「ふう、こんなものかな……」

 並べ終えた膳を満足げに見つめ、翠蘭(スイラン)は額の汗を拭って大きく息を吐きだした。
 この朱華(シュカ)国の男後宮で尚食(しょうしょく)局――後宮内の食事を司る部署に配属されてから、早いものでもう三ヶ月が経とうとしている。
 ()後宮という名の示すとおり、ここに集められているのは男ばかり。なぜならば、朱華国は代々女帝が治める国だからだ。
 この男後宮は、その女帝のために国中から集められ、日夜その寵を競っている。
(といっても、当代の皇帝、美帆(メイファン)陛下はまだ誰も伽に呼んでいないのだけれど……)
 この三ヶ月で、翠蘭が皇帝である美帆を見たのはたったの二回。一度目はここに来て直ぐの頃、後宮内を歩く姿を遠目に見たもの。そうしてもう一度はつい先日、新しく集められた後宮に人が揃ったことを祝って設けられた宴席でのことだ。
 しかし、その宴席でもやはり美帆の姿は遠くからしか見ることができなかった。近くには身分の高い四夫君、正一品の貴婿、淑婿、徳婿、賢婿の四名が侍っており、正六品、宮官である宝林である翠蘭などは、下っ端も下っ端で近寄って挨拶をすることさえ叶わなかったのだ。
 ただ、遠目に見ただけでもわかるのは――。
(とんでもない美女だということだけ……)

「おい、皓宇(ハオユー)、支度は済んだか」
「あ、は、はい、ただいま」

 突然背後から声をかけられ、ぼうっと物思いにふけっていた翠蘭は我に返って返事をした。皓宇、というのは翠蘭のここでの名前である。
 そう。翠蘭はとある目的のため、名を偽ってこの男後宮に潜入している。――いや、偽っているのは名前ばかりではない。
 んんっ、と軽く咳払いをすると、翠蘭は膳に手を伸ばしそれを持ち上げようとした。だが、後から来た男――同じ尚食局に配属された隣人の石天佑(シー チンヨウ)がそれを制した。
 体格の良い彼は、自分よりだいぶ背の低い翠蘭を見下すようにしてふっと鼻で笑うと、後ろにある水差しを指さす。

「ほら、いいからおまえはそっちの軽いのを持て。俺がこっちを持ってやる」
「あ、ありがとう……」

 いいってことよ、とにやりと笑うと、天佑は軽々と膳を持ち上げ歩き出した。その後を水差しを抱えてついて行きながら、ふと池に映る自分の姿を見つめる。
 ここでは、ある程度髪型も服装も自由が認められている。それはここが後宮であり、ここに集められた男たちはすべからく「皇帝の夫」だからだ。
 そして、妻である皇帝の寵を得るために着飾ることが必須だから。
 実際、周囲の男たちは音に聞こえた美男であるだけでなく、美しく装うことに余念がない。
 そんな中にあって翠蘭は、肩の下辺りまである髪を高い位置でひとまとめにし、地味な紺の袍をまとっている。しかし、その袍はすこしばかりサイズが大きくてぶかぶかで、不格好なこと極まりない。
 それでも、それは翠蘭にとって、身体の線を隠すために必要なものだった。
 なぜなら、翠蘭がもう一つ偽っているもの――それは、性別だからだ。
(ばれないのはありがたいのだけれど……)
 疑われもしないのも、本来女の身である自分からすると少しばかり複雑ではある。だが、目的のためにはそれが一番だ。
(待っててね、皓宇……あなたの仇を必ず……)
 自分と似通った面影を水面に見て、翠蘭は唇を噛みしめた。心の中で誓いを新たにする。
(必ず、皇帝陛下を――討つ)

「おい、皓宇、どうした?」
「あ、悪い……」

 天佑の声と同時に、池の魚が跳ねて翠蘭の姿は波立つ水にかきけされる。ぱたぱたと足音が響くと、その後にはただ静けさが漂っていた。