「七海ちゃん、ねえ、本当に大丈夫?」
 転がってきたボールを足元で止め、理沙ちゃんが何度目になるかわからない質問を向けてくる。
 だからわたしもできるだけ明るい笑みといっしょに、「大丈夫だよ、本当に」と、何度目になるかわからない答えを返した。
 そんなにひどい顔色なのだろうか。鏡がないので自分ではわからない。
 けれどたしかに、こめかみのあたりはずっとじくじく痛んでいる。いつものわたしなら、きっと大事をとって見学するぐらいの体調だ。――今日が、三組との合同体育でなければ。

 ムキになっている自覚はあった。
 グラウンドの中央では、サッカーの試合が行われている。半分に区切ったこちら側では女子が、反対側では男子がそれぞれ試合をしている。そして試合に出ていないわたしたち残りの生徒は、グラウンドの空いているところで各々パスやドリブルの練習をしていた。

 今コートの中にいるのは四組で、坂下さんもそこにいた。
 普段は下ろしている長い髪をひとつに束ねた彼女は、明らかにやる気のない様子でコートの隅のほうに立っている。それでもさすがに棒立ちは良くないと思っているのか、ボールの動きに合わせて軽く走ったり、たまたま自分のところへ転がってきたボールをまたすぐにチームメイトへパスしたり、最低限の仕事はそつなくこなしているようだった。お世辞にも活躍しているとは言いがたいけれど、しっかりコートの中で動いてはいる。

 そんな坂下さんの姿を、わたしはつい目で追ってしまう。
 試合が始まってだいぶ経つけれど、坂下さんの顔はずっと涼しいままだ。息なんて少しも上がっていない。きれいに束ねた髪の一筋すら乱れていない。体操服を着ていても、なんの隙もない美少女という出で立ちは、いつもとまったく変わらない。

 ……健康、なんだろうな。
 ふいにそんなことを思って、ぎしりと胸の奥が軋む。
 健康で、かわいくて、頭も良くて。わたしが欲しいものをぜんぶ持っているような、そんな女の子。そんな子、なのに。なんで。
 ――なんでわたしの大事なものにまで、手を出すのだろう。

「あっ、七海ちゃん!」
「え?」
 胸の痛みに合わせてまたこめかみが鈍く疼いて、つい目を伏せてしまったときだった。
 理沙ちゃんの声にはっと我に返り、あわててまた視線を上げると、わたしの前にあったはずのボールが消えていた。後ろを見ると、グラウンドの端へ向かってぐんぐん走っていくボールの、遠ざかる姿があった。
「あ……ご、ごめんねっ」
 ぼうっとしていて、理沙ちゃんのパスを取り損ねてしまったらしい。
 わたしはあわてて謝り、ボールを追って走りだそうとした。けれど一歩足を前へ出した瞬間、大きく視界が揺れた。グラウンドがぐにゃりと歪む。顔からいっきに血の気が引く。あ、と思った次の瞬間には、膝と右手が地面についていた。
「七海ちゃん!?」
 驚いたような理沙ちゃんの声は、厚い膜を隔てた向こうから聞こえてくるみたいに響いた。視界にある黄土色の地面とわたしの右手が、ぐらぐらと揺れる。
「大丈夫!?」
 声を上げながら、理沙ちゃんがこちらへ駆け寄ってくるのがわかる。不明瞭な聴覚でもその声が大きいのはわかって、わたしはあわてて顔を上げようとした。大丈夫、と理沙ちゃんに伝えるために。けれど重たい身体は思うように動かない。

 だめだ。途端、息もできないほどの焦りが駆け抜ける。
「七海ちゃん!」
 理沙ちゃんがふたたび声を上げる。わたしを心配してくれている声。わかるのに、間近で響いたその声に、やめて、とわたしは思わず心の中で叫んでいた。
 ああ、だめだ。早く、早く起きなきゃ。早く立ち上がって、大丈夫だよと笑わなきゃ。わたしは元気なんだって見せなきゃ。
 それだけで頭がいっぱいで、わたしは必死に重たい頭を持ち上げる。ズキンと痛んだ額を押さえ、理沙ちゃんの顔を見ながら、「だ、いじょぶ」と声を押し出す。
「ちょっと、ふらっとしただけ。もう大丈夫」
 自分でもまったく説得力がないとわかる、掠れた声だった。どうにか作った笑顔も、引きつっているのがわかる。
 案の定、目の前の理沙ちゃんの硬い表情はまったく解れず、
「大丈夫に見えないよ! ね、あたしやっぱり先生呼んできたほうが……」
「いい、大丈夫。ほんとに大丈夫だよ」
 ただただ、理沙ちゃんを安心させたくて必死だった。いや、違う。理沙ちゃんの声を止めたくて、必死だった。笑顔を崩さないよう努めながら、何度も首を横に振る。
 だって、早く止めないと。理沙ちゃんの声が、彼に――

「七海」
 鼓膜を打った低い声に、どくん、と耳元で大きく心音が鳴った。
 息が詰まる。全身を巡る血液が、急速に温度を下げていく。
 ゆるゆると顔を上げれば、すぐに、こちらを見下ろす冷たい目と視線がぶつかった。
「あ、土屋くん」
 顔を強張らせるわたしの隣で、理沙ちゃんはどこかほっとしたように呟いて、
「あのね、さっき、七海ちゃんがふらついちゃって……」
「わかってる。七海、保健室行くぞ」
 投げつけるような声で言って、かんちゃんがわたしへ手を差し出してくる。その手を見て、わたしは急に泣きたくなった。ほら見ろ、と。低く吐き捨てるかんちゃんの声が、頭蓋の裏で反響したような気がした。

 咄嗟に顔を伏せ、「い、いい」とわたしは小さく首を横に振ると、
「ほんとに大丈夫だから。ちょっと休めば、すぐ……」
 続けようとした言葉は、そこで途切れた。わたしの言葉が終わるのを待たず、かんちゃんがわたしの腕をつかむ。驚くほど強い力だった。痛みに顔が歪んだのがわかったけれど、かんちゃんはかまわず腕を上へ引いた。力のない身体は、ぐいっと引っ張られるまま、持ち上げられる。
「行くぞっつってんの」
 低く繰り返された声に、再度首を振る余裕はなかった。急に立ち上がったせいで目眩がして、一瞬視界が暗くなる。拍子にぐらりとふらついた身体を、かんちゃんが慣れた動作で支えた。そのまま歩きだした彼の手を、振りほどくことなんてもうできなかった。足元は地面を踏みしめる感覚もないぐらい覚束なくて、きっとかんちゃんの手が離れればその瞬間に、わたしの身体はあっけなく倒れ込んでしまう。それが嫌になるほど、わかったから。

 ……どうして。
 かんちゃんに寄りかかるようにして歩きながら、悔しさが胸をつく。ふいに涙が込み上げそうになって、わたしは強く唇を噛んだ。
 歯がゆかった。
 どうしてわたしは、こうなんだろう。
 どうしてこんなときに、ひとりで歩けもしないのだろう。
 今だけ、せめて今だけは。
 ――かんちゃんにこんな姿、ぜったいに、見せたくなかったのに。