろした。
 その姿をあっけにとられて見送ってしまった翠蘭は、絶好の機会を逃したことに臍をかむ。
(しまった……)
 心の中で密かに悔しがっていると、呆れたような声が翠蘭を呼んだ。

「おい、楊……皓宇、だったか。こちらへ来て座ったらどうだ」
「は……」

 ここは大人しく言うことを聞き、再度油断した隙を見て手を下すしかない。そう考え、無理矢理心を落ち着けると、翠蘭はぎこちない動作で彼女の隣に腰を下ろした。
 しかし、改めて見る美帆は、とんでもなく美人だ。ちらりと横顔を盗み見て、そんなことを考える。
(これなら、他の男たちが血眼になるのもわかる……)
 皇帝の夫としての権勢ばかりではなく、彼女自身をも手に入れたいと思ってしまうのは、男の性質というものだろう。けれど、と短剣を忍ばせた胸元を押さえると、美帆が「ああ……」と何かに気付いたような声をあげた。

「そういえば、その胸。何かで押さえているのか?」
「……えっ?」

 一瞬、ここに短刀を忍ばせていることがばれているのかと思い、翠蘭は身体を硬くした。だが、じっと翠蘭の胸元に視線を注いでいる美帆の視線は、険しいものではなく純粋に疑問を抱いている風だ。
 何のことを言われているのか分からず、翠蘭が間抜けな声をあげると、美帆は指を伸ばし、胸元をちょいちょいとつついた。

「ここだ、ここ……昨夜見た時は、もう少し膨らんでいただろう」
「さささ……さくっ……さく……や……?」

 ぎくりと身体を強ばらせ、翠蘭がうわずった声をあげる。すると美帆はにやりと口の端を吊り上げ、翠蘭の腕をとった。

「細いな……やはり」
「そ、そんっ……」

 なにか、まずいことが起きている。それだけははっきりと自覚できた。
 あわてて振りほどこうとしたが、美帆の力は案外強い。かえってぐっと榻に押しつけられ、身動きが取れなくなる。
 顔を近づけた美帆は、まるで鼠を捕らえた猫のように、にんまりと笑って見せた。

「昨夜のこと、覚えているだろう?あの井戸の傍でおまえを見たのは、この俺だ」
「えっ……う、うそっ……」

 あの時見た人影のことを思い出し、翠蘭は真っ青になった。あれが、今目の前にいる美帆だったというのだろうか。
(というか、今――俺って……?)
 頭の中が大混乱だ。一体何が起きているのか把握できず、翠蘭は目を白黒させて美帆の美しい顔を見上げた。
 余裕たっぷりの顔をした彼女が、おもむろに翠蘭の手を自分の胸元へと導く。
 そこには、やわらかい双丘が――……。

「えっ?」

 確か、翠蘭の記憶が確かなら――女帝の胸はそこそこ大きく、ふっくらと盛り上がっていたはずだ。それが、ない。全くない。真っ平らだ。なんなら少し堅い気さえする。
 ぺた、ぺた……と今度は自分の意志でそこに触れ、翠蘭は今度こそ訳が分からなくなって美帆の胸元を凝視した。
 そういえば、ここに入ってきたときから――そこはずっと、真っ平らだったような気がする。
 ごくっとつばを飲み込んだ翠蘭に向かって、美帆はふっと鼻で笑うと、何でもないことのようにあっさりと告げた。

「そうだ、性別を偽っているのは――おまえばかりではない、ということだ」
「えっ、えっ……!?」

 思わぬ告白に目を丸くした翠蘭は、美帆の言葉を否定するのも忘れ、まじまじと彼女――いや、今の言葉を信じるのなら、彼――の顔を見つめた。
 だが、つるつるとした肌に長いまつげ、ふっくらとした唇はとてもではないが男のものとは思えない。
 嘘でしょ、と思わず漏らせば、美帆は憤慨したように鼻を鳴らした。

「嘘などついてどうする。おまえもいま触っただろう……それとも、もっと他の場所を触らせた方がわかりやすいか?」
「他の……?」

 どこを、と目を瞬かせた翠蘭に、美帆はくすりと笑ってみせると掴んだままの彼女の手を下半身へと導こうとする。どこを触らせるつもりなのかを理解して、翠蘭は慌てて「ぎゃあ」と叫び声を上げた。

「や、わ、わかった、わかりましたからっ……!」
「そうか?いずれ見て貰うつもりだったから、今でもいいかと……」
「は、はああ!?」

 何を言っているのだ、と今夜もう何度陥ったか分からない混乱に陥った翠蘭が、大きな叫び声を上げる。
 はは、と軽く笑った美帆は、さらなる爆弾を投下してきた。

「俺の本来の名は、憂炎――皓宇、おまえにはこの俺の子を産んで貰う」
「なっ……!?」

 あまりといえばあまりの言葉に、翠蘭はとうとう二の句が継げず絶句した。