「……違う」
 だけどかんちゃんは自嘲するように小さく笑って、またわたしの言葉を否定する。
「それだって、七海のためじゃなかった。ただ俺が、七海といっしょにいたかっただけで」
「うん、それでも」
 わたしはそれが悲しくて、さえぎるように声を上げた。
 かんちゃんが、どう思っていたとしても。なにを考えていたのだとしても、ただ。
「わたし、知ってたよ。かんちゃんがいつも、わたしのこと心配してくれてたのも、大事に思ってくれてたのも。うれしかったよ。かんちゃんがわたしにしてくれたこと、ぜんぶ」
 そうだった。知っていた。うれしかった。
 自分の言葉を確認するように胸の中でなぞりながら、「だから」とわたしは続ける。顔を上げ、まっすぐにかんちゃんを見る。
「いつの間にかそれに甘えてた、わたし。かんちゃんといっしょだと、弱いままでいられたから。なんにもできない駄目なわたしでも、許してもらえたから。だからこのままだと、わたし、かんちゃんに依存しちゃいそうで。かんちゃんがいないと、なんにもできなくなりそうで」

 それでもいいんじゃないかって、昔は思っていた。かんちゃんに頼って、かんちゃんの言うことを聞いて、そうやってかんちゃんに甘えて生きていけば。こんなポンコツなわたしは、そんなふうにして生きていくのがいちばん安心だし、楽なんじゃないかって。
 だけど、やっぱり、
「――だけどそんなの、嫌だったの」
 卓くんに出会って、気づいた。わたしがずっと、望んでいたこと。欲しかったもの。
「わたしも強くなりたかった。かんちゃんに手を引いてもらうばっかりじゃなくて、並んで歩きたかった。でもわたし、こんなんだから。身体もポンコツだし頭も悪いし、かんちゃんと並ぶなんてそんなの、わたしには無理なんじゃないかって」

 かんちゃんはただじっと、わたしの言葉を聞いていた。
 どこか痛みを堪えるような表情で、それでも目は逸らさずに。
「でもね」
 その真摯さに、ずっと喉につかえていた言葉が、するりとすべり出ていく。
「チョークをね」
「……チョーク?」
「うん。授業で、黒板に書くときに使うチョーク。あれ、短くなると書きづらいでしょ」
 唐突に変わった話題に困惑したように、はあ、とかんちゃんが相槌を打つ。
 かまわず、わたしは口元に穏やかな笑みが浮かぶのを感じながら、続けた。
「だから短くなってるのに気づいたら、わたしが新しいチョークを補充するようにしてたの。授業の前とか、掃除のときとか。そうしたらね、卓くんがそれに気づいてくれて。こういう細かいところに気がつくの、すごい、って」
 思い出すと照れくさくなってきて、わたしは指先で頬を掻く。
 そんな会話を交わしているうちに駅に着いて、わたしたちは順に改札を抜けると、
「……おまえ、そんなことしてたんだ」
 ぼそっとかんちゃんからそんな言葉が返ってきて、「そうだよ」とわたしは微笑んだ。
「実は中学校の頃からずうっと。知らなかったでしょ?」
「知らなかった」
 ちょっと拗ねたような声色で言ってみると、なんとなくバツが悪そうにかんちゃんが目を伏せる。

 かんちゃんが気づいていないのは知っていた。かんちゃんだけでなく、友達もクラスメイトの誰も。べつにそれでいいと思って続けていたはずなのに、本当は気づいてほしかったのだと、わたしは今になって強く自覚する。
 クラスのみんなは気づいてくれなくても、せめて、かんちゃんにだけは。

「そういうところがね」
 話しているうちに、ホームに電車がやってきた。目の前で開いたドアに乗り込み、ドアの側に向かい合って立ったところで、わたしはまた、途切れた会話の続きを再開する。
「生徒会に向いてるんじゃないかって、卓くんは言ってくれたの。それまで、わたしが生徒会に入れるなんていちども考えたこともなかったから、すごくびっくりして、でも……すっごく、すっごくうれしくて」
 今更かんちゃんにこんな話をしているのが、なんだか不思議だった。
 かんちゃんはきっと興味がないからと決めつけて、なにも話さずにいたことに、ちりっとした後悔が湧く。
 かんちゃんは今、聞いてくれている。真剣な表情で、まっすぐにわたしの顔を見て。
 そんな彼の態度に、もっと早く話していればと、昨日から何度考えたかわからないたらればが、またよぎる。だけど同時に、仕方がなかったのだと、心の片隅では納得するような気持ちも生まれている。
 だって今、わたしがこんなふうにかんちゃんと向き合えているのは、きっと。
「わたしも頑張ってみようって、そのとき思えたんだ。頑張れる気がしたの。強くなれそうな気がしたんだ。卓くんがいてくれたら」
「……強くなったよ、七海は」
 ぽろっとこぼれ落ちるように、かんちゃんが言った。
 小さな声だったのに、それは不思議なほどくっきりと、鼓膜を揺らした。
 ゆっくりと胸に落ちてきたその言葉に、じわりと温かさが広がる。頬がゆるむ。
「ありがとう」とわたしは噛みしめるように笑って、
「かんちゃんも」
「え」
「変わったよね、なんだか」
「……俺?」
 怪訝そうに眉を寄せるかんちゃんに、うん、とわたしは笑顔のまま頷いて、
「ひょっとして、あの子の影響なのかな?」
 言いながら、胸の前で小さく指先を動かし、横を指した。

 電車に乗り込んだときから、気づいていた。同じ車両の二つ先のドアの前。見知った女の子が乗っていて、ちらちらとこちらへ視線を寄越していたこと。
 わたしの指さしたほうへ目を向けたかんちゃんも、すぐに気づいたみたいだった。軽く目を見張ったあとで、ふっと苦笑するように表情を崩して、
「……下手くそ」
「え、なに?」
「いや、独り言」
 あきれたように呟いたかんちゃんの表情は、だけどとてもやわらかくて、わたしはそれを見ただけで、なにかを悟った気がした。昨日見た坂下さんの必死な顔が、瞼の裏に浮かぶ。

「……実はね」少し迷ったあとで、わたしは口を開くと、
「昨日ね、ちょっと怒られちゃったんだ。坂下さんに」
「怒られた?」
「うん。かんちゃんがいなくなったあと。かんちゃんの気持ち、もっと考えてあげてって。かんちゃんだって一生懸命だったんだからって」
「……あいつそんなこと言ったのか」
 呟いたかんちゃんは、また坂下さんのほうを見ていた。目を細め、口元に小さく笑みを浮かべて。その表情がはっとするほど優しくて、一瞬、胸の奥が淡く軋む。
 それを見ない振りをしながら、わたしは、うん、と明るく相槌を打つと、
「坂下さんて、かんちゃんのこと、すごく大事に思ってくれてるみたいだよ」
「うん。……知ってる」

 なにかを確認するように頷いて、かんちゃんは一瞬だけ目を伏せた。
 それからすぐに、またわたしの顔へ視線を戻し、
「なあ」
「うん?」
「あいつのところ、行ってきてもいい?」
 その言葉は二つの意味を含んでいるように、わたしは聞こえた。
「……いいよ、もちろん」それにまた痛んだ胸を見ない振りをして、わたしは笑う。
 どうかうまく笑えていますように、と願う。
「行ってきて。友達なんでしょ、坂下さん」
「うん。……なあ、七海」
「ん?」
「ちゃんと、樋渡のことつかまえとけよ」
 唐突な言葉に一瞬きょとんとしたあとで、すぐに気づいた。
 ああ、と呟いてから、わたしは力強く拳を握ってみせると、
「大丈夫だよ! どんなに坂下さんが狙ってたって、ぜったい卓くんは渡さないから。わたしだって、やるときはやるんだから」
「うん」
「だから心配しないで。わたしも、頑張るから」
 うん、と笑ったかんちゃんの笑顔も、どこか不格好だった。泣き出しそうなのを堪えるような、途方に暮れたような、そんな顔でわたしを見て、
「がんばれ」
 そう言ってくれたかんちゃんの声は、今まで聞いたかんちゃんのどんな言葉よりもいちばん優しく耳に響いて、そして気づいた。
 わたしはずっと、かんちゃんに、そう言ってほしかったんだって。