少しして、坂下さんははっとしたように、後悔した顔つきになった。さっきのわたしみたいに、恥ずかしいことを口走ってしまったと気づいたように。
勢いよく顔を伏せた坂下さんは、無言でくるりと踵を返す。そうしてあとは一度もこちらを振り向くことなく、足早に保健室を出ていった。
わたしもなにも言えないまま、ただ、そんな彼女の後ろ姿を見送っていた。
保健室を出た坂下さんがどこへ向かったのか。なぜだか、妙にはっきりと察しがつく気がした。
きっと坂下さんは、かんちゃんを追いかける。追いかけて、くれる。
そう確信を持って思えて、そのことにふと、強い安堵が込み上げたとき、
「ごめん七海」
「へっ」
ふいに隣から卓くんの声がして、思わず間抜けな声が漏れた。
驚いて振り向くと、卓くんはなんだか神妙な顔をしてわたしを見ていた。そうして心底申し訳なさそうな、眉尻を下げた表情で、
「七海がそんなに嫌がってるって、わかってなくて」
「え、なにが……」
「坂下さんのこと」
そこまで聞いて、わたしはようやく思い当たる。
わたしがさっき夢中で口走っていた、恥ずかしい台詞。それは当然、横にいた卓くんにも聞かれていたのだと、そんな当たり前のことに今更気づき、かっと火がついたみたいに顔が熱くなる。
「あっ、い、いや、あのっ」今度はべつの意味で焼けるような恥ずかしさに襲われ、わたしはあわてて口を開くと、
「違うの! 卓くんが悪いわけじゃ……さっきのは、つい、かっとなっちゃっただけで」
「いや、俺が無神経だった。そりゃ嫌だよね。俺も、七海が誰か他の男子と毎日毎日休み時間のたびにしゃべってたら嫌だろうし。ごめん」
卓くんに真剣なトーンで謝られ、わたしは頭を抱え込みたくなる。
「う、ううんっ」とぶんぶん首を横に振りながら、
「わたしがちゃんと、言わなかったのが悪いし……!」
そう重ねたあとで、自分の口にした言葉に、ふと息が詰まった。
――もっと早く、言えばよかったのに。
坂下さんの声がまた、耳の奥によみがえってくる。鼓膜を叩きつけるような強さで。それにあらためて胸を貫かれるのを感じ、わたしが思わず言葉に詰まったとき、
「……ねえ、七海は」
短い沈黙を挟んだあとで、ふと、卓くんが口を開いた。
「なんでそんなに、柚島に行きたかったの?」
「え」
急に変わった話題に、困惑して顔を上げる。
卓くんはわたしの顔ではなく、保健室のドアのほうを見ていた。
ついさっき坂下さんが、そしておそらく少し前には、かんちゃんが出ていったのだろうドアを。遠くを見るような目で見つめる卓くんの表情は、なにか薄々察しがついているように見えた。
――なんで。戸惑いながら、わたしは卓くんの言葉を反芻する。
答えなら、とくに探すまでもなく手元にある。
ずっと行けなかったから。保育園のお泊り保育でも、小学校の校外学習でも。みんなが楽しそうに向かったその場所に、わたしだけ、置いていかれたから。
そう胸の中で復唱してみて、だけど、と声が続く。
そんな場所、他にもたくさんあった。小学校での林間学校も修学旅行も。例のごとく、わたしはぜんぶ行けなかったはずなのに。
そのときのことはもう、わたしの記憶にはない。行けなくて泣いたのか、どんな気持ちでひとり家で過ごしていたのか。そもそも、林間学校や修学旅行ではみんながどこへ行ったのかすらも。わたしはなにひとつ、覚えていない。
覚えているのは、お泊り保育の日の朝、お母さんの腕の中から見た、バスに乗り込むかんちゃんの後ろ姿と。
――七海には無理だろ。
数年後に、校外学習の行き先が柚島と知って浮かれていたわたしに、かんちゃんが告げた、みじんも迷いのない否定の言葉。
強烈に記憶にこびりついて消えなかったのは、ずっと、ただそれだけだった。
……ああ、そうか。
気づいたとき、わたしはようやく理解した。答えがすとんと胸に落ちてきて、収まった。
十年間も、わたしが柚島のことだけ引きずり続けていた理由。
わたしが悲しかったのは、柚島に行けなかったことじゃない。
十年間、わたしがずっと引きずり続けていたものは。
わたしが、許せなかったのは。嫌いだったのは、ずっと――。
「……卓くん、ごめん」
今更見つけた答えに、なんだか途方に暮れた気分になる。うつむいて、わたしはぽつんと声をこぼすと、
「わたし、やっぱり柚島に行きたい。どうしても」
「うん。行こう」
唐突なわたしの言葉にも、卓くんは間を置くことなくはっきりとした声で頷いて、
「もし、七海が行けなくなった理由がお母さんたちに反対されたとかなら、俺もいっしょに話しにいく。納得してもらえるまで。俺もいっしょに頑張るから」
柚島に行けなくなった理由については話せずにいたのに、わたしがなにも言わずとも、卓くんは察していたらしい。
力強い口調でそう言った卓くんは、顔を上げたわたしの目を、まっすぐに見つめて、
「俺も、七海と柚島に行きたい。……どうしても」
その真剣なまなざしは、卓くんもなにかを理解しているように見えた。
勢いよく顔を伏せた坂下さんは、無言でくるりと踵を返す。そうしてあとは一度もこちらを振り向くことなく、足早に保健室を出ていった。
わたしもなにも言えないまま、ただ、そんな彼女の後ろ姿を見送っていた。
保健室を出た坂下さんがどこへ向かったのか。なぜだか、妙にはっきりと察しがつく気がした。
きっと坂下さんは、かんちゃんを追いかける。追いかけて、くれる。
そう確信を持って思えて、そのことにふと、強い安堵が込み上げたとき、
「ごめん七海」
「へっ」
ふいに隣から卓くんの声がして、思わず間抜けな声が漏れた。
驚いて振り向くと、卓くんはなんだか神妙な顔をしてわたしを見ていた。そうして心底申し訳なさそうな、眉尻を下げた表情で、
「七海がそんなに嫌がってるって、わかってなくて」
「え、なにが……」
「坂下さんのこと」
そこまで聞いて、わたしはようやく思い当たる。
わたしがさっき夢中で口走っていた、恥ずかしい台詞。それは当然、横にいた卓くんにも聞かれていたのだと、そんな当たり前のことに今更気づき、かっと火がついたみたいに顔が熱くなる。
「あっ、い、いや、あのっ」今度はべつの意味で焼けるような恥ずかしさに襲われ、わたしはあわてて口を開くと、
「違うの! 卓くんが悪いわけじゃ……さっきのは、つい、かっとなっちゃっただけで」
「いや、俺が無神経だった。そりゃ嫌だよね。俺も、七海が誰か他の男子と毎日毎日休み時間のたびにしゃべってたら嫌だろうし。ごめん」
卓くんに真剣なトーンで謝られ、わたしは頭を抱え込みたくなる。
「う、ううんっ」とぶんぶん首を横に振りながら、
「わたしがちゃんと、言わなかったのが悪いし……!」
そう重ねたあとで、自分の口にした言葉に、ふと息が詰まった。
――もっと早く、言えばよかったのに。
坂下さんの声がまた、耳の奥によみがえってくる。鼓膜を叩きつけるような強さで。それにあらためて胸を貫かれるのを感じ、わたしが思わず言葉に詰まったとき、
「……ねえ、七海は」
短い沈黙を挟んだあとで、ふと、卓くんが口を開いた。
「なんでそんなに、柚島に行きたかったの?」
「え」
急に変わった話題に、困惑して顔を上げる。
卓くんはわたしの顔ではなく、保健室のドアのほうを見ていた。
ついさっき坂下さんが、そしておそらく少し前には、かんちゃんが出ていったのだろうドアを。遠くを見るような目で見つめる卓くんの表情は、なにか薄々察しがついているように見えた。
――なんで。戸惑いながら、わたしは卓くんの言葉を反芻する。
答えなら、とくに探すまでもなく手元にある。
ずっと行けなかったから。保育園のお泊り保育でも、小学校の校外学習でも。みんなが楽しそうに向かったその場所に、わたしだけ、置いていかれたから。
そう胸の中で復唱してみて、だけど、と声が続く。
そんな場所、他にもたくさんあった。小学校での林間学校も修学旅行も。例のごとく、わたしはぜんぶ行けなかったはずなのに。
そのときのことはもう、わたしの記憶にはない。行けなくて泣いたのか、どんな気持ちでひとり家で過ごしていたのか。そもそも、林間学校や修学旅行ではみんながどこへ行ったのかすらも。わたしはなにひとつ、覚えていない。
覚えているのは、お泊り保育の日の朝、お母さんの腕の中から見た、バスに乗り込むかんちゃんの後ろ姿と。
――七海には無理だろ。
数年後に、校外学習の行き先が柚島と知って浮かれていたわたしに、かんちゃんが告げた、みじんも迷いのない否定の言葉。
強烈に記憶にこびりついて消えなかったのは、ずっと、ただそれだけだった。
……ああ、そうか。
気づいたとき、わたしはようやく理解した。答えがすとんと胸に落ちてきて、収まった。
十年間も、わたしが柚島のことだけ引きずり続けていた理由。
わたしが悲しかったのは、柚島に行けなかったことじゃない。
十年間、わたしがずっと引きずり続けていたものは。
わたしが、許せなかったのは。嫌いだったのは、ずっと――。
「……卓くん、ごめん」
今更見つけた答えに、なんだか途方に暮れた気分になる。うつむいて、わたしはぽつんと声をこぼすと、
「わたし、やっぱり柚島に行きたい。どうしても」
「うん。行こう」
唐突なわたしの言葉にも、卓くんは間を置くことなくはっきりとした声で頷いて、
「もし、七海が行けなくなった理由がお母さんたちに反対されたとかなら、俺もいっしょに話しにいく。納得してもらえるまで。俺もいっしょに頑張るから」
柚島に行けなくなった理由については話せずにいたのに、わたしがなにも言わずとも、卓くんは察していたらしい。
力強い口調でそう言った卓くんは、顔を上げたわたしの目を、まっすぐに見つめて、
「俺も、七海と柚島に行きたい。……どうしても」
その真剣なまなざしは、卓くんもなにかを理解しているように見えた。